2
「沢井はよく来るのか?」
「ひと月に二回くらいですけど。酒井さんに勧められて、それで」
嘘。全然、嘘。本当は毎週のように来てる。
咄嗟に嘘をついてしまったのは乙女心のなせる技、なのかもしれない。
「そうか。こういう場所に来たことはなかったが、通いたくなる気持ちも分かる気がするな」
「あは、は。じゃぁまた会うかもしれませんね」
我ながら乾いた笑い声だった。木原さんもここに通うようなら、もうお風呂でメイクを落とすことなんてできない。
確かに木原さんとは色々あって私の意識や生活が大きく変わるきっかけにはなったけれど、別に木原さんを好きになったわけでもないのに、さっきから乙女心とかすっぴんを見られたくないなんて、我ながら訳が分からない。
きっとこんな風に変に意識してしまうのは酒井さんのせいだ。
もう半年以上前になるのに、星の話で励まれたあの夜のことをたまに思い出してしまうからだなんてことは、絶対にない。
あの、電車で抱きとめられた腕の力強さを忘れられないのも、ぴんと伸びた背中を目で追ってしまうのも、全部。全部、おせっかいな酒井さんのせい!
アジアンなプルメリアの透かし彫りの入った衝立の向こうの木原さんは私の動揺に一ミリだって気付かずに淡々と仕事の話をしている。
来月、年度末で寿退社することが決まっている高坂さんから引き継いだ顧客への挨拶まわりがあと何件残っているかとか、発覚した時は社内で多数悲鳴があがったそのお相手である町田くんのやる気の空回りっぷりについて、など。
私の生返事にお構いなしに話していたくせに、急に「そういえば」と言葉を切って、ふと思い出したように「沢井、今月営業成績四位だったな」と、木原さんの低い声が私の名前を紡いだ。
――気付いてくれてたんだ。
木原さんのそのたった一言が、私の胸の内を撫でて気持ちを高揚させた。
うちの会社の営業部では毎月最終日に、各課の成績優秀者上位五人の発表がある。
随時更新される途中経過のA4用紙がホワイトボードに張り出されていて、今日、二月十二日の時点で私は二課のなかで四位になっていた。
そこに私の名前の三文字を見付けた時の、くすぐったくて誇らしい気持ちといったら。入社以来、こんな営業成績をあげられたのは初めてのことだ。
木原さんが長い指で星をなぞり、私に言葉をくれたあの日から。私は一度、愛のない結婚を探すのはやめにして、しばらくは仕事に集中してみようと決めた。
ガツガツせずに働きながら自分を見つめ直したら、いつか木原さんの言うように本当の恋が見つかるかもしれないという思いもあった。
考えてみたら、あの頃の私はきっと自分という人間のありようすら分かっていなかったのだ。確固という意思や目的があるようで、結局は自分を幸せにしてくれる王子様を見付けて寄りかかることだけを考えていた。
それではダメなんだと、木原さんのおかげで気付くことができた。
それでも未だに高収入の男性と出会う機会があると、ぐらりと心が揺らぐこともある。人間、すぐに完璧に変わることなんてできっこない。
でも暴走しだしそうになるのにブレーキをかけて、いつもちゃんと踏みとどまる。
まずは、木原さんが教えてくれたあの真珠みたいな星のように。
一つでも、ちゃんと輝くものが私の中に生まれたら。そう思って、私は今日だって足が棒みたいになるまで働いたのだ。
仕事終わりの大きなお風呂やマッサージが気持ちいいのも、ビールに美味しさも。もとをただぜは全部、木原さんのあの一言があったから知ったことなのだ。
この、衝立の向こうにいる、マイペースで掴みどころのない男は、私が自分のせいでこんな風になってしまったことを分かっているのだろうか。
「はい。上位になれたの初めてで、すごく嬉しいです。月末まで、この調子でいけるかな」
「いけるだろ、今の沢井なら」
今の私。さらっと発せられた木原さんの声が私の耳たぶを火照らせる。
どんな顔してこんなこと、言ってくれたんだろう。
今の私は、木原さんの目にどう映ってるんだろう。どう、思ってるんだろう。
急にこんなことを言われると、咄嗟になんて言葉を返していいか分からなくなる。
「じゃ、俺帰るわ。お疲れ」
「あ、は、はい。お疲れさまでした」
戸惑っている内に衣擦れと椅子が動く音がして、衝立の向こう側の気配が消える。
もう、帰っちゃうんだ。
まだ会って十分ほど。随分、あっさりだな。
