5 アルティマの海(Ⅱ)
ロウギ・セトの無意識の意識体は、人工知能アルティマの膨大な情報の海の底から、渦に巻き込まれて回転しながら、うっすらと意識を取り戻した。
渦は徐々に弱まりつつあるようではあったが、なお巨大で激しく回転し、自力での脱出は不可能なようだった。再び意識が遠のきそうになった時、あのしなやかで美しい銀白色で薄青で鮮紅色の“リュウグウノツカイ”が現れた。
リュウグウノツカイは、巨大な渦をものともせずに飛び込んでくると、その大きな口でロウギ・セトの意識体を
その光は、まるで天上から降り注ぐ天使の
ロウギ・セトの意識体は、その白明光の中をゆっくりと浮上しながら、やがて再び意識が薄れる。
気が付くと、彼は、泉のほとりの、寄り添うように立つ二本の沙羅の木の幹に背中を預け、辛うじて身を起こして座していた。
森の中にひっそりと湧く澄んだ泉の上には、美しい二重の虹が架かっていた。
彼は、遠い記憶の中で、二重の虹を
ほとりに沙羅の花咲く泉と、
一年中美しい二重の虹が架かるナーランの谷という場所があり、それは、ナーランの谷が神の祝福を受けた永遠の里である
彼の金色の髪は紅に染まり、その傷のせいか視界も徐々に定かでは無くなっていったが、咲きこぼれる沙羅の花の白さだけが眩しく、ほのかな香りが漂うのが感じられた。
彼は、泉に片手を差し入れ、冷たく澄んだ水を一口だけ飲んだ。もう一方の腕は、矢傷を受けて動かないのだった。
ぽとん……
白い花がひとつ、その形を保ったまま、澄んだ泉の面に落ちた。
最早これまでか、と彼は思った。
北の国と西の国との
森の方から、誰かが近付いてくるらしい足音が聞こえた。追っ手であろうか。
痛みに顔を強ばらせながら音の方に目をやると、草むらに、
娘は、両腕に野花の
彼は沙羅の木の幹に背中を預けたまま、力なく微笑みを浮かべた。娘を安心させようと思ったのだ。
「これほど美しい場所を僕は他に知らない。虹は神に祝福された印なのだというが、この景色を目にすることができた僕もまた幸運なのだろう」
そう、この美しい景色の中で死ねるのならば……。彼は、心からそう思った。最期の場所がここで良かったと。
娘が、やがて戸惑いながら口を開いた。
「……あなたは、もしかして、アスナール?」
その声が、彼の胸の内に、懐かしい光を蘇らせる。
ああ、そうだった。どうして自分の名を忘れていたのだろう。アスナール、そうだ、それが自分の名前だと。
そして、目の前の娘は……幼い頃に兄妹のようにして育ち、
「エルリーダ……なのか?」
アスナールがそう呟くと、娘は、手にしていた野花の籠を取り落とし、アスナールのそばに駆け寄った。
「アスナール、きっとまた会えると思っていた」
アスナールは、瞳を凝らして娘を見つめた。娘もまたアスナールを見つめていた。幼い頃の面影の残る、それは確かに、美しく成長したエルリーダの姿だった。
「
安堵のためか、アスナールは急に意識が薄れていくのを感じた。エルリーダが自分の名を呼ぶのを遠くに聞きながら、アスナールは、自分の長い旅路もこれで終わるのだと思った。実はまだほんの始まりに過ぎないことを、この時のアスナールは知らなかった。
その後どうやって運ばれたのか、アスナールは覚えていない。意識を取り戻すと、彼は岩屋の中に寝かされていた。その岩屋には僅かながら清水も湧き出しており、また、天井の崩れた部分からは光も射し、人知れず体を休めるには適した場所のようだった。
崩れかけた遺跡の中にあるこの場所は、滅多に人の来ない場所だから安心して良いと、エルリーダは言った。
エルリーダの手厚い介抱を受けながら、アスナールは昔を思い出していた。
二人は東の国の村に住み、互いの両親とともに幸せに暮らしていた。もし、西の国と北の国が戦を始めなければ、その幸せは永遠に続いていただろう。
北の国は西の国に対抗するために東の国を攻め、戦火に追われた村人達とともにアスナールの家族とエルリーダの家族も、ともに南の国へと逃れた。
