5 原子の記憶
食堂でゆっくりと食事とデザートを楽しんだ後、絵莉花とジョシュアは再びムハンマドに案内されて、シミュレーション・エリアに向かった。
スペースシャトルの離着陸シミュレーションをするのは、ジョシュアも少し楽しみだった。
ジョシュアにしても、大抵の少年達と同じくらいには宇宙に関心を持っている。コンピュータも好きだし、バーチャル・リアリティにも興味はある。
宇宙に行く為に葉、通常、最低2年の訓練が必要で、現役スペース・パイロットの多くが、ここのシミュレーション設備を使って訓練したらしい。地球離脱時の垂直Gに耐える訓練に用いられる「遠心シミュレーター」、大気圏突入時の訓練に用いられるのは、訓練者が椅子のような物に座った状態で上下左右にグルグル開店する、あのお馴染みマシーン。
ジョシュアは、案内役のムハンマドに言われるまま、シルバー・オレンジのシミュレーション用スーツを着用し、特殊なゴーグルとイヤホンを付けた。スペースシャトル離着陸を疑似体験できるマシーンを試すためだ。
ジョシュアが疑似体験機の座席に身体を沈めてシートベルトを閉めると、不透明なブースのカバーが閉じ、支柱にそって静かに上っていった。カタンと小さな音がしてブースが停止し、九十度回転して腰掛けたまま仰向けになった形になると、いよいよ離陸の準備に入る。
コンピューターの指示通りにスイッチを入れていくと、軽い唸りと共に、地響きのような振動が伝わってきた。そして、最後の点火スイッチを入れる。凄まじい爆音と振動が辺りに鳴り響き、いきなり凄まじいGがかかる。
暫くは目の前のディスプレイにも何も移らない。電波干渉を受けた時のような光の波だけだ。押し潰されそうになりながら、指示に従って空になった燃料タンクを切り離す操作を終え、やがて大気圏外に出て加速が止むと、上下の区別がまるでつかない。ブースがどの様に動き、どの様な仕掛けがあるのか、ジョシュアには見当も付かなかったが、錯覚なのか、本当に無重量状態になっているように感じられ、ジョシュアはパニックに陥りそうになる。
現在では、地上スタッフとコンピューターによる遠隔操縦が可能なので、通常はシャトル内で操縦する必要は無いらしいが、万が一の為には重要な訓練らしい。
やがてシャトルは地球を回る人工衛星の軌道に乗る。手元のディスプレイには、コンピュータ・グラフィックの青い地球が、まるで遊覧船の丸い窓から覗く海の底みたいに映る。頭上のディスプレイには、暗闇の中にくっきりと白い月が張り付いていて、角度を変えると、星々の中に紛れるようにして他の惑星も見えた。
その後、疑似体験機は着陸体制に入る。離陸よりも着陸の方が難しいという。シャトルの機首を下げ、エンジンに点火する。この角度が難しい。大きすぎると、シャトルは地球の重力に引きずられ、地表に激突することになる。また、小さ過ぎると、地球に戻れないか、あるいは、大気圏通過時間が長くなって摩擦熱にシャトルが耐えられなくなる。この摩擦によって、シャトルの表面温度は千度にもなる。この時、ノーズ・フェアリングが鼓膜を叩く鈴の音のように聞こえてくる。身体にはマイナスのGがかかる筈だ。
見る間に迫ってくる地表。それは今にも地表に激突するのではないかと思えるほどで、イヤホンの指示どおりにレバーを引くのさえ遅れ気味になる。
ジョシュアは何とか無事着陸出来た。ビギナー用プログラムだったし、コンピューターの細かな指示があったからだが。
ムハンマドに手伝ってもらい、身体を縛りつけていたブースのシートから抜け出すと、正直言って、ジョシュアは立っているのもやっとという有様だった。
絵莉花が微笑みながら近付いて来る。
「正直言ってクタクタだけど、面白かったよ。絵莉花はこれ、やった事あるの?」
ジョシュアが首元の汗を拭きながら訊くと、絵莉花はその体験は無いと答えた。
絵莉花はここに半年間居たけれど、人手不足の助っ人として呼ばれていたわけで、そんな暇は無かったのだろう。それに、絵莉花がここに来ていた当時は、ニュー・フロンティア号関係の訓練生が大勢居た筈だから、とても関係ない人間が設備を使える余裕は無かっただろう。今は、ニュー・フロンティア号のメンバーは月やSRS-Z等に移っており、ここで訓練を受けている人数は平常に戻っているから、ジョシュアにも使わせてもらえる余裕があるのだった。
ムハンマドは絵莉花にもしきりにシミュレーションを勧めていたが、絵莉花は気が向かない様子で、ジョシュアがシミュレーション・スーツを脱ぎ終わったのを見て立ち上がった。
ジョシュアは喉がからからだった。絵莉花が、外に出てレモネードでも飲みましょうと誘い、二人は通路を通り抜けて中庭に出た。
もうそろそろ夕暮れ。中庭の棗椰子も、その木陰にある四阿《あずまや》も、砂の上に長い影を落としている。
「折角ハルファ宇宙センターに居るんだから、やってみれば良かったのに。服も着替えたのにさ」
自販機で買った冷たいレモネードのコップを受け取りながら、ジョシュアは絵莉花に言った。
「シミュレーションは作り物でしかないわ。それに、機械は必要ないのよ」
