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どうか木原さんがいてくれますように。そして誰にも見られずにチョコレートを渡すことができますように。
灰色のカーペット敷きの廊下を進むうちに徐々に鼓動が大きくなり始め、給湯室のドアを開ける時には知らず知らずに呼吸が浅くなっていた。
つとめて平静を装いながら給湯室を覗く。
三畳半ほどの給湯室はミニキッチン、壁沿いの冷蔵庫と小さな食器棚に囲まれるように背の高い楕円形のテーブルが据えてある。
そのうえのコーヒーメーカーのガラスジャグから、今日もしゃきっと背筋の伸びた木原さんがマグカップにコーヒーを注いでいた。
ファッションに無頓着なようでいて、スーツの形は全体的にスマートに見える形で、ワイシャツにもしっかり糊がきいていそうだ。
ブルーストライプのスーツは清潔感もあって、決してモテそうとか目立つタイプではないのにもはや私にはかっこよく見えてしまう。
姿勢の良さすら彼のなかには心身ともに一本筋が通っているからだろうなんて、半ば盲目的に考えてしまう。
――よかった。いた。
木原さんが顔を上げて「おはよう」と言うと、すぐにまたカップに視線を落とす。
深い色をした切れ長の瞳。
一瞬目があっただけで、鼓動が一際大きく跳ねた。
「お、おはようございます」
自分でも馬鹿みたいに思うほど、声が震えている。
ここで紙袋を突き出してしまえばいい。さりげなく、なんでもないってかんじのトーンで、この前のビールのお礼ですと告げればいい。
肉食ぶっていたくせに恋愛音痴だった私でも、バレンタインにチョコレートを渡すのはこれが初めてなわけじゃない。
大学の時に友達の紹介で知り合ったハイスぺ男子とか、バレンタイン合コンをうたった飲み会に人数分持っていった義理チョコ。
そのどれもが今日のこれとは違う。
心臓の音がばくばくと耳の奥に響いて、息苦しい。私はごくりと生唾を飲みこんだ。
傍目に見ても様子がおかしいのか木原さんがガラスジャグをコーヒーメーカーに戻しながら、ほんのちょっと眉をひそめた。
何か言わなくちゃ。
「あ、あの」
「ん?」
「えーっと、あの」
「なんだよ」
「え、えっと、その……今日の会議って何時からでしたっけ」
あー、もう何言ってんの、私……。
自分でもなんでこんな風になってしまうのか分からない。
バレンタインに限らず、これまでどんな相手でもこんな心臓が爆発しそうになったり、言葉が出てこなくなってしまうことなんてなかったのに。
恋愛マニュアルにあるような――今となっては完全に悪手であるとは思うけれど――、あざといと言われるような行動も言動も平気ですることができた。
……相手に気に入ってもらえるように計算して、ベタベタな手法だって使ってきたじゃない。
それがなんで木原さん相手だと、こんなことになってしまったのか。
まるで小中学生のようだ。当時はお父さんのことで家が大変で、同級生にチョコをあげるとか、誰かを好きになるような余裕なんてなかったけれど。
「四時だろ。……変だな。どこか具合でも悪いのか?」
「え、あ、ちょ、ちょっと……風邪気味かもしれないです」
バレンタインだから様子がおかしいことを悟られたくなくて咄嗟に嘘が口をついてでる。
悲しいくらいに健康体で風邪なんかしばらくひいていない。
「沢井みたいなやつでも風邪ひくんだな」
「なんですか、それ。もしかして馬鹿は風邪ひかないとか、そういうこと言ってます? さいあくー」
平坦なのにどこか意地悪な含みのある彼の言葉に一瞬でいつもの自分に引き戻されて、じとっと木原さんを睨みつける。
そんな私に「なんだ、元気そうでよかったよ」と木原さんは呆れたように肩をすくめて給湯室を出て行ってしまった。
「えー……」
チョコレートを渡すどころか、木原さんの前で可愛い女子にすらなれない。
食えない態度の木原さんも木原さんだけど、いくらなんでも朝からこれは。
一気に脱力して、私は給湯室の壁に背中を預けた。
