零、霧の中 槻柳勘直
ゆらゆらと揺らめく海面上を、群れなすカモメが飛び回る。潮騒が心地よいこの場所から海を眺めると、何故だかホッとするのだ。砂浜まで降りてしまえば制服が汚れてしまうから、こうして二人、防波堤に腰掛けながら海を――そうして空を見ていた。
「今日も、変なこと言うじゃん」
「そうか?」
そうだよ。そう言って陽介は、勘直の隣で立ち上がる。変なこと言うと言いつつも先に帰ったりしないのだから、陽介も人がいいと思う。
日の入りの近い海は今日も静かだった。つらつらと、今日学校で起きたことを思うにはもってこいの時間だ。そうして、同じことを考えていたらしい陽介が、勘直の肩を軽くひっつきながら言う。
「劇、楽しみだねぇ」
「あぁ……」
そだなぁと上の空で返す。陽介が鼻歌交じりに視線を戻していく。
陽介が言ったのは、今日クラスで決まったことについてだ。劇をやろう。そう決定したのは二時間近く前だったか。高校三年の文化祭、最後の一年を飾るクラスの出し物。それが今日、劇をやることになった。内容は追々決めていくにしても、今年の文化祭は中々に忙しくなりそうだ。
「まぁ三年生だから、そんなに一生懸命はやらないのかもだけどな」
どうなんだろうと考えていると、再び陽介が勘直の名を呼ぶ。
「勘直はさ、何で今年、文化祭委員になろうとしたの」
「何で、って」
「だって、今年は一番大変な年だろうに」
そんなもんなのかな、と勘直は思った。
「理由はもう覚えてないなぁ」
陽介が首を傾げてこちらを見ている。思わず苦笑を漏らした。役員を決めたのは、それこそ年の初めだ。流石に覚えてない。
「やるからには頑張らないとなぁとは、思うけど」
実のない言葉だと思いつつ、そう漏らしてみる。だけれど陽介は、神妙な面持ちで頷いてみせる。相変わらず真面目だなと思っていると、次の瞬間陽介は思いもしない言葉を口にし出した。
「僕、今年は主役やろうと思う」
「へー…………ぇ?」
思わず陽介のことを二度見した。陽介が照れくさそうに笑う。前から考えていたのだと言って、そっとはにかむ。
「最後の文化祭、出し物に限らず中心に出て行こうって。そう決めてた」
「何で、また」
「それはまだ秘密」
そう言うと陽介は、意地悪な笑みを浮かべて背を向ける。顔だけこちらに向けながら帰ろうと呟き、ブロックの上、両手を広げて歩き出す。バランスを取るように、そうして、それはあたかも飛び立つ鳥のように。
勘直も後を追って立ち上がる。それからはずっと他愛ない会話をして帰った。いつも通りの風景。変わらない日常の形だ。
だけれど勘直は、心の中でずっと陽介の言葉を反芻していた。
「姉ちゃん、風呂あいたよ」
ソファで寝転がりながら、テレビを見ている姉に声をかける。姉は気のない返事をするだけで、こちらを向こうともしない。ボーっとテレビを見つめたままだ。
暇だなぁと思いながら部屋を去ろうとすると、後頭部に何かが当たった。落ちたそれを拾ってみると、透明な袋にクッキーが三枚入っていた。
「何これ」
投げた本人である姉に聞けば、「母さんからもらった」とだけ返事があった。きっと職場で作ったのだろう。貼られたひよこのシールが妙に愛らしい。
「ありがと」
短くそう告げてから、勘直は自分の部屋へ向かった。
扉を開け、何するでもなくそのままベッドに倒れこんだ。マットレスの軋む音。勢いつけすぎたかなどと思いながら仰向けになる。天井を見上げながら、夕方陽介の言っていた言葉を思い返した。
『今年は主役やろうと思う』
別に何でもない言葉だ。だけれど、それが陽介の口から出てきたのかと思うと、とても不思議だった。あんなこと言う奴だったかなぁと、そればかり考えている。
勘直と陽介は、小さい頃からの付き合いだ。親によれば幼稚園に入る前から。親同士の仲が良かったことから、家族ぐるみの付き合いをしている。家が近いこともあって、二人は兄弟同然のように育ってきた。加えて、勘直と陽介は小中高とずっと一緒に進んできた。陽介のことは本当の家族のように分かっているつもりで、だからこそ不思議だった。人懐っこい割に人見知りで、いつも勘直の後ろに隠れているような奴だったから、主役をやりたいなんて、言うとは思わなくて。
(……陽介も、色々考えてるんだな、とか)
そんなことを、ずっと考えているわけで。
先程姉がくれたクッキーを一つ、口の中に放り込む。サクサクとして甘かった。続けて残りの二つも口に入れた。甘いはずなのに、今はその甘さも素直に楽しめなかった。
クッキーを食べている内にふと、陽介には何か目標があるんだと思い始める。不思議な反面、すごいなと思った。やりたいことがあるんだ、目標があるんだなと。少し感心していた。
だけど、同時に。
(……俺は、何をやりたいんだろう)
少しだけ、不安になった。漠然と、霧の中を歩くようなあてどもない不安を覚えて、勘直はそっと目を瞑る。俺は、何をやりたいのかな。
『やるからには頑張らないとなぁとは、思うけど』
気付けば陽介に言い放ったその言葉ばかりが、頭の中を飛び回っている。