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それから、そわそわするのを必死に堪え――きっと堪えきれていなかったから、スタジオで何度も花宮郁から面白がるような視線を感じたけれど――、腕時計の針が午後六時を指す頃、無事に撮影が終了した。
クライアントと撮影スタッフ、花宮郁に挨拶をしてスタジオを後にする。
ドアを出る直前、彼女が「がんばれ!」とガッツポーズで見送ってくれたから、私は少しでも感謝の気持ちが伝わるように深く一礼して外に出た。
今日、ここで彼女に会わなかったら。彼女が楽屋に呼び止めて、昨日の話を聞かせてくれなかったら、木原さんが言ってくれた言葉たちを知ることはできなかった。
もしあのままだったら私は勝手に不安になって、彼のことを避けて、この気持ちにも蓋をしていただろう。
私ははやる気持ちを抑えながら、ぐっと冷え込み始めた暗い空の下、会社へと急いだ。
木原さんはまだオフィスにいるだろうか。
会いたい。会って、ちゃんと目を見て話したい。
もうこの気持ちを止めることも、ひっそりと抱えて過ごすこともできはしない。
ぜんぶ、ひとかけらだって残さずに、この気持ちを伝えたい。
かなわなくたっていいから、ただ、木原さんに私の想いを知っていてほしい。
新宿駅に着いて、ちょうど帰宅するために道を急ぐ人たちで混雑を始める駅構内を抜け、早足でオフィスビルへと向かった。
吹きすさぶ北風に頬と耳がじんじん痛くなる。だけど胸のうちはどうしようもなく熱くて、決意に震えていた。
気持ちが急いて、歩くスピードが徐々に速くなっていく。
オフィスにほとんど駆け込むように入ってきた私を見て、残業中だった酒井さんが目を丸くした。
「あれ、どうしたの。今日、直帰じゃなかったっけ?」
「その予定だったんですけど……」
言いながら、フロアを見渡す。木原さんのデスクは空で、ぱらぱらと残業にいそしむ社員たちのなかにも彼の姿はない。
「あの、木原さんは?!」
「え、なに、急に。なんか仕事でトラブル?」
「違くて、ちょっと話が」
「……ははーん。そういうこと? 木原くんならたった今、エレベーター降りてったとこだよ。ちょうど入れ違い。すぐ戻れば追いつけるんじゃないかな」
酒井さんはニヤニヤと訳知り顔で笑っている。
私と木原さんにスーパー銭湯のサービス券を押し付けたり、色々と暗躍していた彼女からしたら、きっと思惑通りだ。
「ありがとうございます!」
酒井さんに頭を下げて、すぐさま踵を返して駆けだすと「行け! 若者よ!」と妙な声援が背中に飛んできた。
思惑通りだってかまわない。私はきっと、ずっと前から木原さんを好きだったんだから。
パンプスのヒールがコンクリートを蹴る度にカツッカツッと硬い音をたてる。
会社を出て、肺いっぱいに冴え冴えとする夜気を吸い込みながら全速力で駅への道を走った。
揺れる視界の向こうにライトアップされた、新宿アイランドタワーのLOVEの四文字のモニュメント。
その前を見慣れた黒いウールコートの背中が歩いている。
彼の心と同じように、真っ直ぐ芯のあるのが分かる背筋。
「木原さんッ!」
大きな声で名前を呼ぶと、その広い背中がこっちを振り向く。
「沢井?」
肩で息をしながら歩み寄る私に、木原さんがちょっとだけ目を見開いた。
きっとこの表情の変化だって、他の人は気付かない。
でもそれがいい。木原さんのことを一番分かっているのは私でありたい。
想いを伝えたいという勢いでここまで来てしまって、いざ目の前にすると何から話したらいいのか分からない。
こんなに胸のなかは木原さんへの恋心で溢れているのに。
いや、溢れすぎているから、胸がいっぱいだから。だからこそ、どう伝えていいか分からないんだ。
「ちょうどよかった。これ」
木原さんがチョコレートの紙袋を差し出す。
私に直接返せなかったから、ちゃんと律儀に持ち帰るつもりだったんだろう。
そんなところも好き。
木原さんの背景に、夜に浮かぶ真っ赤なLOVE。濁りのない愛。
私の胸のなかにある、木原さんに届けたい、ただひとつの感情。
もうあざとくなくても、可愛くなくても、なんでもいい。
