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6 見送る理由

 翌朝、ジョシュアは酷い頭痛がして、起きることが出来なかった。疲れが出たのか、前の晩に夜風に当たり過ぎたのか、それとも、考え事をしていて眠れなかったせいなのか。眠ることは眠ったのだが、次々に変な夢ばかり見て、全く眠った気がしなかった。ベッドに入る前よりも、どっしりと疲れた感じだった。
 絵莉花が心配して見にきたが、ジョシュアは、頭を枕に吸い付けられているかのように、ベッドに横になったまま、虚ろに目を開けるだけだった。
 昼過ぎになって漸く起きられるくらいになり、レイチェルが運んできてくれたシリアルとミルクで遅いブランチを採ると、どうやら少し元気が出てきた。

 絵莉花の姿は見えなかった。レイチェルに尋ねると、八島教授の実験農場に居るという。
「それ、嘘じゃないですよね」と、ジョシュアは聞き返した。
「何故嘘だと思うの?」
 レイチェルは、別に怒るでなく、不思議そうに尋ねた。
 ジョシュアは下を向き、レイチェルの質問に答える代わりに訊いた。
「絵莉花が何故ここに来たか、知っているんでしょう?」
「ジョシュア、貴方は知っているの?」
 ジョシュアは、俯いたまま小さく首を振った。
「絵莉花は、ニュー・フロンティア号の出発を見る為だと言っていたけれど……」
「私もそう聞いているわ」とレイチェルは答えた。
「本当にそれだけなの?」
 ジョシュアは顔を上げて訊いた。それだけだとは思えなかった。
「絵莉花を好きなのね」
 レイチェルは、じっとジョシュアの顔を見て言った。ジョシュアはそれには答えなかった。

「ここからニュー・フロンティア号の出発を見る、それ以上のことは聞いていないわ。もし何かあるのだとしても、絵莉花は、自分の事をやたら相談するタイプではないわ。貴方が気になるのなら、自分で聞いてご覧なさい。もし何もないのなら、笑ってそう言うだろうし、何か在るなら、絵莉花はきっと話してくれるわ」
 レイチェルは静かに答えた。
 そう、絵莉花なら、きっと、本当の事を話してくれるだろう。ジョシュアはそれを知りたい。けれど、ジョシュアは、その答えを聞くのが怖いような気もするのだった。

 絵莉花は、レイチェルの言った通り、実験農場に居た。巨大なガラス張りのドームで、中は幾つかのセクションに区切られていた。引出し式の水耕農園のような所もあれば、殆どジャングルのような所もあった。また、出入り自由なセクションもあれば、部外者は立入禁止のセクションもあった。
 絵莉花は、林のような植物園の、緑の葉陰に隠れるようにしてひっそりと立ち、ガラス越しに空を見上げていた。
 ジョシュアは、何か嫌なことや哀しいことがあった時、絵莉花が決まって温室に居たのを思い出した。丁度今のように、まるで花や木の一つになったかのようにして。

 絵莉花は、ジョシュアに気付くと微笑を浮かべ、心配そうに訊いた。
「起きて平気なの?」
「もう殆どいいよ」
 ジョシュアは下を向いて答えた。
「それより、何をしていたの?」
「八島教授の実験農場を見せてもらっていたのよ」
「何の研究をしているの?」
「いろいろよ。宇宙に持っていくのに相応しい作物や、有益な働きのある植物や、厳しい環境、例えば低温や乾燥にも適応できる植物……エトセトラね」
「宇宙にも植物を持っていくの?」
「そうよ」と、絵莉花は微笑んだ。
「私達人間は、動物が居なくてもどうにか生きられるけれど、植物無しでは生きられない。植物は、環境を整えてくれる、食料や生活材料を提供してくれる、そして、不思議な力で安らぎと活力を与えてくれる。人間は、ずっと緑を見ないでいると気が狂ってしまうそうよ。森林の写真を見るだけでも、精神を安定させる効果はあるらしいけれど、移民船には植物園も作られる。植物は、私達人間の掛け替えのない支えであり、友でもあるのよ」
「それじゃあ、その研究が進んだら、この砂漠もそのうち緑になるのかな」
「かもしれないわね。1960年代以降、世界人口は十数年でほぼ10億人ずつ増加して、20世紀末には60億人ほどだった世界人口は、21世紀初頭には70億人に達し、先進国とされる国々では人口減少に転じていったものの、現在の世界人口は約85億。もうこれ以上は増やせない。この砂漠を緑の耕作地に変えない限り。でも、私は砂漠が好きだわ。砂漠にいると、過去から未来までを一瞬に見渡しているような、そんな錯覚を覚える。まるで宇宙の彼方を見通しているような……ね。六千年前、この同じ場所に佇んで、今の私と同じ青い空と遠い山々を見た人達が居た。そして、百年後、二百年後にも、きっと同じ空と山を見る人が居るわ」

