7 渚苑《ショーン》
1週間の滞在も明日まで。明日はニュー・フロンティア号の出発を見送ったら、日本に向けて帰国する。
センター内の見学も殆ど終わり、ジョシュアがセンター内でできる事は残っていなかった。
レイチェルが、非番だから近くの町を案内してくれるというので、絵莉花と三人で出掛けることになり、朝食後、ジョシュア達はレイチェルの運転するジープに乗って出掛けた。
ハルファの町は小さかったが、その中心地にはバザールがあった。T字型の目抜き通りの両側に店が軒を連ね、店先にはいろいろな品物が吊るされたり並べられたりして、結構賑わっていた。
革製品や金細工、パピルス紙の絵などが、カイロ市内よりもずっと安い値段で売られており、友人達へのお土産にも良さそうだった。絵葉書は、宇宙センターの夜景などのほか、割と近くにあるアブシンベル神殿の物ならまだしも、カイロの三大ピラミッドやスフィンクスの物まで売られているのには笑ってしまった。
店に入ると、しきりにチャイを勧められた。小さな硝子製のカップに入ったチャイは、甘くて美味しかった。どの店でも、とても愛想がよかった。一つには絵莉花が一緒だったからかもしれない。
エジプトは、ファラオの君臨した古代エジプト王朝の滅亡以後は、アレクサンダー大王のペルシア帝国、ローマ帝国、オスマン=トルコ帝国、そしてナポレオンと、次々に他国や他民族の支配を受け、クレオパトラで有名なプトレマイオス朝もエジプト人による王朝ではない。やっと1922年にイギリスから独立して建国を果たしたが、その独立には、1904年から1905年の日露戦争で、小さな島国日本が大帝国ロシアに勝利した事が大きな影響を与えたという。
さらに、絵莉花自身がバザールでエジプト人から直接聞いた話では、髪や目の色の黒いところや肌の色も似ているところから、日本人には欧米人以上に親近感を持っているのだという。
けれど、そんな理由が無くたって、絵莉花の少しはにかんだような素敵な笑顔を見たら、きっと誰だって親切にしたくなると、ジョシュアは思った。
昼食は町の小さなレストランでチェロカバブを食べた。出された皿には砂埃が付いていたし、丸ごと出されたデザートのオレンジも、皮を剥こうとしたら手が汚れてしまった。悪いと思いつつ、オレンジをナプキンで拭いてしまった。絵莉花に笑われてしまったけれど、ナプキンは茶色くなった。
古代エジプト人も、食事に混じった砂のせいで、皆歯を悪くしたというし、仕方ないのかもしれない。でも、チェロカバブもオレンジもとても美味しかった。
楽しい時間は瞬く間に過ぎる。
昼過ぎ、3人が宇宙センター内の宿舎に戻ると、ニュー・トーキョー・シティの会社で忙しく仕事をしているはずのジョシュアの兄ジェイムズが居た。ロビーの窓際の椅子から立ち上がったジェイムズは、日頃と違い、何故かイライラと落ち着かない様子だった。
「兄さん、一体どうしたの?」
ジョシュアは驚いて尋ねた。
ジェイムズは答えず、絵莉花の方を見たまま黙っていた。
絵莉花も驚いたようだった。
絵莉花は、居心地悪そうに一度は視線を逸らせたが、ゆっくりと視線を戻し、今度はしっかりとジェイムズの顔を見た。
「まさか、ここまで来るとは思わなかったわ」
「話があるんだ」とジェイムズが言った。
絵莉花は頷き、二人は戸外に出ていった。
ジョシュアを気遣ってか、レイチェルがお茶でも飲みましょうかと声を掛けたが、ジョシュアは疲れたから部屋に戻ると言って断った。
ジョシュアは、部屋には戻ったものの、兄がわざわざ何の為にハルファまで来たのか気になって仕方なかった。
ジョシュアは、絵莉花と兄を捜して外に出た。2人は、中庭の、長く延びた棗椰子の木陰に居た。
どうしようかと散々迷い、思い切って声を掛けようとして、ジョシュアは言葉を飲み込み、自分の耳を疑った。
「君が何を言っても、僕には君との婚約を解消するつもりは無い」
日頃は穏やかな兄ジェイムズが、感情を露わに叫んだのが聞こえたのだ。
ジェイムズは、手に持った封筒を握りしめ、その手は、感情を押えようとしてか、ぶるぶると震えていた。
薄いブルーのその封筒は、たぶん絵莉花がジェイムズに書き送ったものなのだろう。紙の便箋に手紙を書くなんて、今の時代、普段はあまりしない。
絵莉花は目を伏せて黙っていたが、漸くのように口を開いたようだった。
「私達、正式に婚約していた訳では無かったわ。それに、私、もう決めたの」
