6 夢見草の夢(Ⅰ)
シェリンは、夢見草の彼岸の夢に沈み、遠い夢を見ていた。
彼女はベッドで目を覚まし、壁のカレンダーの表示に目をやった。地球暦2154年6月9日、午前6時50分、気温は摂氏22度、湿度55%、予想天気は快晴。
「地球での最後の日が、気持ちよく晴れて良かったわね」
ルームメイトに声を掛けられた。
「地球での最後の日?」
彼女は、ぼんやりと繰り返す。
「ユエファったら、どうしたの? 変な夢でも見て寝ぼけた? 今日、私達はホープ号に乗るじゃないの」
彼女はようやく思い出す。
ああ、そうだった。私の名は
「ええ、変な夢を見た気がするわ。そのせいで、ぼんやりしてしまったのね」
ユエファは、まだ少しぼんやりして答えた。
「どんな夢だったの?」とルームメイトが尋ねる。
「はっきりとは思い出せないけれど、私、知らない惑星で、歌を歌っていたみたい」
「移民した先の惑星で、もしかしたら、本当に歌手になるかもね」
「まさか、人前で歌うなんて苦手だわ。ただの夢よ」
ユエファは笑って答えた。
長い黒髪を夜風に吹かせ、星空を見つめて過ごす
カリフォルニア工科大学で天文学を学びながら、彼女は花壇や温室の管理も手伝っていた。彼女が播いた種は育ちが良く、彼女が水をやれば、枯れかけた植物も生き返り、見事な花を咲かせた。
星を語り花を愛する彼女は、少し変わり者であったのかもしれない。どこかに帰りたいという自分でもわけの分からない想いは、子供の頃から消えることがなかった。
「ホームシックじゃないの?」と、よく友人に笑われたものだった。
「帰りたいわ。でも、どこに帰りたいのか分からない」
ユエファは、そう答えるしかなかった。
「中国でしょう? それとも、お母様のお国の日本かしら?」
「きっと中国でも日本でもないわ。目を瞑ると、浮かんできそうな気がするのだけれど、やっぱり思い出せないのよ」
「だって、アメリカ以外には、どこか他の国に住んだことは無いんでしょう?」
「ボーイフレンドでも作ったらいいのよ。理想が高過ぎると、そのうち後悔するわよ」
「理想とか、そういう訳じゃ無いの。みんな優しくていい人達だけれど、誰に会っても、なんだか違うって感じるのよ」
いつだったか、そんな会話をしたと思い出す。
カリフォルニア工科大学にはアジア系が3割以上もいて、ユエファは決してマイノリティーではなく、学生生活は孤独でもなかったのだが、それでも、訳の分からぬ想いが消えることは決して無いのだった。
心のどこかの、時々ふっと水底から浮かび上がる泡のような、木の葉を揺らす風のような、胸を刺す針の痛みのような……。
ユエファは大学を卒業し、大学院に進み、勉学と研究に打ち込んでいたが、博士課程を終えることは出来なかった。
それまで順調であった両親の経営する会社が、莫大な負債を負って倒産したのだ。原因は、コンピュータの異常による経理上のミスから信用を失ってしまったことにあるようだったが、取締役社長であった父親は自死し、残された母親も病に倒れた。ユエファが学問を続けるのは不可能だった。
「母さん、宇宙に行きましょうよ。火星移住計画はまだ進んでいないし、月や宇宙コロニーに移住するにはお金が必要だけど、ホープ号計画というのがあるの。遠くの11.8光年離れた鯨座タウ星に、地球そっくりの美しい惑星が在るんですって。移住者を募っているわ。何十年も冬眠しながら行かなきゃならないけど、支度金も出るから残りの借金も返せる。そこで一からやり直しましょうよ」
病床にあって肩を落とした母親に、ユエファは笑顔で語り掛けた。
「地球を離れるのかい?」
母親は不安げに顔を上げた。
「大丈夫よ。タウ・ケティは第二の地球になるのだから。ノアの方舟のように、動物や植物をたくさん積んでいくのよ。細胞を保存してクローン技術で再生させるのだけれどね。宇宙船の中では三十年くらい経過するけれど、人工冬眠槽の中で眠っているのだから、ほんの一日と同じよ。宇宙船に乗って、柔らかな寝床で眠って、目が覚めたら、そこはもう新しい地球なの。昔の地球のような、青い美しい海と、白い砂浜と、どこまでも広がる青い空と、白い雲と、緑の草原と、お花畑と……」
「素敵だわねえ、そんな星で、もうずっと雲でも眺めながら、ゆっくり過ごせたらいいねえ。だけど、母さんには無理だよ。もう病気は治らない」
「そんなこと無い。きっと元気になれる。だから、一緒に行こうね。父さんの写真を持って」
けれど、その日を待つことなく、母は帰らぬ人となった。ユエファは、父と母の遺骨を分骨し、小さな容器に入れて、旅立ちの小さな荷物に入れた。
ホープ号は、地球からではなく、宇宙ステーションから出発する。移住者達は、宇宙ステーションで身元確認と手続きを済ませて荷物を預けると、あとは指定された時間に人工冬眠準備室に入ることだけとなる。
