バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

 これは、義理。まごうことなき、一欠けらの不純物もない、義理。純度百パーセントの義理。
 義理チョコ。社内で禁止されていても、別に全員に配るわけじゃないし、どこかでこっそり渡しちゃえばきっとバレないし。木原さんにはあの時の恩もあるんだもの。
 なんならこの前のビールのお礼だってしなくちゃいけない。
 そう、これは義理チョコというよりも、ビールのお礼。それだけ。絶対、絶対、それだけ。

 バレンタイン当日の朝、出来る限りラブなかんじに見えない包みを選んで購入した茶色くて四角い箱を入れた、これまたシンプルで小さな紙袋を通勤用のハンドバッグと一緒に握りしめて会社へと向かった。
 今日、これを木原さんに手渡すことを思うと心拍数が上がり、身体が強張る。通勤ラッシュでぎゅうぎゅう詰めの大江戸線に揺られながら、何度も何度も渡すシーンを脳内でシミュレーションしてみる。
ふと乗客のなかにバレンタインの相談をする女子高生三人組を見つけて、私は思わず心のなかでエールを送った。年齢や立場は違っても、今日、誰かにバレンタインチョコレートを渡す女性は全員、同志だ。

 木原さんは会社があるオフィスビルの地下一階に入るスタバでホットコーヒーを買ってから出社することが多い。そうでなければいつも始業時間前に給湯室でコーヒーを入れているはずだ。
 このまま一度、私もスタバに行ってみて、もしも木原さんに会えたら――周りに会社の人がいなければ、だけど、その場でささっと渡してしまうのもいい。
 むしろそれがベストだ。社内で渡すなんて誰かに見られるリスクが高しぎる。
 次点でスタバにはいなかった場合、給湯室に直行してコーヒーを入れる木原さんにさりげなく「この前のビールのお礼です。ご馳走様でした」とか、あくまでも誤解のないようにお礼という部分を強調して渡してしまうのがいい。
 だけどもしそのタイミングで渡せなかったら、なかなか一目を避けて渡すのに苦労しそうだ。木原さん本人にも誤解されては困るのだけれど、同僚やあの何かと騒がしい酒井さんあたりに知られて誤解されるのはたまったもんじゃない。
 そもそも木原さんは誤解どころか、気持ち悪く思ったりしないだろうか。義理チョコ禁止の職場で、急に私がバレンタインにチョコを渡してきたりしたら。なんでビール一杯奢ったくらいでバレンタインなんて意味深な日に贈り物をするのだと、邪推するどころか嫌悪しないだろうか。 この女はなんて勘違い女なんだろう、とか。
 不安と緊張がないまぜになって、胸に何かつっかえたように苦しくなった。

 会社の入る高層ビルに着くと、オフィスには向かわずに地下一階へと伸びるエスカレーターを降りてスタバに向かった。店舗の手前に伸びる廊下まで、ふわりとコーヒーの香りが満ちている。
 この高層ビルには不動産会社から法律事務所、IT関連や有名フランチャイズの飲食店の本社など、五十以上の企業が入居している。
 ドリンクをオフィスにテイクアウトする人たちが多いのか、始業時間前やお昼時などはスーツやオフィスカジュアル姿の男女で列ができていることが多い。
 今日もカフェスペースを突き抜けて、たくさんの人たちが並んでレジを待っていた。
 私は背伸びをしながら列の前方まで視線を巡らせる。先の細いパンプスのなかで、爪先がちょっとだけ悲鳴をあげた気がした。
 整髪料で固めた後頭部や、まだ眠そうな顔をした中年男性、同僚同士で会話に花を咲かせるOLたち、ぼんやりとスマホに目線を落とす自分と同年代の男女。その人波のなかに、背筋のピンと伸びた広い背中はどこにもない。
 腕時計を見ると始業まで残り二十分をきっていた。
 ――ってことは、もうこっちには来ないかな。給湯室にいたらいいけど。
 私は先ほど降りたばかりのエスカレーターに引き返すと、二十五階のオフィスへと急いだ。正面ロビーで社員証を改札機のようなゲートにタッチして中に入ると、オフィスフロアに通ずるエレベーターホールに向かう。
そ の間にも時計の針はどんどん進んでいて、エレベーターを待つ時間すらもどかしい。

「おはよう、沢井さん」
「おはよー!」
「おはようございます」

 名前を呼ばれて振り返ると高坂さんと酒井さんが肩を並べてこちらに歩いてくるところだった。
 ……あぁ、今、この人たちにだけは会いたくなかったのに。
 二人は私の手にさがった小さな紙袋をみとめると、顔を見合わせて微笑んだ。
 高坂さんの方はどこか嬉しそうな笑みなのに対し、酒井さんはあからさまにおもしろがっているのが見てとれるニヤニヤ顔。

「ふーん、なるほど。木原くんにチョコ、あげるんだ?」

 三日月みたいに目を細める酒井さんの言葉に、体温が五分くらい上昇した気がする。

「こ、これはそういうあれじゃないんで」
「そういうあれとは?」
「えっと、だから、本命とかじゃなくて、あくまでも日ごろのお礼というか」
「へー。うちって何年か前から義理チョコ禁止だったよね? ね、春ちゃん」
「ふふ、そうですね」
「義理までもいかないというか、本当にそんな深い意味はないですから……」