なんだかちょっとだけ寂しいと思う自分がいて、私はそんな気持ちを誤魔化すように目をぎゅっと瞑ってビールジョッキをあおった。
まだ半分以上残っていたのに、勢いに任せて一気飲みする。
喉が鳴る小気味のいい音が耳の奥で聞こえた。
「すごい飲みっぷりだな。ますますオヤジ化するぞ」
突然、木原さんの声がして、ハッとジョッキを唇から離した。いつもの落ち着いた声色が、可笑しそうに震えている、気がする。
「えっ」
木原さんが豊かな泡のたつビールジョッキを片手に、こちらを見ていた。
相変わらずの感情の読み取れない目。
顔がかぁっと赤くなって、慌てて泡のついた口の周りをおしぼりでぬぐう。
なんでよりにもよってこんなところを見られるかなぁ。
すっぴんで色気も何もないスーパー銭湯の館内着で、髪だってぼさぼさなうえにビールをぐびぐび飲んでるところだなんて。
木原さんは目を細めると、テーブルにドンッとビールのジョッキを置いた。
なみなみとつがれたビールの淵で表面張力でふんばっている泡がかすかに揺れる。
キンキンに冷えている表れか、ジョッキには薄っすら霜のようなものがついていた。
「これって……」
「奢る」
「えっ……」
「仕事、一生懸命に頑張ってみるのも悪くないだろ?」
突然の出来事にあっけにとられている私を置いて、木原さんは「また明日な」と告げると、さっさと背中を向けてレストランを出て行ってしまった。
どうして。
木原さん、笑ってた。いま、絶対、笑ってた。
木原さんはいつもほとんど無表情で、楽しいのか怒っているのか笑っているのか悲しんでいるのか全然分からない。ポーカーフェイスというのは彼のためにある言葉なんじゃないかと思うほどだ。
そんな木原さんが唐突に冗談とも本気ともつかないおかしなことを言うから、社内の人間は皆、口を揃えて彼のことを掴みどころがない人だという。
だけど、さっき、「一生懸命、頑張るのも悪くないだろ?」と言った時、彼の切れ長で涼し気な瞳は優しげに細められていたし、口角だってちゃんと上がっていた。
木原さん、あんな風に笑うこともあるんだ。
そう思うと、胸がぎゅっと見えない何かに掴まれたように苦しくなる。
どきどきと鼓動が耳の奥でうるさい。木原さんが何を意図してビールを奢ろうとしてくれたのか、想像するだけで身体中が熱くなった。
木原さん、私のこと、ちょっとは、認めてくれたってことなのかな……。
私が変わるきっかけをくれた人。好きとか嫌いとか、恋とか敬愛とか、そういうものじゃなくて。
滅茶苦茶に意識してしまっている自覚はあるけれど、いくら玉の輿狙いをやめたところであんな何を考えているのか分からない、意地悪なことを平然と言ってくる木原さんを好きになるなんてありえない。
ただ、私はあの日、木原さんがあの言葉をかけてくれたことを感謝している。あの瞬間がなかったら、私はきっと今でも自分という人間の在り方すら分からずに闇雲に結婚相手を探していただろう。
だから、もしも、木原さんに少しでも認めてもらえたのだとしたら。
私は頬に燃えるような熱を感じながら、貴重な何かを逃すまいとするかのように、ゆっくりと新しいビールに口をつけた。
その帰り道で立ち寄ったコンビニの垂れ幕で二日後にバレンタインが控えていることを思い出した。
うちの会社では不要なトラブルを招くまいと社内で義理チョコを配ることは禁止されているので、結婚相手漁りをやめた今となっては私には一ミリも関係のない話だ。
バレンタインというイベントの存在も、それがいつかということもすっかり頭から抜け落ちていた。
コンビニの自動ドアを入ったところに大きく作られたバレンタインチョコレートの特設コーナーには、色とりどりの包装紙で飾られた小箱が鎮座している。包装紙のハート模様や、ハートのメッセージカードと思しき厚紙、可愛らしく結ばれたピンクのリボンに思わず「ぅえっ」と変な声が出た。
しばらく自ら切り離そうと思っていたもの。結婚とか、恋とか愛とか。
こういう、誰かに好意を寄せたり伝えたりするという行為そのもの。
それなのにこんなにも分かりやすく相手に愛情を示す手段を見てしまった時、頭にちらついてしまったのは非常に不本意なのだけれど、さっきの木原さんの微笑だった。
なんで、かなぁ。なんで、よりにもよってこんな時に浮かぶかなぁ。
なんで、もう一度、あの笑顔が見たいだなんて思うかなぁ。
私はしばらくぼんやりとチョコレートが並べられた什器の前から動けなかった。