手続き終了後から人工冬眠準備室への入室までの数時間、ほとんどの移住者達は、展望室に立ち寄り、見納めになるであろう地球を眺める。ユエファもまた手続きを終え、三方が透明な硬化プラスチック張りの展望室に向かった。
地球は汚れたという。昔はもっと青く澄んで美しかったと。ユエファの目には、それがどれくらいの違いなのかは分からない。地球はやはり青く美しいとユエファは思った。
気が付くと、ユエファは、宇宙ステーションのざわめきの中に居た。一緒に手続きを済ませたはずのルームメイトの姿は見えず、ユエファは一人で、硬化プラスチック張りの展望室の椅子に腰掛けていた。手続き終了時に身分証チップが埋め込まれた左手の甲には、まだ微かな針穴が残っている。
ユエファは思い出した。人工冬眠準備室の順番がユエファよりも早かったルームメイトは、先にエレベータに乗って人工冬眠準備室に向かったのだ。タウ・ケティに着いたら、また会えるだろう。
「お手続きを終了されたホープ号移民の皆様、どうぞお時間をお確かめの上、お早めに人工冬眠準備室へお向かい下さい。混雑を防ぐ為、どうぞ御協力下さい」
ざわめきの中で、アナウンスの声が聞こえていた。
ユエファは椅子から立ち上がる。そろそろ人工冬眠準備室に向かわなければ。
「見て。あの人がメイン・パイロットのリース・イルリヤよ。素敵ね」
誰とも知れない声にユエファが振り返ると、すらりとした
ステーションには、ホープ号の
関係者以外立ち入り禁止のドアの向こうに吸い込まれていくリース・イルリヤの彫像のような端正な横顔が、一瞬だけユエファの視界を横切った。北国の融けることの無い氷河のような深い青色の瞳が、その一瞬だけ、ユエファを見たような気がした。いや、きっと気のせいだろう。
ユエファはゆっくりと視線を戻し、正面を見た。そこに、人工冬眠準備室に続くエレベータがある。
エレベータに向かって歩き出したユエファは、ふと視線を感じた気がして、再び振り返った。しかし、誰も居ない。
きっと、地球を離れるから、ナーバスになっているのね。
ユエファは、ふーっと息を吐いた。
もう振り返らずに歩き出そう、未来へと。
正面に向き直ると、誰もいなかったはずのユエファの目の前に、見知らぬ人が立っていた。
長い銀髪の青年、それとも、女性なのだろうか。民俗調のような衣服を身に付けていたが、もっと風変わりなのは、銀髪とは不釣り合いな赤銅色の肌と、その肌の色には有り得ないような朱金の瞳だった。
とは言え、世の中には様々な人種がある。混血の進んだ現代、髪や肌や瞳の色など、どんな組み合わせがあっても不思議は無い。
そうは思うが、これだけ目立つ彼を、周囲の誰一人として見ていないらしいのは、不思議にも思えた。まるで、ユエファ以外にはその人物の姿が見えていないかのように。
「ユエファ、君もタウ・ケティの移住者に決まったね?」
誰? わたしを知っているの? わたしと同じタウ・ケティへの移住者?
相手は、独り言のように、ユエファには意味の分からないことを口にした。
「間に合った。ともかくこれで地球に手を出せる。地球文明は負のエネルギーを増大させ、宇宙のバランスを危うくしている。このままでは危険な存在」
この人は、一体何の話をしているのだろうか。
「何の話? あなたは誰?」
ユエファは不審に顔を曇らせる。
相手は、謎めいた笑みを口元に浮かべてユエファを見た。その朱金の瞳に魅入られ、ユエファは意識が次第に遠くなるのを感じた。
周囲の人々の動きがスローモーションのように遅くなり、それまで聞こえていた会話の声は歪み、ざわめきも消えていった。ユエファは、ただ一人宇宙空間に浮かんでいた。ユエファの意識はさらに遠のき、意識を失ってしまうかと思えた。
遠くから不思議な声が響いてきた。
―地球に干渉しようとしても出来なかったのは、何かの力が邪魔しているせいだとは分かっていた。しかし、それがお前のような娘のためだったとは。無意識にとは言え、お前は既に“マナ”の力を発現させ始めている。その力が、周囲の者達の無意識の力を束ね、地球をバリアのように守っている。
私の力をも跳ね返すその力は、一体どこから来るのだ? お前の胸に積もる寂寞、お前の魂に蓄積されたストレスから来るのか?
お前の過去を辿ろう。どこにその秘密があるのか。そして、お前の未来を辿ろう。お前のその“マナ”の力が極大に達し、エントロピーの減少を最大限に引き起こせるのは何時なのか……
「一体何の話をしているの? あなたは誰? わたしは何故こんな場所にいるの? それともこれは夢?」
ユエファは、どこからともなく響いてくる声に問うた。
ユエファの前に、再び、謎めいた人影が現れた。謎めいた微笑がユエファを見つめる。
「娘よ、これは彼岸の夢の中。さらに深く、過去世の夢へと沈むのだ。お前の捜す唄も見つかるだろう」
謎の人影は、ユエファの目の前へ手を伸ばした。