しかし、南の国は既に西の国と結んでおり、アスナールもエルリーダも、家族とともに西の国の兵に捕まってしまったのだった。アスナールが今ここにあるのは、捕虜の列が崖路を通った際に、兵に急かされ、誤って足を滑らせて崖から落ちてしまったからだった。幼く体が軽かったためか命だけは助かったが、崖の底で気が付いた時、彼は家族ともエルリーダとも永遠に会えないかもしれないことを知った。
戦禍をくぐり抜けながら生き延びたアスナールは、家族やエルリーダとの再会を夢に見ながらも、叶わぬだろうと諦めかけてもいた。エルリーダとの再会は、まさに奇跡だと、アスナールには思えた。
エルリーダは、神殿の務めの合間を縫っては、アスナールの世話をしてくれた。
アスナールが崖から落ちてしまった後、エルリーダと両親は、他の捕虜達とともに逃亡を図ったのだという。しかし、その途中でエルリーダは激流の川に転落してしまい、溺れて流れ下ったところを、幸か不幸か旅の神官に助けられてナーランの谷に連れてこられたのだという。
今は見習いの巫女として神に捧げる祈りの歌と舞踊を習い、谷での暮らしは辛いものではないが、東の国でのしあわせな日々を思い出さない日は無かったと、エルリーダは語った。
アスナールは順調に快復していき、動けるようになると、岩屋の奥の崩れかけた壁に描かれた古代の壁画に興味を持った。アスナールには、そこに刻まれた神代文字を読むことは出来なかったが、神殿に仕えて修行をしているエルリーダには読むことが出来た。
それは伝説の創世神話だとエルリーダは語った。
光無く闇無く時間無く言葉も無かった
只一つ神の存在のみだった
神の息吹がそこに或る結晶を生み出した
始めその結晶は燃える瑠璃のように清らかで美しかったが
ナーヤとマーラの二つの力のせめぎ合いの中で
常に不安定な存在だった
そこで神はその結晶を聖櫃に納めて鍵を掛け
デュ=アルガンの神殿の奥深くに隠し
ナーサティアに守らせた
けれどエラム・ミウが訪れた時にその結晶は爆発し
光と闇とを分けて全てを呑み込んでしまった
ナーサティアは今も見守っている
燃える瑠璃のように美しい結晶を取り戻そうとして
壁画を読み終えると、エルリーダは目を伏せて語った。
「この宇宙は、ナーヤの力とマーラの力のバランスの元に成り立っているのだそうです。元々この宇宙は無から作られた。だから、いつかバランスが崩れた時、この宇宙は消滅し、無に還ると。ナーヤの力が勝れば、愛と平和が世界を覆い、文化が花開き、人々は健康で、作物は豊かに実り、町は発展し、花が咲き乱れる。マーラの力が勝れば、憎しみや恨みが世界を覆い、治世は乱れ、争いが起き、町や野山は焦土と化す。セナンの歴史もその繰り返しだった。わたしたちナーランの谷の者は、ナーヤの導きのまま心静かにアル=シュカルの泉の上に掛かる二重の虹に祈る。安らかな時が続きますようにと」
そして、アスナールは、エルリーダの歌う、古い言葉で歌われる祈りの唄に耳を傾けた。
美しい言葉と素朴な旋律の、語り掛けるような唄であった。
シェーラ・リム・アルジーカ
シェーム・リム・アルジーカ
プレーゼ・ドゥ・レ・メサージュ・ミア・ジェーレ
トル・ミア・ユジューネ・ダ・モーレ
トル・ミア・ユジューネ・デ・トゥレ・ディーナ
コーム・トル・レ・トローム・メナーム……
アスナールが唄の意味を問うと、エルリーダは語り聞かせた。
陽光の虹に咲く沙羅の花よ
月光の虹に咲く沙羅の花よ
どうか私の想いを伝えておくれ
私の愛しいあの人に
私の愛するふるさとに
安らかな夢訪れますように……
翌朝、花と食べ物を持って岩屋に入ってきたエルリーダの背後に、アスナールは、見知らぬ男の姿を見た。
その男の身なりは、風雪に晒されて古びてはいたが、元は立派な物であったに違いなかった。それなりの身分を有する人物かと思われたが、厳しい顔つきからは、敵なのか味方なのか、判別することは出来なかった。