「
絵莉花は、弾かれたようにジェイムズの顔を見上げた。
「何故その名前を知っているの?」
ジェイムズは、それには答えずに続けた。
「あいつの為なんだな」
「そうじゃないわ」
「何が違うと言うんだ。彼が君に何をしてくれると言うんだ」
「私は私で在りたいの。私は私の思う生き方をしたいの」
絵莉花は、俯いて呟くように言った。
「僕では君が君らしく居られないと言うのか。僕が、何時、君のやり方に口出しした事がある!」
「そう、貴男は何も言わない。でも、駄目なのよ。貴男には分からない」
ジェイムズが右手を振り上げた。絵莉花の頬を叩くのだ、と、ジョシュアは思わず息をつめて眼を瞑った。
ジェイムズはそうはしなかった。振り上げた右手が宙で震えている。
「世界で一番君を理解しているのはこの僕だ。7年前からずっと君だけを見つめてきたんだ。君を守り、君を幸せにする為に、僕は人一倍努力してきた。スポーツをして腕力も鍛えた。社会的地位も築いた。君に他にしたい事があるのなら、何の遠慮も要らない。好きに過ごしていいんだ。だが、君と結婚するのに、誰にも文句は言わせない。それとも、君は僕の事がそんなに嫌いなのか」
絵莉花は、俯いて首を振った。
「初めて会った時から、けっして嫌いじゃなかったわ。貴男はとてもいい人。結婚したら、きっと私に平安をくれるわね。子供を学校に送り出し、午前中は研究所で働いて、午後にはカルチャーセンターに通い、夕飯の支度をして仕事の帰りを待つ。休日には一緒にドライブに出掛け、あるいは日当たりと風通しのいい庭で草花の手入れをし、貴男の好きなアップルパイを焼いてハーブティーを入れて、リンゴの木の下のテーブルで午後のひと時を楽しむ。夕食の後には、エアコンの効いたいい香りのするリビングで、ホームシアターを楽しむ。そんな誰もが羨む生活をくれるわね。私は貴男のポケットの中の小さな生き物。それは、ある意味ではとても幸せな事ね。でも、それでも私は、ふと手を止め、歩みを止め、口を噤んで、心の隙間を知るんだわ。そして、翔ぶ勇気を持たなかった事を後悔するのよ」
絵莉花は淡々と語り、再び遠い景色に視線を投じた。
ジェイムズは黙って聞いていた。
絵莉花は語り終えても、遠くを見つめたままだった。
「そう、君は僕と結婚するんだ。君は渚苑・エーベルディングと結婚することは出来ないのだから。そして……」
ジェイムズは苦しげに付け加えた。
「……そして、君は、僕の両親の期待に背く事は出来ない」
絵莉花は、驚いたようにジェイムズの顔を見上げた。
ジェイムズは、絵莉花の視線を避けるように目を背ける。
「私、子供の頃、ずっと夢見ていた。風になって空に舞い上がり、大地を駆け抜けて、やがて星空を渡ること。でも、その後ずっと忘れていた。小父様や小母様の恩に報いなければ、期待に添えるようにしなければと一生懸命だった。いいえ、そうじゃないわ。私には翼が無かったから、忘れたつもりになっていたの。でも、渚苑が私に風の翼をくれたの。私、もう一度、自分も翔べるのではないかと思えるようになったのよ」
絵莉花は哀しそうな顔で言った。
「冥王星基地に新設される実験農場に行きたいと君は言うが、ニュー・フロンティア号のメンバーも辺境基地の人間も皆同じだ。才能はあっても、地球じゃあ永遠にそれを開花させられない者達だよ。君は、そんな人間の仲間に入ろうと言うのか。君を幸せに出来るのは僕だけだ。父や母が許しても、僕が君を行かせたりなんかしない」
ジョシュアは、兄がそんな言い方をするのを聞いた事が無かったが、ジョシュアにとっては、絵莉花が冥王星に行くかもしれないという事の方が遙かに大きな衝撃だった。
ジョシュアは自分でも気付かないうちに、絵莉花と兄の目の前に歩み出していた。
「今の話、本当なの? 絵莉花が冥王星に行くなんて、嘘だよね?」
ジョシュアの顔を見ても、二人は驚いた様子は見せなかった。
絵莉花はじっとジョシュアを見ると、溜め息のようにゆっくりと答えた。
「いいえ、そのつもりよ。まだ決まった訳ではないけれど」
「そんなの、僕聞いてないよ」
ジョシュアはわめいた。
「それに、二人は結婚するはずだったじゃないか。ショーン・エーベルディングなんて、そんな人、僕は知らないよ」
そう言いながら、ジョシュアはその名前に思い当たった。
ハルファに着いた日の夜、砂漠にドライブに出て星を眺めながら、絵莉花は、星の話を誰に聞いたと言っていた?
