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7 アルティマの海(Ⅲ)

 ロウギ・セトの意識体は、人工知能アルティマの膨大な情報の海の中で、緩やかな浮き沈みを繰り返しながら、記憶を手繰り寄せようとしていた。“リュウグウノツカイ”のような形をしたモノが、ロウギ・セトの意識体に向かって泳いで来ようとしている。

 突然、矢のような稲妻が、辺り一面を切り裂いた。それは、ロウギ・セトの意識体のみならず、近付こうとする“リュウグウノツカイ”をも攻撃するように、切れ間なく空間を切り裂く。
 ロウギ・セトの意識体は、矮小である故か、かろうじてその矢に打たれずにいたが、彼よりも巨大な“リュウグウノツカイ”は、容赦のない攻撃を避けようと身をくねらせていた。ロウギ・セトの意識体は彼を救いたいと思ったが、どうすることもできない。
 “リュウグウノツカイ”は、やがてその刃のような光に切り裂かれ、悲鳴のような音を発した。殆んど同時に、ロウギ・セトの意識体もまたその矢に刺され、無意識へと沈んでいった。



 うつ伏せに倒れていた彼は、辛うじて身を起こした。
 体は悲鳴を上げるように痛み、思うようには動かせなかったが、それでも、周囲を警戒しなければならない。
 彼が倒れていたのは、泉のほとりのようだった。いつの間にこのような場所に来たのか、彼には思い出せなかった。
 見上げると、寄り添うように立つ二本の沙羅(サラ)の木が、僅かに黄みがかった白い花を零れるほどに咲かせ、泉の対岸には美しい二重の虹が架かっていた。この世とも思えないほどの美しい光景。いつか何処かで見たことがあるような気がしていたが、思い出せずにいた。既視感(デジャヴュ)というものなのかと、彼は思う。

 遥かな昔、一年中美しい二重の虹が架かる永遠の里があったという。伝説によると、それはナーランの谷と呼ばれる場所で、虹は神の祝福を受けた印であるという。
 しかし、彼が今目にしているものは、本物の景色ではない。幻影なのだ。

 彼は、まだ子供の頃、生まれ故郷から連れ去られ、宇宙船に載せられて、開拓惑星での強制労働を強いられた。十分な空気や水も無い荒れ果てた不毛の惑星で、番号で呼ばれ、自分の名も忘れ、狭い坑道を行き来しては鉱物の採掘をし、空を見上げることも無く月日が流れた。怪我をするたびに、彼の体は人工物に置き換わっていき、それでも、狭い坑道を行き来できる子供の労働者を、鉱山主は決して手放そうとはしなかった。僅かな食料と水で働く人間の子供の労働者は、自動機械よりも遥かに安価だったのだ。

 彼のただ一つの望みは、もう一度だけでいいから、再び故郷の青い空を見ること。今ではもう思い出せない少女と遊んだ、故郷の花咲く草原の風に吹かれて。

 彼は、脱走し、鉱物を運ぶ宇宙貨物船に密航し、故郷の惑星セナンに戻った。

 彼は、思いもしなかった。あれほど帰ることを望んだ故郷の惑星が、変わり果てた姿になっていようとは。
 彼は、擦り切れた記憶を頼りに故郷を捜しながら、徐々に事情を知る。
 人口の爆発的増加により食料や物資が不足し、それは独裁や反乱を招き、さらに、人々を苦しめる未知の病原性ウイルスによって世界は分断され、多くの難民と暴徒を生み、荒廃した無法地帯が広がり、かつて繁栄した多くの都市が瓦礫と化してしまったということを。
 瓦礫を根城に略奪を生業とする暴徒達から逃れ、漸くここまで辿り着いたが、ドーム都市入り口のセキュリティをどうやって突破したのか、彼は覚えていなかった。おそらくは世界で唯一、今も高度な都市機能を保っているドーム都市なのだろう。暴徒に襲われる心配のない場所にいることだけは確かなようだったが、故郷へ帰りたいという望みは絶たれたようだった。
 もう一歩も動くことは出来そうにない。

 ぼんやりとした視界に映る夢のように美しいこの景色は、市民の心の平安の為に機械が作り出した幻影、まさに夢なのだ。目の前にある澄んだ泉の水も、手の平にすくうことが出来たかに見えても、のどの渇きを潤すことは出来ない。

 どこからか、ほのかな香りが漂っていた。この立体映像には香りも付いているらしい。見上げると、咲きこぼれる沙羅の花の白さが眩しく、体力を消耗しているせいか、視力はぼやけていた。

 ぽとん……

 僅かに黄みがかった白い花がひとつ、その形を保ったまま泉の面に落ちた。もちろん、これもまた幻影だ。

 ああ、まただ。彼は思った。たくさんの沙羅の花が、水面に漂い、何処かへ流れていく。確かに何処かで見たと。
 それにしても、自分は何故、この花の名が沙羅だと知っているのだろうか。