……何やってんだろう、私。
会社にチョコレートを持ってきたことを周りに悟られたくなくて、ピンクのマフラーで紙袋を包んでデスクの一番下の引き出しに隠すようにしまった。
木原さんは今日は幸い午後に一社打ち合わせに行くほかは会社にいて、打ち合わせ後は夕方の会議に間に合うように戻ってくるらしい。
私はといえば今日は外回りの予定もなく、チョコレートを渡す機会はまだ十分にありそうだ。
大丈夫。さりげなく、平静を装ってささっと渡すんだ。一分もあれば余裕。
可愛くいられないなら、さっきみたいな言い合いでもいい。そのついでに押し付ける形になってもいい。
今日一日、いくらでもチャンスはある。
その後、私は仕事になかなか身が入らず、木原さんの動向ばかりが気にかかった。
ちらちらと斜め前のデスクに座る木原さんをパソコンのモニター越しに盗み見る。
彼はそんな私の視線になんか気付かずに、いつも通り黙々と仕事をこなす。
モニターを見つめる伏し目がちな切れ長の瞳。
電話をとって受話器を握る節くれだった長い指。
マグカップに触れる薄い唇。そのままくっきりと浮かぶ喉仏が上下するのを見とめて、私の鼓動がまた大きく跳ねた。
駄目だ。今日はいつも以上に木原さんのことを意識してしまう。
あの目が私だけを見つめてくれたら……なんて、とんでもないことを考えてしまう。
どうしちゃったんだろう。木原さんのことになると、自分が自分じゃなくなるみたいだ。
それからも木原さんが席をたってコーヒーのお代わりを入れにいったり、トイレに向かう度、一瞬、チャンスかな? とも思うのだけれど、戻ってきた彼の手に紙袋があったら変だろうとか、周りにバレるし……とギリギリで冷静になって自分を制止した。
そうなると意外とチャンスがないまま午前中が終わり、休憩時間がやってきた。
木原さんはいつもお昼ご飯を外で食べることが多いのか、だいたい十二時を過ぎるとデスクを離れる。
いっそこっそりチョコレートを木原さんのデスクの引き出しにでも入れてしまおうか。
――いやいや、何考えてんの。恐いでしょ、いきなり引き出し開けたら差出人不明のチョコレートが入ってるなんて。
私は首をぶるぶる振って、そんな自分の逃げの思考を振り払った。
そんなことをしているうちに、木原さんが席をたつ。
ここで一緒に昼食をとりにいけたら。
ご一緒していいですかって声をかけたら。そうすれば、ランチに向かう道すがら渡す機会もあるかもしれない。
「木原さん!」
「ん?」
勢いよく椅子から立ち上がった私に、木原さんがいつもの無表情のまま首を傾げる。
……駄目だ、言えない。
だって、これまで外回りが一緒だった時以外、木原さんとランチなんてしたことない。
急に誘ったら変に思われるに決まってる。
「あ、あの……なんでもないです。すみません」
「朝からどうした。変なやつだな」
木原さんは本当にいつも感情が読めないポーカーフェイスだ。
だけどあの一緒に夜空を見上げた日から、私はそれまで以上に木原さんのことをちゃんと見るようになったし、他の人は気付かないであろうちょっとした表情の変化が分かるようになってしまった。
それが今朝の給湯室での眉をほんのちょっとだけ寄せるだとか、今、私を怪訝そうに――多分これだって以前だったら気付かなかったほどの微妙な角度で口角が下がったこと――、その小さな変化にすら私はすごく敏感になった。
木原さんの真っ直ぐに伸びた背中がオフィスを出ていく。
些末な表情の変化に気付くようになってしまったくせに、いつも木原さんがどこの店でどんな昼食をとっているのか、どんな食べ物が好きなのか、そんなことすら私は知らない。
いつか木原さんがあけすけだと言った私の発言力は、木原さんだけにはうまく働かせることができなくなってしまった。以前の私なら木原さん相手にこんな緊張することなんてなかったのに。
あざとくも、あけすけにもなれなくて、だったら私には何ができるっていうんだろう。
なんだかちょっとだけ胸の奥の方がぎゅっと痛んだ。