警戒するアスナールに、男は腰を屈めて告げた。
「私は、東の国の大臣の息子でガンダイルという者。この近くでアスナール様らしき若者を見たと風の噂に聞き、ここまで参りました。東の国では王が陣没され、年若い王子も北の国に連れ去られ、このままでは東の国は滅びるしかありません。密かに森番の子として育てられたアスナール様に是非ともお帰りいただきたく、お捜し申し上げておりました」
男は懐から鈍く光る古びた銀の指輪を取り出して見せた。そこに刻まれた紋章は、確かに東の国の王家のものではあった。
「僕の育ての親は、確かに森番だった。その指輪も本物かもしれない。だが、それだけで信じることは出来ない。話は
アスナールには、そう答えるしかなかった。
「アスナール様、ごもっともです」
ガンダイルと名乗った男は言った。
「あなた様は王子としてお育ちにはなりませんでした。しかし、それは、母君様亡き後の新しい王妃殿下による暗殺の手からお守りする為に、亡くなられたと偽って、森番夫婦に託されたからなのです。この度父君が亡くなられ、年若い王子殿下は北の国に連れ去られ、この上は、王家の血筋を受け継ぐアスナール様をお探しし、御一緒でなければ帰らぬ覚悟で国元を旅立ちました。今、東の国は戦火に荒れ果てておりますが、アスナール様がお戻り下されば、民は必ずや希望を取り戻し、北の国を押し返して、元の豊かな国へと復興できるに違いありません。どうか、ともにおいで下さい」
「同じ名前の別人かも知れない」
アスナールは首を振る。
「確かめる術《すべ》がございます」
ガンダイルが、低く力強い声で言う。
「大臣であった私の父は、アスナール様の御様子を気に掛け、旅の途中を装って密かに森番夫婦を訪ねたことがございました。お小さいアスナール様は、右腕に三日月形のあざを持つ小さな少女と兄妹のようにして遊んでおられたと。そのような少女に心当たりはございませんか」
アスナールは、驚きを隠すことが出来なかった。兄妹のようにして育ったエルリーダの右腕に珍しい月の形をしたあざがあったことを、思い出したのだ。
「確かに、妹のように親しんだエルリーダには、月の形のあざがあった」
エルリーダも驚いているようだった。エルリーダが
ガンダイルは両眼から涙を零し、感激に打ち震えながら、アスナールの両手を取って握りしめた。
「やはりアスナール様であった。よくぞ御無事で。御立派になられた。皆が待っています。さあ、私とともに参りましょう」
「でも、この方は、まだ長旅が出来る程には回復なさっていないのです」
震える声で言うエルリーダに、ガンダイルは告げた。
「北の国の兵がアスナール様の存在に気付き、先手を打って刺客を放ったとの情報を得た。ここに居ては危険なのだ。私の兵達が国境の森で待っている。アスナール様に御無理はさせない」
「僕にはまだ信じられない。しかし、もし本当に僕が王の息子なら、跡継ぎの王子殿下が戻られるまでの間だけでも、国を支えなければならないだろうか」
「どうぞ、民草に希望をお与え下さい」
「この僕に、そんな力があるだろうか。希望を取り戻せるだけの」
「あなた様以外に、それが出来る御方がどこに居られるでしょう」
大臣の息子ガンダイルに急かされ、アスナールは直ちに出発することとなった。
「やっと会えたのに、アスナール。あなたがどこの誰でもいい。行かないで。どうしても行かなければならないなら、私もともに……」
エルリーダが両目に涙を溜めて言った。
「僕も行きたくはない。君とともに平和な東の国に帰れるならどんなに良いだろう。しかし、まだ国は荒れている。途中にどんな危険があるかも分からない。だから、エルリーダ、君はここで、あの泉のほとりで待っていてくれるだろうか。きっと帰ってくる。約束するから」
「ずっと待っているから。だから、きっと無事で戻ってきて」
アスナールとエルリーダは、互いに目と目を見交わして誓った。