 ジョシュアには絵莉花の言うことはよくは分からなかったけれど、砂漠や宇宙の話しに比べれば身近な話に思えた。
 ただ、今日は、その植物の話をする絵莉花も、遠いところに居るように思えて、ジョシュアは寂しかった。八島教授の元に留まるどころか、絵莉花は、本当に宇宙に飛んでいってしまうのではないだろうか。

「絵莉花の話しは、何時も宇宙に行き着くんだね。地球を愛しているんじゃなかったの?」
 ジョシュアは堪らなくなって訊いた。
「地球も宇宙なのよ。目に触れる全てが宇宙なの。宇宙という調和の中で、人も花も虫も生きている」
 絵莉花は静かに微笑みながら言った。何処か悲しそうな微笑みだった。
「みんな繋がっているの。私も、ジョシュアも、みんな同じ一つの宇宙なのよ」
 ジョシュアも絵莉花も同じ一つの宇宙。その考えは、なかなか素敵だった。けれど、ジョシュアは、もう、訊かずにはいられなかった。
「ひとつ聞いてもいい? 絵莉花はここに何をしに来たの?」
 絵莉花はジョシュアを見て静かに微笑んだ。
「ニュー・フロンティア号の出発が、よく見える。ここは地上で一番宇宙に近い場所だから」
「それは知っているよ。前にも聞いた。でも、何故ニュー・フロンティア号の出発を見送りたいの?」
「二年前、私がここに居た時、ニュー・フロンティア号のメンバーが大勢訓練を受けていた。大半が身寄りのない人達で、でも、皆いい人達ばかりだった。私は彼らを知っているから、SRS-Zまで見送りには行けないけれど、せめてここから見送る。そう約束したの。皆本当は地球を愛してて、きっと心の奥では、本当に離れたいとは思っていないのよ」
 絵莉花はしんみりと語った。
「本当にそれだけ?」
 絵莉花は微笑んで静かに頷いた。
「もし、私が、ニュー・フロンティア号に乗って旅立つ事になったら、ジョシュアは見送ってくれるかしら」
「そんなの、僕は絶対に賛成しないよ」
 ジョシュアは驚いて声を上げた。
「もしもの話よ。見送ってくれないの? 最後のお別れなのよ」
「分かんないよ。そんなの、考えた事もないもの」

 そんな悲しい見送りはしたくないとジョシュアは思った。とは言え、もう二度と会えないのだとしたら、見送らなかったなら、それこそ一生後悔することになるだろうか。
 あの船のメンバーの中には、そんな別れをしなければならない人もいるのだろうか。それならば、行かなければいいのにとジョシュアは思う。
 宇宙で約百年もの長い時間を人工冬眠しながらアルファ・ケンタウリを目指すニュー・フロンティア号の乗員達を、絵莉花が、貝の中で眠る真珠だと言ったのが、今になって少し分かったような気がした。
 涙にも例えられる無垢な真珠であればこそ、その例えはいかにも相応しく感じられた。

 一週間の滞在も、残りわずか。
 ニュー・フロンティア号の出発を見送ったら、絵莉花、絶対にすぐにニュー・トーキョーに帰るよね。
 僕と一緒に。
 今は、それだけが、ジョシュアの細やかな願い。

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