絵莉花はそう言うと、自分もコップを手にしてベンチに腰を下ろし、物語りでもするように続けた。
「私たちの身体は、まるで小さな太陽系のような沢山の原子で出来ているわ。その原子は、まだ太陽も地球も生まれない頃、宇宙空間を巡っていた。遠い宇宙を旅して、太陽の重力に捕らえられ、地球の重力に引き寄せられて、地球に降り注ぎ、ある原子は海に入って魚になり、ある原子は畑に降って根から吸い上げられて野菜や果物になり、そして、それらを食べた私達の身体になっているんだわ。だから、私達、原子の記憶を持っているの。その記憶を辿れば、太陽系や銀河系の外にだって行けるのよ」
「ホントに? 信じられないなあ」
ジョシュアの返事に、絵莉花は、朗らかに笑った。
「身体を楽にして、目を閉じてごらんなさい」
そう言って絵莉花は目を閉じ、ジョシュアもそれに従った。
「まず、ゆっくりとおなかの中が空っぽになるまで息を吐いたら、次は腹式呼吸で深く息を吸って、止めて、もう一度息を吸って。それを繰り返すの。十回くらい。だんだん気持ちが楽になってきて、原子の記憶が蘇り安くなる。そしたらゆっくりと普通の呼吸に戻して。今、ジョシュアは砂漠の中で風に吹かれている。ステップの草原がさわさわと風になっているわ。その風がジョシュアの髪や頬を撫でていく。さあ、その風を吸い込んで、身を任せて。身体は凧のように軽くなって、そして、一緒に上昇するの。あの白銀に光る月に向かって」
絵莉花の言葉に従って空想を広げると、気持ちがだんだん楽になるような気がした。瞬間だけれど、ふわりと顔にかかる風を感じたような気もした。
絵莉花はさらに続けた。
「地球を見下ろしてみて。さっき貴方がディスプレイの中で見た地球とは、きっと少し違っているわ。あの青い靄のような光に包まれた、白い雲と、緑の大地のうねる、胸の痛くなる程懐かしい星が地球よ。ゆっくりと息づくように自転しているのが見えるかしら。じっくりと、それを心に焼き付けてね。今度は上を見上げて。白銀に輝く月が目の前を遮っている。地球の上を行くよりもっと静かに太陽の影が過っていく。月を一周したら、今度は太陽に向かうのよ。近付き過ぎないように気をつけて、太陽を回りながら加速するの。そして、充分に加速したら、ハンマー投げの球になったつもりで、太陽系の外に向かって飛び出すの。やがて赤い火星が過ぎていく。どっしりとした木星の側を駆け抜ける。氷のリングに囲まれた土星が、横倒しになった青い天王星が、青緑色の海王星が、一気に飛びすさっていく。そして、暗い冥王星を過ぎたら、いよいよ太陽系外の旅に出る。そう、振り返っても地球はもう見えない。太陽も他の恒星と見分けがつかない小さな光の点に過ぎなくなっている。それは寂しいけれど、でも、地球と太陽の呪縛から解かれたら、宇宙気流になって、きっと何処へでも好きな所に行けるわ」
ジョシュアには、絵莉花の言うような宇宙を感じる事は出来なかった。絵莉花の声を聞くうちにふと思い当たった事があり、それがジョシュアの心を重くしたのだ。一週間旅行するだけにしては片付き過ぎていた絵莉花の部屋。絵莉花は、夜の砂漠にドライブに出た時にも、何か似たような事を言っていなかったか。
絵莉花は本当に何処かに飛んでいってしまうつもりなのではないだろうか。
ジョシュアは目を開けて絵莉花の横顔を見た。
絵莉花は遠い砂漠の果ての空を見つめているようだった。頼り無げで、今にも風に乗って飛んでいってしまいそうに思えた。砂漠から吹いてくる風が、絵莉花の長い髪を静かに靡かせていた。その風は、まだ熱く、砂漠の砂の匂いがする。
「何故? 絵莉花はいつも飛んでいく話しばかりするんだね」
ジョシュアがそう言うと、絵莉花は、物憂げに空を見上げた。
「本当に飛んでいけたらいいのにね。心は何時だって飛んでいけるわ。私、風の翼を貰ったから。でも、体は重くて飛んでいけない。ピーター・パンが迎えにきても、大人になったウェンディには、もう妖精の粉は効かない。それに、ピーター・パンは迎えに来ない」
「それ、お伽話?」
絵莉花は、フッと息を吐くと、ジョシュアの顔を見てにっこりと笑った。
「私、小さな子供の頃には、あの小さな星の一つ一つに国があって、大勢の人達が住んでいて、私も大きくなったら、そこへ行けると思っていたの。ジョシュアは、そんな事考えた事は無かった? 子供の私にとって、それは夢物語ではなくて何時か来る現実だったのだけれど、大人になるに連れ、やがてそんな夢物語は忘れてしまった。本当の現実の難しさを思い知らされて、多くの人は勇気も気力も無くしてしまう。そうね、お伽噺なのかも知れないわね」
明るい空に、幾つかの星が輝き始めていた。
砂漠の夕日はゆっくりと沈む。月明かりは、ゆるやかな曲線を描いて横たわる砂漠を、深い海の底のように、ゆっくりと陰鬱な蒼に染め変えていった。
彼方の空を見つめる絵莉花の横顔は、ジョシュアには、彼方の星のように遠い。
想いは届かない。
砂漠を渡る風はすっかり冷め、冷えた夜風が棗椰子の梢を揺らしていた。