 柄にもなく声が小さくなってしまうのは、恥ずかしくて自分がいたたまれないから。
 そんな私に何か言いかける酒井さんを「まぁまぁ、そんな意地悪言わないで応援してあげましょうよ。大きな沢井さんの第一歩」だなんて高坂さんがなだめるから、私は余計に頬が熱くなった。
 エレベーターの扉が開いて、私たちは高層階に伸びる鉄の箱に乗り込む。
 二人がまだきゃいきゃい言っているものだから、私はちょっと反撃してやりたくなった。
 酒井さんも高坂さんも私のことをこんな風におもしろがっているくせに、こと自分のこととなると話が変わる。

「酒井さんはどうなんですか? 運命の婚約者さんにバレンタインチョコ、あげるんですよね?」
「あ、うん、そうね」
「何あげるんですか? 酒井さんのことだから高級ショコラティエのトリュフとか?」
「……うーん」

 途端に返事が歯切れ悪くなった酒井さんに高坂さんが吹き出した。

「やだ、酒井さん。昨日、チョコレート手作りするって言ってたじゃないですか」
「ちょっと! ばらさないでよ!」
「なんでですか? 素敵じゃないですか、手作りなんて」

 ちょっと前までアイドルと仕事のことしか興味がなくて、宝塚の男役みたいに凛々しい酒井さんが手作りチョコだなんて、正直ものすごく意外だ。
 彼女は気恥ずかしそうにショートボブの後頭部をガシガシ掻いて、私たちから目を逸らした。

「いい歳して手作りなんて、ちょっとね。恥ずかしいっていうか。学生でもあるまいし」
「そんなことないと思いますけど。お菓子作りはいくつになっても……」
「いや、なんかね、そういうことじゃないのよ。こう、好きな人のために一生懸命になってるのが若いっていうか青いっていうか……もっとこう、スマートにするべきなのは分かってるのよ。でも、でもね……って、え? 伝わらない?!」

 言いたいことはなんとなく分かる気がする。
 私は生い立ちのせいでそんな青春時代を送ったことはなかったけれど、学生時代の友人には彼氏や片思いの相手にチョコレートを手作りする子がけっこういた。
 みんな、好きな人に食べてもらいたいとか、喜ばせたいという一心で準備を頑張っていたものだ。
 だけどそれが大人になって気が付くと、もちろん手作りする子もいるのだけれど、だんだん贈り物や過ごし方にバリエーションが出てくる。
 リッチなチョコレートを贈ったり、チョコではなく品物のプレゼントや旅行に一緒に出かけたり。
 どれも相手を想っての行為には変わりないのだけれど、確かにあの行為には淡くて尊いものを感じる。

「いいんじゃないですか、別に。私は恥ずかしいなんて思いませんよ。それだけお相手のこと、一生懸命に好きなんですね」

 そう口にした私に高坂さんも優しさの滲む目元を細めて頷く。

「そうよね。酒井さんがまたそんな風に恋愛をしているのを見るの、私は嬉しいですよ」
「な、なに、二人して。やめてよ。おばちゃんをからかうの」
「からかってなんかないですよー。チョコレートブラウニーでしたっけ? うまくできました?」
「……それがあんまり。お菓子作りなんて生まれて初めてレベルだからね。って、私のことはどうでもいいから。春ちゃんは? 町田くんに何かあげるの?」

 そうとう気まずいのか、頬を赤らめた酒井さんが高坂さんに話題の矛先を向ける。
 その瞬間、高坂さんは分かりやすく口元を緩めた。
 ちょっと前まで秘密の社内恋愛をしていた彼女は結婚が決まってからはわりと分かりやすく幸福感を溢れさせるようになっていた。決して自らのろけ話をしたりするようなことはないのだけれど、町田くんとのことを聞くと恥じらいながらも嬉しそうに話してくれる。

「実は、逆にいただいちゃいまして」
「え?」
「へ?」

 間の抜けた私と酒井さんの声がエレベーター内に響く。
 高坂さんは溶けてしまうのではと思う笑みを浮かべ、ベージュピンクに潤った唇で何かを噛みしめるように語った。

「朝、起きたら、町田くんが両手いっぱいの大きな薔薇の花束を抱えてて……」
「うっ」
「マジか……」

 町田くん、ロマンチストなとこ、あるんだ……。
 頭のなかに大型犬のように背の高い町田くんが満面の笑みで両手に抱えきれないほどの真っ赤な薔薇の花束を持って高坂さんにひざまずいている光景が思い浮かぶ。
 ベタで甘いバレンタインの朝。
 しかもそのあと、朝食の傍らに某有名ショコラティエのチョコレートミルクがあったというのだから、完璧だ。

「あのわんこ、なかなかやるな……」

 酒井さんが呆然と呟くと、高坂さんはまんざらでもなさそうに微笑むのだった。
 軽いめまいを覚えながら幸せそうな彼女を眺めているうちにエレベーターが到着を知らせるポンという軽快な音を響かせ、扉が開く。
 降りがけに酒井さんに背中を勢いよく叩かれた。

「もしダメでもお酒にはいくらでも付き合うから、胸張って行ってきな!」
「酒井さん。ダメな方を前提にしない。ね、きっと大丈夫。沢井さん、今日も綺麗よ。なんだかんだ、いつも木原くんは沢井ちゃんのこと見てくれてるんだから。頑張って!」

 酒井さんと高坂さんらしい激励の言葉に、心の奥がむずむずして「だからそういうんじゃないんで!」なんてお礼の代わりに言い放って、私は二人を置いて足早に給湯室に向かった。

しおり