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8 ピーターパン

 もう夕方に近い時間だった。とはいえ砂漠の日はまだ十分に高く、まだ昼間のように明るかった。
 日勤と夜勤の交代の時間帯なのか、センター内の通路は混雑していた。ジョシュアは、書類の束を抱えて出てきたレイチェルを見つけ、彼女の目の前に立った。
「聞きたい事があるんです」
 ジョシュアの表情に、レイチェルは何事かを察したらしかった。
渚苑(ショーン)・エーベルディングって、どんな人なんです。絵莉花と、一体どういう関係だったんですか。何故、絵莉花は、アルファ・ケンタウリに行ってしまって二度と戻らないそんな人のことなんか、何時までも考えているんですか」
 ジョシュアは関を切ったように次々に疑問を吐き出していた。
「来なさい。何処か静かな所で話しましょう」
 レイチェルは、先に立って歩き始めた。

 着いたのは展示室だった。人影は無く、照明も消えていて、少し薄暗い。誰かが閉め忘れたのか、窓が一つ開いており、ブラインドがカタカタと小刻みな音をたてていた。
 レイチェルは、その窓辺に行き、窓の外の空を見上げた。そこには、儚げな白い月がぽっかりと浮かんでいた。今、あそこに、絵莉花の会いたい人が居る。

「絵莉花は、何故その人に会いに行かないんですか。電磁エレベータに乗ってSRS-Ⅲに行って、定期便に乗ればよかったんだ。絵莉花が行かなくたっていい。渚苑・エーベルディングはなぜ絵莉花に会いに来ないんですか。最後の別れになるのに、なぜ二人は会わないんですか。絵莉花はその人を愛しているんでしょう?」
「そう、絵莉花は月にもSRS-Ⅲにも行かない。渚苑・エーベルディングもここには来ない。絵莉花は、この二年間、一度も渚苑に会っていないし、話しもしていない。絵莉花は、ここに来ている事を渚苑に知らせてさえいない。絵莉花は、ただ、ニュー・フロンティア号を見送りたかっただけ。ニュー・フロンティア号に一番近く、二人が出会い、共に半年を過ごしたこのハルファで、渚苑を見送りたかっただけ。だからここに来たのよ」
「だって、夜の砂漠で一緒に星を見たのはそのショーンという人なんでしょう? 絵莉花に星の話をしたのも、風の翼をくれたのも」
 レイチェルは、黙ってジョシュアを見た。
「渚苑は旅立ち、絵莉花は地球に残る。それは変えられない。二年前に二人が出会った時から、それは既に分かっていた事だった。最初に絵莉花を気に入ったのは、ハロルドのほうだったの。でも、ハロルドはちゃんと割り切っていた」
「ハロルドっていうのは誰?」
「渚苑の親友でルームメイトだった」
 そして、レイチェルは語り始めた。

 太陽系外惑星探査に関心の深かった渚苑とハロルドは、共にニュー・フロンティア号のメンバーに推薦された時、互いに喜び合った。二人は共に才能ある若者であったが、良い仕事には恵まれなかった。既に身寄りも無く、別れを惜しむ相手も無かったから、未知の世界に飛び込んでいく事に、少しの 躊躇(ちゅうちょ)も無かった。むしろ、憧れと期待に胸を躍らせ、何百年後かの子孫が刈り取るための種になれるかも知れない事を誇りに思った。
 二人は正式にメンバーとして決定し、必要な知識と技術を習得するため、ハルファ宇宙センター内の訓練校に入校した。半年後には、二人揃って今度は月面のプラトー基地で更なる訓練を受けることになっていた。
 ニュー・イヤーズ・イヴ・パーティの夜、渚苑はひとりで居残り訓練をしていて遅れて会場に入った。渚苑はハロルドと違って賑やかな場所は苦手だった。渚苑が会場に入っていくと、ハロルドが見慣れない若い娘にしきりにシャンパンを勧めているのが目に入った。
「ショーン、遅かったじゃないか。もうとっくに始まっているぜ」
 ハロルドは、アルコールが入っているせいか、普段にも増して愛想のよい笑顔で言った。
「紹介するよ。彼女、六ヵ月間、八島教授のアシスタントをするんだってさ。昨夜日本から来たばかりの大和撫子だよ。お前懐かしいだろ」
 それが絵莉花だった。
「まあ、日本の方なんですか?」
 シャンパンでほんのりと頬を染めた絵莉花が尋ねる。
「四分の一だけね。子供の頃はドイツで過ごしましたが、日本にはずっと憧れていましたよ。日本は僕の心の故郷なんです」
 渚苑は、日本に憧れながら、まだ日本の地を踏んだことは無かった。それは意識的にそうしたのだ。この時代、国名はただの住所にしか過ぎず、渚苑が子供の頃に祖父から昔語りに聞いた、優美で閑寂な趣を持った国も人々も、もう何処にも無い。それを自分の目で確認したいとは思わなかった。しかし、目の前で恥ずかしげに微笑んでいる娘の姿は、渚苑の中で、セピア色に変色した写真の中で静かに微笑む娘時代の曾祖母の姿と重なっていた。たおやかでありながら凛とした芯のある、黒い瞳と黒い髪の娘。それは、散々その話を聞かされ、写真を見せられた事もあるハロルドにとっても同じだった。
 一次会を終え、若者たちは、当直の者を除き、町に繰り出す事になった。大型タクシーに分乗し、次々に町を目指して消えていき、渚苑とハロルド、そして絵莉花の3人も、アルコールを殆ど口にしなかった渚苑の運転するジープに乗って出発した。
 しかし、3人は町へは行かなかった。夜の砂漠を見たいと絵莉花が言ったからだった。パーティ好きのハロルドは、すっかり酔っぱらって、助手席で正体も無く眠り込んでいた。多分、その時、渚苑は絵莉花に星と宇宙の話をした。絵莉花は瞳を輝かせ、その話を聞き入っただろう。
「私も行ってみたいわ。でも、それは無理ね」
 多分、絵莉花は、小首を傾げ、残念そうに言っただろう。
「そんな事はないさ。何時だって行けるよ。瞳を閉じて、自分が風になったと思うんだ。ほら、身体がだんだん軽くなってきた。僕達の身体は隙間だらけなんだからね、風を一杯に吸い込んだら、本当に風になれるよ。後は原子の記憶に任せればいいんだ。原子は宇宙からやって来たのだからね」
 渚苑はそんな風に答えたろうか。