―渚苑よ。以前にこの場所で教わったのよ―
「そうか、絵莉花はその人に逢うためにここに来たんだ。そして、その人と一緒に冥王星に行くつもりなんだ。そうなんだね」
ジョシュアは
「それは無理よ」
絵莉花は空を見上げ、深い吐息のように答えた。
「彼は、あそこに居るわ。そして、明日には風に乗って本当に行ってしまう」
絵莉花は、青空に張り付いた雲母のかけらのような白い月を見やった。
「月に? 明日?」
月には月面基地がある。その中心は、通常ルナ・ベースと呼び習わされるプラトー基地。ニュー・フロンティア号も停泊中で、その移民団のメンバーの三分の一が待機している。
「渚苑・エーベルディングは、ニュー・フロンティア号のパイロットだ」
ジェイムズが吐き捨てるように言った。
ジョシュアの心に衝撃が走った。兄の激しい憤りも納得できる。
たとえ渚苑・エーベルディングがどんなに立派な人間であったとしても、絵莉花がどんなに愛していたとしても、渚苑・エーベルディングは絵莉花を幸福には出来ない。ニュー・フロンティア号は、二度と再び地球に戻る事はないのだから。
「そう、明日には、我々にとっては居ないも同然の存在になる人間だよ」
「ジェイムズ、貴方にはそうでも、私には違うわ。あの人が見つめていたものは、私と同じものだった。だから、あの人がこれから目にするものは、私にも見える。私、あの人の旅立ちをここで見送る。これからもずっと、どこに居ても見送っていくわ。あの人は、私より、貴方より、ずっと未来を生きるのよ」
なんという事だろう。
「どうして? もう二度と会えないのに」
ジョシュアは殆ど泣きそうになりながら、必死に涙を堪えながら訊いた。
「その人は、絵莉花を残してアルファ・ケンタウリに行ってしまうんでしょう。なのに、何故、絵莉花は何時までもそんな奴の事を考えているんだよ。何故、冥王星なんかに行ってしまうつもりなんだよ。胸が痛くなる程地球が好きだと言ったじゃないか。風に吹かれるのが好きだと言ったじゃないか。冥王星には風なんか吹かない。朝露に光るクローバーの絨毯も無い。僕や兄さんがこんなに愛しているのに、何故僕達じゃ駄目なんだよ」
もどかしげに訴えるジョシュアを、絵莉花はやるせない面持ちで見つめた。
「私が冥王星に行くのは、それだけが理由では無いのよ。私は自分のやり方で自分の出来ることをやりたいの。これから先も多くの人達が宇宙の遠い星へ旅立っていくわ。私は、自分の研究を冥王星で続けたいのよ」
ジョシュアの頭の中では
「ショーンなんて、そんな奴知らない。そんな絵莉花を放ってアルファ・ケンタウリなんかに行っちゃう奴なんか、死んじまえばいいんだ」
ジョシュアは、自制を亡くして叫んでいた。
絵莉花が悲しそうにジョシュアを見るのを、目の端で捉えながらも。
「ジョシュア、なんて事を」
ジェイムズがジョシュアを振り向き、声を荒立てて言った。
「兄さんだってそう思っているくせに!」
そう叫んだジョシュアの頬に、兄の平手が飛んた。ジョシュアは、今まで、兄に叩かれた事は無かった。
「だいたい、兄さんが悪いんだ。もっとしっかり絵莉花を捕まえていないからだ。僕なら絶対そんな事させないのに」
ジョシュアは駆け出した。
走りながら、涙が溢れてきた。言ってはならない事、それくらいジョシュアにも分かっていた。兄に叩かれた頬が痛かった。それ以上に、自制できない心が痛かった。
絵莉花がジョシュアの名を呼ぶのが聞こえたが、ジョシュアは立ち止まらなかった。
絵莉花にとって、ジョシュアは弟でしかなく、7歳も年下の15歳の子供でしかないと思い知って。