 森の幻影の辺りから、誰かが近付いてくる足音が聞こえた。ドーム都市の管理局員だろうか。無許可で侵入したために、連行されるのだろうか。
 暴徒に襲われた傷の痛みに顔を強ばらせながら、彼が音の方に目を遣ると、草むらの中に、射千玉(ぬばたま)の長い黒髪を風に靡かせた娘が佇んでいた。娘は、両腕に花を抱え、驚いたように瞳を見開いて彼のほうを見ている。

 これも幻影だろうか。誰かに似ている。故郷でしあわせだった頃、数日の間だけ共に遊んだあの少女だろうか。けれど、もう顔も名前も思い出せはしない。
 きっと自分は、傷のせいでまた夢を見ているのだと、彼は思った。
 娘が口を開いた。
「……あなたは、もしや、〇〇〇〇〇?」
 娘が自分を何と呼んだのか、彼には聞き取れない。夢の中でも、自分の名を思い出せないのだ。
 せめて、あの少女の名前だけでも思い出せたらよいのに……。
「〇〇〇〇〇……なのか?」
 記憶の底から、ぼんやりと浮かび上がろうとするその名前を、彼はやはり思い出せなかった。

 かつて、惑星セナンは美しい水と緑に恵まれ、風が巡り、文明が発達し、都市が栄えていた。まだ少年であった彼が暮らす故郷、名前は、そう、“太陽の都”レムリス、そこに、大興行団と共にやってきた少女。それが彼女だった。
 運命のように出遭い、互いに不思議な懐かしさを胸に抱いた二人だったが、共に過ごすことができたのは、ほんの数日だけだった。
 出会って間もない二人を引き裂いたのは、天変地異とも言える災害だった。太陽黒点に異変が起こり、異常気象、地震と津波、まるで増えすぎた人口を減らそうという意志でも働いたかのように、多くの市民が犠牲となった。彼もまた彼女と共に、“太陽の都”レムリスを襲った大津波に飲まれた。
 迫りくる巨大な壁のような大波を見て、二人は、都のシンボルでもあった“陽光の塔”の長い階段を駆け上がった。しかし、大津波は“陽光の塔”をも飲み込んで、二人は手を繋いだまま、濁流に流された。
 彼が意識を取り戻した時、彼女の姿は無かった。しかし、それで良かったのだ。彼が目を覚ました場所は、強制労働をさせるための子供達を積み込んだ、開拓惑星へと向かう宇宙船の中だったのだから。
 彼は願った。どうか、あの少女は惑星セナンで無事でいて欲しいと。
 名前も顔も思い出せなくなったけれど、いつか出会うことがあれば、互いに分かるだろうか。

 そんなことを思いながら、傷と疲労のためか、安堵のためか、彼は意識を失った。きっと、自分の長い旅路もこれで終わるのだろう。それもいい。もう故郷へは戻れないのだから。そんな考えが、彼の脳裏を横切った。

 彼意識を取り戻した時、白い天井の病室のベッドの上だった。消毒液の臭いが漂い、辺りには最新の医療機器が並んでいた。彼は、侵入者として連行されたのではなく、要救護者として病院に運ばれたようだった。
 彼は、身元不明であったため、数えられない数字「(レイ)」と呼ばれることになった。医療スタッフによる適切な処置により、彼の傷は癒え、体力も急速に回復していった。

 病室の窓からは、平和そうな青空を背景に、林立する高層建築物が立ち並んでいた。高層建築物の間を縫うように走る道路には、美しく整えられた並木の緑が照り映え、そこかしこに花壇も見える。ドーム都市の外とは比べるべくもない平穏な暮らしが此処にはあるのだろう。このドーム都市の外に広がる瓦礫や砂漠やほこりっぽい空や貧困や暴力や、そんなものとは無縁の平穏が。

 彼の病室に花を持って訪ねてきた娘がいた。二重の虹の幻影を見ながら、夢だと思っていた娘は、実在の娘だった。彼女は語った。彼女もまた記憶を失ったまま、この科学研究都市“ナーラン”に連れて来られ、今もまだ自分の名前も思い出せないのだ。
 彼女もまた仮の名前で呼ばれているという。伝説のナーランの里に咲いていたという花の名前「沙羅(サラ)」と。

 彼女は、多忙の合間を縫って彼を訪ねてきてくれた。似た境遇にある彼に、同情あるいは共感を覚えたのかもしれない。彼女は少女の頃に記憶を失い、国際人道組織である救世団に拾われて、今は救世団宇宙軍大学校に学んでいるのだという。