そう思った途端、勝手に言葉が唇から溢れ出した。
「いりません!」
「ん?」
「それ、木原さんにバレンタインに贈ろうと思って用意したんです」
「ん……? うちの会社は義理チョコは禁止だろう」
何を考えているのか分からない顔をしているくせに、聡くて周りをよく見ていて、私なんかより何倍も大人で。だけど自分への好意には鈍いのか、未だ私に紙袋を差し出したままで木原さんはそんなことを言う。
「義理なんかじゃありません……本命です! 受け取ってください!」
木原さんの唇から漏れる息が、白く浮かんで溶けていく。
ちょっとだけ鼻の先が赤い。それすらも可愛いと思ってしまうなんて。
全部を好きだと思うなんて、もう恋も末期症状だ。
気付かないふりをやめた途端、抑えていたものが一気に緩んだみたい。
「私、木原さんのことが好きです。大好きです! いつも私を見守ってくれて、分かりにくいけど優しくて、大人で……。私は木原さんのおかげで変われたんです! 木原さんがいたから。木原さんがあの時、言ってくれたから。きっとあのままだったら私、今も誰かに寄りかかることだけを考えて、自分のことも周りのことも、何も分からないままだったと思います。まだスピカには程遠いけど、でも、もっともっとちゃんと自分を磨いて、木原さんの前で輝ける自分になりたい」
呼吸するのも忘れるほど、私はまくしたてるように言った。
木原さんはそんな私に、切れ長の瞳を細める。
「もう玉の輿はいいのか?」
「そんなのもう興味ありません。お金も、地位も、何もいらない。私は木原さんがいいです。木原さんしかダメなんです。だから……私、木原さんの彼女になりたいです!」
こんな無計画で勝算のない告白、初めてだ。
でも勝ち目なんてなくたっていい。もし今日がダメでも、いつか必ず振り向かせてみせる。
私の人生には、きっと木原さん以上の人なんて現れない。
木原さんは肩をすくめて、ちょっと笑った。
「ずいぶん情熱的だな」
「誰がこうさせたと思ってるんですか」
一歩、木原さんにむかって足を踏み出す。
あと少しで彼に触れられそうな距離。
ムスク系の控えめなオーデコロンの香りが、風にのって運ばれてくる。
「木原さん、私、仕事も頑張ってます」
「ん? なんだ急に。でもたしかに最近の沢井は素直にすごいと思うよ」
「だったら……今度、温泉、連れってってください」
「なんでそうなる?!」
呆れたように眉間に小さな皺が入る。
私はその表情の変化を愛おしみながら、また一歩、木原さんに近づく。
「だって木原さんもスーパー銭湯、けっこう気に入ってたじゃないですか」
「だからって、なんで急に」
また一歩。もう木原さんはすぐそこだ。
「ホワイトデーなんて待てませんっ!」
そう言いながら目をつぶり、木原さんの胸に飛び込むんで背中に手を伸ばした。ぎゅっと抱きしめると、厚手のコートの上からでも伝わってくる筋肉の硬さ。
その感触に男性らしさを感じて鼓動がより一層激しくなる。
木原さんの胸に顔を埋めながら「ご褒美、ください」と呟いた。
「……沢井は長野の昼神には行ったことがあるか?」
「え?」
しばらくして降ってきた声はいつもより心なしか穏やかで。
どんな表情でそんなことを言い出したのか知りたくて、身体を離そうとした瞬間。
今度は木原さんに力強く抱きすくめられて、顔を見上げることはできなかった。
「あそこは星が綺麗なんだ」
耳元に落ちる照れくさそうな木原さんの声。
私の身体を抱きしめる腕の温かさに、彼の想いを感じてしまうのは私の気のせいだろうか。
彼の香りを胸いっぱいに吸い込んで、この幸せを逃さないように私も強く強く抱き返した。
少しだけ顔を上げると、木原さんの肩越しに広がる濃紺の夜空。
冬の澄んだ空気のせいか、そこにいくつか眩く光る星を見つけることができた。
この先、もしも自分の生き方や今いる場所が分からなくなったり、道に迷いそうになってもきっと大丈夫。
木原さんは。この恋は。
あの空のどこかでいつも私たちを見守ってくれている北極星のように、私をずっと導いてくれるから。
そして私もそんな彼に恋をしながら、きっといつか真珠のように清く輝く星になる。