8
いつもより時間が経つのがとんでもなく長く感じた午後。
私はパソコンのモニターにかじりつき、木原さんが視界に入らないように過ごした。
十五時になるやいなや、そそくさと会社を出る。
これで今日は木原さんから直接、チョコレートを返されることもない。
夕方の気配を纏い始めた街には、やっぱりもうバレンタインの浮ついた空気はない。
あんなにチョコレートの写真やハートマークで飾られていたコンビニの横断幕もポスターも、今は片づけられていつも通りの店構えだ。
こうやって私もいつも通りの街に溶け込んで、昨日のことなど忘れてしまえたらいいのに。
今日は大手飲料メーカーの新商品のイメージ撮影。商品はスティックタイプの粉末のミルクティーで、ポスターや雑誌広告に使われることになっている。
私はスタジオに到着し、メーカー担当者に挨拶をしたあと、今回の出演者である女優の花宮 郁の楽屋を訪ねた。
「失礼します。ご挨拶にうかがいました。三友エージェンシーの沢井です」
「あれ、ねぇ、あなた、昨日の?」
「え……?」
四畳ほどの二人掛けのテーブルセットとドレッサーだけの、その質素な部屋には不釣り合いなほど目を引く女性。
発光しているようにすら感じる色の白いつるりとした肌に、絹糸のようなロングヘア。幅広の瞳はぱっちりとした二重瞼で、派手な印象だ。
仕事の関係で何人か芸能人に会ったことはあるけれど、そのなかでも群を抜いて彼女、花宮郁は綺麗だった。
「ほら、昨日、和食屋さんで」
和食屋さん。それはきっと木原さんに連れて行ってもらったあの店で……。
花宮郁はテーブルの上のクラッチバッグを引き寄せて、中からサングラスを取り出すと顔の前にかざして見せた。
それを見て、直之くんの隣にスタイルの良いサングラスの女性がいたのを思い出す。
「もしかして直之くんと一緒にいらっしゃった……?」
「そうそう! あれ、私です! というわけで、二度目まして。花宮です。よろしくお願いします」
「よ、宜しくお願い致します」
まさか直之くんが連れていたのが花宮郁だったなんて。
そして仕事でお付き合いをしなければならない相手に、あんな場面を見られていたなんて。
直之くんも彼女には話を聞かれたくなかったのか、先に座敷にあがらせていたとはいえ、いきなり店を飛び出していったなんて情緒不安定な女に見えただろう。
途端に少しだけマシになっていた気の重さが戻ってくる。
「ねぇ、座りません? まだ撮影まで時間があるし、ちょっとお話したいなって」
「あ、えっと、でも」
「いいじゃないですか。ね?」
こういった現場で出演者から話そうと言われたことなんて初めてだ。
段取りのチェックはメーカーの担当者と撮影スタッフに挨拶をした時に済ませてはいるから、時間は少しならある。
昨日のことがなければ喜んでお付き合いするのだけれど、さすがに微妙だ。
「まだ仕事がありますので……」
「ちょっとだけ。ほら、座って座って」
花宮郁はその名の通り、今にも花でも咲かせてしまいそうな微笑を浮かべて椅子から立ち上がると、私の腕を引っ張って対面の椅子に座らせた。
昨夜のことなんて忘れてしまいたいのに、こんな風に彼女を目の前で見ていると忘れられるはずがなかった。
「昨日のあれ、全部、聞こえちゃってました」
「……あれ、ですか」
「うん。私、耳だけは良いの」
そう言って、顔だってスタイルだって抜群に良い花宮郁が肩をすくめて舌を出した。
その素振りも表情も全部が可愛くて、直之くんの扱いが私と彼女で雲泥の差だったことも頷けてしまう。
花宮郁にまで私の醜態を知られてしまったというわけか。
――最悪。
「お恥ずかしいところをお見せしました」
「全然。悪いのはあいつでしょ? ああいう奴を女の敵って言うのねぇ」
「え?」
「直之よ。直之」
いつの間にか敬語のとれた花宮郁の声が憎々しげに言う。
形も綺麗で、グロスで色っぽく濡れた唇と不釣り合いな言葉たち。
「ホントにキモすぎ。なんかあいつ勘違いしてるよね? こっちだって研修医じゃなかったら相手にしてないっての。あれは絶対に自分をイケメンだって勘違いしてるわ。思い出しただけでも嫌だ~」
その勢いに押されて、私は思わず苦笑した。
気持ちのいいくらい、私が吐き出したかったことを言ってくれている。
「ですね。でもお付き合いしてるんじゃ?」
「まさか。友達の誕生日パーティーで知り合ったんだけど、しつこく誘ってくるから一度だけ会ってみようかなって思ったのよ。それがまぁ、話はつまんないし、二軒目では……えーと」
「沢井です」
「沢井さんにあんな馬鹿みたいなこと言ってたわけじゃない? いやー思い出しただけでも気持ち悪いわ。だからね、私もあの後、水かけて帰ってやった」
「水、ですか」
「そう。顔なんてもう真っ青よ。そうとうプライドが傷ついたみたい。あなたにも見せてあげたかったわ」
こんな虫も殺せないような顔をして、マジ?