「わたしはもうすぐ救世団の船で旅立つの。違う星に行くのよ」
「この惑星セナンを離れる?」
「ええ。病んだセナンは、もう元には戻れないと、救世団が結論を出したの。救世団は、このドーム都市を放棄して、選抜した市民と共に宇宙を目指すことにしたのよ」
 彼女は俯いて答えた。
「わたしが救世団に助けられた時から、外惑星移民計画は進行していたの。わたしは、資質を見出されて幼年学校で学ぶことを許可され、外惑星移民船での役割を果たすことを条件に、この科学研究都市に住まうことを許可された。費用は全て外惑星移民計画の中心でもある救世団が出した。だから、わたしは行かなければならないの」
「自分の意志ではなく?」
 彼は、彼女が悲しんでいるように思えた。
「仕方がないわ」
 彼女は、諦めのように呟いた。
「わたしは夢を見る資質に恵まれているらしいの。救世団の船には、その資質を持つ者が必要らしいのよ」
 悲しそうな目をして彼女は答えた。
「夢を見る資質? それがそんなにも重要な力?」
「ええ、とても重要らしいの」

 セナンの太陽の異変は、以前から予測されていた。それは、もっとゆるやかに進行すると思われていたが、実際には深刻な状況は、思った以上に早くやってきた。危機を脱するための様々な意見が出され、多方面から検討され、試行もされたが、状況は悪化する一方だった。そこで救世団が組織され、外惑星移民計画が実行されることになったらしかった。
 彼女は、目的の星について、詳しくは教えられていないようだった。ただ、長い旅路を安全に航行するする為には、人々は何十年もの時間をひたすら眠って過ごさなければならず、その為に、彼女の資質が必要とされるのだと、そのことしか伝えられてはいないのだと彼女は語った。
 磁場に守られた地上と違い、宇宙空間は電磁波や太陽宇宙線、銀河宇宙線などの影響を受けやすく、それは人間の精神にも影響を及ぼし、悪夢を見せ、人格破壊にもつながる。それを防ぐ為に、「沙羅(サラ)」と仮の名を付けられた彼女のような、夢を見る資質に恵まれた者の夢に、全員の夢を同調させることが必要なのだという。人々を悪夢から遠ざけ、美しい夢に包まれて長い旅路を過ごし、目的の場所で穏やかに目覚めることが出来るように。

「セナンがいずれ滅びるなら、僕達もまた共に滅びる運命(さだめ)ではないのだろうか?」
 仮に「(レイ)」と呼ばれることになった彼は尋ねた。
「そうかも知れない。でも、それでも人は運命に抗い、宇宙を目指すのだわ。人は宇宙に神を捜しているのかもしれない。自分が生まれてきたのはなぜか、なぜ存在しているのか、文明には一体どんな意味が在るのか、そして、そもそも宇宙とは一体何なのか、それを知りたくて」
 彼女は、寂しげな瞳で遠くを見るようにして語った。
「君もそれを知りたい?」
「知りたい気もする。あなたは?」
「分からない。僕は救世団の船には乗れない。放棄されるドーム都市と運命を共にするしかない。星に向かう君は、もし宇宙で神を見つけたら、神に尋ねるのか?」
「分からない」と彼女は答えた。
「神は答えてはくれないのかもしれない。分からないままのほうが幸せなのかも知れない」
 しばらくの間があった。
「出発はいつ?」と彼は尋ねた。
 彼女は視線を落として答えた。
「三日後よ」
「そうか」とだけ彼は言った。
 窓の外の、林立する高層建築物には明かりが灯り始め、空は、夕暮れの色から次第に夜の星空へと変わろうとしていた。

 突然、何かの警報音が鳴り響いた。街の明かりが、さざ波が広がるのように消えていく。
「何が起きたの? 崩壊が、もう始まったというの?」
 彼女が叫んだ。
 地響きとともに、都市を覆うドームの天井に稲妻のような亀裂が走り、崩落した。数え切れないほどの流星が空を流れ、その幾つかは驚くほどに大きく、見る間に全天を覆いつくした。ドーム都市全体が、いや、惑星セナンそのものが、地響きを立てて揺れていた。
 彼と彼女は互いに身を支え合ったが、その甲斐もなく、暗い奈落へと落ちていった。

 気が付くと、二人は、瓦礫と化したドーム都市の、あの二重の虹の幻影があったはずの場所に佇んでいた。沙羅の木も、泉も、虹も、最早どこにも無い。荒野の空に、ただ星だけが流れる。

 目の前の虚空に浮かび、二人を見下ろす人影があった。銀色の髪と、赤銅色の肌と、朱金の瞳の、常人とは思えない何者か。
 その何者かは、神の視点で見下ろすかのように、ゆっくりと口を開いた。
「引き離したはずだったのに、やはりお前達は再び巡り会ったのだな。だが、それでこそ、私の目的には適うだろう。お前たち二人は、出会い、そして引き離される。どんなに抗おうと、それがお前達二人の運命。互いの存在を決して忘れずに魂に刻み、記憶の奥底へと沈めよ。積年の無意識の想いが、いつか私の計画に必要となるだろう」


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