9 真珠の指輪
その人は、ニュー・フロンティア号のメンバーの制服を着て、レイチェルに案内され、宇宙センター中央の建物の入口から現れた。
驚いて見ている絵莉花の目の前に立ち止まり、絵莉花に何か小さな物を、大事そうに手渡した。艶やかに光る一粒の涙のような真珠の指輪だった。
ジョシュアは、その人こそ
「ハロルド、一体どうしたの? この指輪は何なの?」
絵莉花が、穏やかな笑顔と円らな瞳を向けてその男に言った。
「本当は、この指輪は、渚苑が渡すはずだったんだ」
言葉を噛み締めるように、ゆっくりとその男は答えた。
「渚苑は、本当は、二年前に初めて君に出会った時から、君に惹かれていたんだ。あいつは、君に伝えなかった事をずっと後悔していた。だから、せめて、今日、この指輪を君に届けようとしていたんだ」
男は真っ直ぐに絵莉花を見て言ったが、その口調には何か不吉なものが感じられた。「それで、渚苑はどうしたの?」
「絵莉花、驚かないで聞いて欲しい」
「何なの? 早く言って」
絵莉花は不安に脅えた声で言った。
「渚苑が死んだ」
ハロルドは、絵莉花の顔を見つめ、しっかりとした口調で告げた。
「またそんな事を言って。冗談が過ぎるわよ、ハロルド。嘘でしょう。嘘よね」
絵莉花は、指輪を握りしめたままハロルドの顔を見、それから縋るように今度はレイチェルの方を見た。レイチェルはその視線を避けるように顔を伏せた。
「絵莉花、こんなこと、冗談じゃ言えないよ」
ハロルドは辛そうに答えた。
絵莉花は口を開いたが、声は上げなかった。気を失うのかと思ったが、体を震わせながら、目を見開いていた。
レイチェルが絵莉花に駆け寄り、その肩を抱くと、絵莉花はその腕の中で、ガタガタと体を震わせた。
ジョシュアも危うく倒れる所だった。兄に助けられ、どうにか立っている事が出来たが、ジョシュアもまた全身が震えるのを止めることが出来なかった。きっと、顔色は真っ青だったろう。
―渚苑なんて、そんな奴知らない。そんな奴死んじまえばいいんだ―
ジョシュアの頭の中で、先程の自分の叫びがこだましていた。
ハロルドは静かに語り始めた。
絵莉花がハルファを去って後、渚苑はずっと絵莉花の事を口に出さなかったという。ハロルドも何も聞かなかった。しかし、渚苑が密かに真珠の指輪を持っているのを知り、ハロルドは、渚苑の今後の為にも、確かめない訳にはいかなかった。真珠は六月の誕生石で、絵莉花が六月生まれであることをハロルドも知っていたからだった。
渚苑は、その指輪を曾祖母から伝わる形見だと言った。それは本当だったけれど、渚苑はそれを絵莉花に渡したかったのだ。誰よりもそれの持ち主に相応しい絵莉花に。
「僕達は何故もっと早く出会わなかったのだろう。もっと早く出会っていたなら……」
「渚苑、そしたら、ニュー・フロンティア号には乗らなかったか?」
「いや、多分、それでも、僕はニュー・フロンティア号に乗っていただろう」
ルナ・ベースの訓練基地内で、渚苑は溜め息のように呟いたという。
せめて最後に絵莉花に逢え、そして正直な気持ちを伝えろ、と言ったのは、ハロルドだった。でなければ、百年後アルファ・ケンタウリに着いても、もう居ない絵莉花に対して一生後悔した気持ちを抱いて生きなければならないと。絵莉花なら、きっと引き止めたりしない。お互いの心の奥にしっかりと愛を抱いて、それぞれの道に踏み出すだろうと。
「絵莉花は必ずハルファのどこかに居る。きっとレイチェルに聞けば分かる。
渚苑は、ハロルドの言葉に見送られ、指輪を届ける為に連絡艇の格納庫に向かってエレベータを上って行った。
ルナ・ベースは、有名無名の多くの人々で混雑していた。大半は地球政府の宇宙関係筋やスポンサーである大会社のお偉方、マスコミ関係者、そしてニュー・フロンティア号のメンバー達の僅かな身内や友人達。だが、その中に、厳重なチェックをかいくぐって、宇宙事業に反対するテロリストが紛れ込んでいた。テロリスト達は、一人でエレベータに乗っていた渚苑を引きずり降ろし、人質にして、人々の集まったロビーに向かって進んだ。彼らは、幾つかの時限爆弾をニュー・フロンティア号の発射を待つルナトロンに仕掛け、更に三硝酸グリセリンを主成分とした液体爆弾を携えていた。高温になったり少しでも衝撃を与えたりすると爆発するという代物だ。
彼らの要求はこうだった。
「人間は、地球を離れてはいけない。ましてや、太陽系の外になど進出してはならない。それは神の意思に反する。直ちに計画を中止せよ」
テロリストの一人が、逆上して手にした爆弾を落とした。その場の人々がもう駄目だと思った時、渚苑は床に落ちる寸前でその爆弾を掴み、停止したままのエレベータに転がりこんだ。爆弾は爆発し、同時にセンサーが作動して隔壁が下りた。
多くの人々が殆ど掠り傷程度で助かった。時限爆弾の幾つかは回収前に爆発したが、テロリストは全員逮捕された。
渚苑の遺体は見つからなかった。爆発したエレベータと共に、宇宙の藻屑と消えたののかも知れない。
彼の制服の胸ポケットに入っていたはずの真珠の指輪だけが、無傷で通路に転がっていたという。彼が爆弾を掴んで転がった拍子に、通路に転げ落ちたのだろう。それを手にして、ハロルドは男泣きに泣いた。
そして、死んだ渚苑の代わりに、それを絵莉花に届けにきたのだった。
「渚苑は、なぜ絵莉花を地球に残して、そんなにしてまで宇宙に行きたかったんですか。貴男もだ。地球が嫌いなんですか」
ジョシュアは俯いたまま訊いた。
「何故だろうな。はっきりとは言えないよ。だが、地球が嫌いなんていう事は無い。確かに地球じゃあ良い事は無かった。けれど、俺も渚苑も地球を愛していたよ。多分、誰かが宇宙に出ていかなければならない、人類はそんな風に作られている、だからかもしれない」
ハロルドはしみじみと答えた。
「展示室に飾ってある、ルナ・ベースから電送されてきた満地球の立体映像、あれを撮ったの、もしかして渚苑ですか?」
ジョシュアは、あの瑞々しく美しい、絵莉花の心を引き寄せて離さなかった立体映像を思い出して訊いた。
ハロルドは、静かに頷いた。