さっきまで忌々しそうに話していたのに、水をかけたと言う花宮郁の顔にはまた満面の笑みが戻ってきている。
水に濡れ、茫然自失になっている直之くんを想像したら、くすぶっていた気持ちがスカッとした。
直之くんは花宮郁をものにできなかったどころか、彼女に最低な男だと知られたうえ、水をかけられたなんて。確かにちょっと見たかったかも。
「ありがとうございます。スッキリしました」
「あ、でもお礼は私じゃなくて、一緒にいた彼にしてね」
「え?」
「あの人、沢井さんの彼氏?」
木原さん?
なんで木原さんの名前がここで……。
不安と期待で胸が張り裂けそうになる。
彼女の口ぶりからすると良い話のような予感がするのに、木原さんが何を言ったのか、直之くんの言葉をどう捉えたのか、聞くのが怖かった。
でも聞かずにいられるわけがない。
「違いますけど……どういうことですか?」
「あのね……」
◇
あなたが店を出ていったあと、同じ女性として腹がたって私はすぐにお座敷から降りて靴を履いたの。それでちょうど店員が運んできたお盆の上から水の入ったグラスを取って……。
そのとき、あいつに背を向けていた彼がカウンターから立ち上がって振り向いた。
睨んでいるわけじゃないのに、すごく冷たくて、静かに怒っていることが伝わってくる目をしてたわ。
「くだらない男だな」
彼はきっぱり、そう言った。喧嘩腰でもなんでもなくて、口調もあの目と一緒で冷え冷えとしてたわ。
「沢井はあんたと違って、ちゃんと相手のことを知ろうと努力ができるやつだ。一生懸命で、着実に前進できる力を持っている。だから間違った方向でも目標があれば猪突猛進してしまうが、それだけ純粋で真っ直ぐに生きている。あんたはそういうことを、何一つとして知らないだろう」
「はぁ?」
「あんた、たしか医者だったか? 勘違いしているようだが、あんたが女性を物みたいに扱うように、女性たちも医者だとか金持ちとか、そういう経歴でしかあんたを見ていない」
「……お前」
「沢井はあんたみたいな男が雑に手を出していいようなやつじゃない。あんたに沢井はもったいないよ」
淡々と話す彼と反比例するように、直之の肩は震えてた。
ボンボンで何不自由なく生きてきたから、あんまりこういう経験をしたことがないんでしょうね。
つかみかかるでも、怒鳴るでもなく、こぶしを握り締めながら震えてたわ。
彼はそんなあいつのことなんてもう視界に入ってないみたいに、店員に何枚かお札を渡しながら「騒ぎを起こした詫びです」って言い残してお釣りも受け取らずに店を出て行った。
◇
「それで、私もあいつに水をかけて帰ってきたってわけ」
花宮郁の話を聞いて、私の胸の奥がじんわりと熱くなった。
木原さん、そんな風に言ってくれたんだ……。
直之くんとのことで意見をもらった頃は、私に「人を上辺でしか見てない」って言ったのに。
そのあと、私が仕事だけじゃなくて、関わってきた一人一人をちゃんと知ろう、しっかり向き合おうとしていたことに気付いてくれていたんだ。
私のこと、ずっと見ていてくれたんだ。
「あの人、良い男ね」
「……はい」
「好きなんでしょ?」
「いや、あの……」
「自分の気持ちに素直になって、認めなさいよ。あんな人がそばで見ていてくれるなんて、好きにならずにいられるわけ、ないでしょ?」
彼女の言う通りだ。
もうこの気持ちを誤魔化すことなんて、できない。
私は木原さんのことが好きだ。
私を変えてくれた人。私を見守ってくれていた人。私を理解してくれる人。私を励ましてくれる人。私のために言葉を紡いでくれた人。
好きにならずにいられない。
恋に落ちないわけがない。
私が小さく頷くと、花宮郁はまた蕾が花開くように顔いっぱいに笑みを浮かべた。