アスナールは、自らの足でしっかりと歩き、悲しみをこらえて笑顔で見送るエルリーダを残して、ガンダイルとともに国境へと旅立った。
国境の森に近付いた時だった。一人の男を乗せた速駆けの山鹿が疾風のように近付いてきた。
男は片目を失っており、痛々しいまでに傷付き疲れた様子だったが、アスナールとガンダイルのそばまで来ると、まろぶように山鹿から降りて叫んだ。
「エルリーダ様をどこへ連れ去ったか!」
アスナールは、わけが分からず男に問うた。
「あなたは何者か?」
「私は西の国の大臣の息子トウレイク。幼い頃に夜盗に連れ去られた西の国のただ一人の姫君であらせられるエルリーダ様の行方を捜し、ここまで来た。ナーランの谷におられると風の噂に聞き、ようやく訪ねたが、すでに北の国の兵に連れ去られた後だった。北の国は、エルリーダ様を盾に取って西の国に攻め入るつもりに違いない。エルリーダ様はどこだ」
トウレイクと名乗った男は、半狂乱で叫んだ。
「そんなはずは無い。エルリーダは泉のほとりに程近い岩屋に居るはずだ。そこで僕の帰りを待つと約束した。それとも、あれは、エルリーダ本人を確かめるための作り話で、僕はまんまと
混乱するアスナールの横で、ガンダイルが笑い声を上げた。
「今さら遅い。すでに俺の仲間がエルリーダ姫を北の国へと連れ去った。速駆けの山鹿など比べものにもならない風鷲の背に乗せてな」
アスナールは愕然とした。自分は何故ガンダイルと名乗る男の言葉を信じてしまったのか。なんと愚かであったことか。しかし、悔いるよりも、今為すべきことは一つしか無い。
アスナールは、安心しきって高笑いするガンダイルの横腹に渾身の一撃を与えて昏倒させると、トウレイクに言った。
「その山鹿と背中の弓矢を貸して欲しい。エルリーダは必ず助ける。この命に代えても」
アスナールは、弓矢を背に負い、山鹿にまたがった。
「走れ! 北の国へ!」
山鹿は北の国への山野をひた走った。木霊《こだま》のように谷を越え、疾風のごとく山肌を駆け上った。山鹿でさえ超えられぬほどにそそり立つ国境の山脈にたどり着くまで。
氷に閉ざされた最果ての北の国は、山脈の向こうにある。アスナールは山鹿を放して帰した。この後は、自らの手と足だけが頼りだった。
僅かな灌木さえも無くなり、万年雪が積もり、吹雪が吹き荒れていた。吐く息さえも凍る寒さの中を、アスナールは、半ば雪に埋まりながら尾根を目指した。雪さえも無い乾いた岩地がさらに続いた。
アスナールは歩き続けた。一刻も早くエルリーダの元に行かなければと、ただそれだけを考え、ひたすら歩き、岩を登った。
ようやく尾根を越え、白夜に照らされた氷の平原が見えてきた。
早くエルリーダの元へ。すでに北の国の都に連れ去られただろうか。この氷の平原の果てへと。
氷の平原に踏み出したアスナールの目の前に、黒く長い乱れ髪がこぼれ落ちた。
はたと立ち止まって目を上げると、長い黒髪を乱し、瞳を閉じた青ざめた顔のエルリーダが、何者かの腕に抱きかかえられていた。その何者かは、驚くべきことに、氷の平原の上ではなく、アスナールの目線の高さに浮いていた。
エルリーダを脇に抱えた何者かが振り返る。燃えるような朱金の瞳が、射るようにアスナールを見据え、アスナールは動けなかった。
その何者かは、声を立てずに笑っていた。そして、歩くわけでもなく、こちらを見たまま流れるように遠ざかっていく。
「待て、エルリーダをどこに連れていくか!」
アスナールは叫び、急いで弓に矢を番《つが》えた。
放たれた矢は、エルリーダを抱えた何者かの胸を通り抜け、虚空に弧を描いて氷原に突き刺さる。
エルリーダを抱えた何者かは、銀色の長い髪も赤銅色の肌も闇に溶け、その向こうに、無限に広がる星空があった。
「エルリーダ!」
アスナールは、残る力を振り絞って絶叫した。
エルリーダの姿も、連れ去った何者かの姿も、すでにアスナールの視界から消え去り、遮るものの無い氷原と星空だけが広がっていた。