 レイチェルは絵莉花のルームメイトだったが、故郷に戻っていてその場には居らず、ハロルドからその話を聞いたのだと言った。女友達を作らず、研究と訓練一筋だった渚苑が、絵莉花とは楽しげに話すのを見て、ハロルドも、最初は、気晴らしになると喜んでいたという。
 しかし……ある日、絵莉花は、子供のような真摯さで、渚苑に愛を告白した。
「僕は、二ヵ月後には月へ、二年後にはアルファ・ケンタウリに発たなければならない」
 それは、絵莉花も充分に承知している事だった。
「言わなければ一生後悔すると思ったの。だから、一言私の気持ちを伝えたかっただけ。私、もう二度と言わないから。私は地球から貴男の旅立ちを見送るわ。二年後、またきっとここに来て、ニュー・フロンティア号を見送るわ。だから、貴男やハラルドや他の皆を見送る友のことを忘れないでいて」
 それから二ヵ月間、絵莉花は何も無かったように仕事を続け、渚苑はそんな絵莉花の姿を気にしながらも訓練に励んだ。そして月面のプラトー基地へと旅立ち、もうすぐアルファ・ケンタウリへと帰らぬ旅に出る。

「渚苑は、絵莉花に、愛しているとは言わなかったんですか?」
 ジョシュアは食い入るような瞳でレイチェルに訊いた。
「ええ、言わなかったの。そして絵莉花も、気持ちを伝える前と少しも変わらずに接したけれど、もう二度と、そして一言も、渚苑を愛しているとも、行かないでとも言わなかったのよ」
「渚苑は絵莉花を愛してなんかいないんだ。だって、酷いじゃないですか。絵莉花が愛していると言ったのに、一言もそれに答えないなんて」
「私には分かるわ」と、レイチェルは言った。
「きっと、渚苑も絵莉花を愛していた。でも、地球に残る絵莉花の為に、そして旅立っていく、二度と戻れない自分の為に、それを口にする事が出来なかった。そして、きっと、絵莉花にもその事は分かっていた」
「どうしてそんな事が分かるんです。僕だったら、絵莉花を残してアルファ・ケンタウリになんか行かない。決まっていたって止めます。渚苑は絵莉花を愛してなんかいなかったんです」
 ジョシュアは、叫ぶように大声で言った。
「可哀相な絵莉花。それなのに、絵莉花は馬鹿だ。何時までもそんな奴の事を想っているなんて」
 ジョシュアは俯いて呟いた。そう、ピーター・パンは迎えに来ない。それでも絵莉花はピーター・パンと一緒に飛んでいきたいのだ。
「絵莉花がもし遠くに行ってしまったら、ジョシュアは絵莉花を忘れられる?」
「絵莉花は遠くになんか行かない。兄さんが絶対に行かせない」
 ジョシュアは半分泣きそうになりながら、叫ぶように言った。
「私にはすぐに分かったわ。絵莉花と渚苑が同じものを見つめているのだと。二人が互いに惹かれ合うのは当然だった。絵莉花は、たとえ渚苑が声も届かない時空を越えた未来の遠い星に行ってしまって、絵莉花の事を忘れてしまうとしても、きっと渚苑を忘れない。渚苑が見せてくれた世界を見つめ続ける。そして、渚苑も、百年後の未来に、もう絵莉花が居ないと分かっていても、きっと絵莉花を心の奥で想い続ける」
「そんなの、無意味じゃないか」
 ジョシュアは、いたたまれなくなってその場を離れた。

 砂漠の風に晒されたくて、ジョシュアはただ歩いた。太陽はニュー・トーキョーの十倍も眩しく照り付け、一点の翳りも無い澄んだ青空。悲しいくらいの良い天気。
 どうして自分は、こんなにも悲しいのだろうと、ジョシュアは思った。

 ふと、流れ星のように空を過る光が目に入った。
 その光は、まだ明るい砂漠の空を真っ二つに切り裂いて、雷のような轟音を辺りに響かせながら、真っ直ぐこちらに向かって飛んでくる。
 それは流れ星ではなかった。

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