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私の様子をうかがいにきた酒井さんと高坂さんに連れられて会社のそばの定食屋でご飯を食べたあと、席に戻るとデスクの真ん中に栄養ドリンクの瓶が置いてあった。
なにこれ?
どこからどう見ても、茶色の瓶に入った、ドラッグストアやコンビニで売られているのをよく見るビタミンやタウリンが配合されている、あれだ。
どうしてこんなものが私のデスクに?
「あ、おかえりぃ。ねぇねぇ、俺の奥さん、朝のことなにか言ってた?」
隣のデスクの町田くんが椅子の足についたタイヤでススっと近くまで寄ってくる。
間延びした声に反してどこかそわそわした様子なのは、自分の逆バレンタインの評価が気になるからか。
「はぁ? なにそれ。まだ奥さんじゃないでしょ」
「いいじゃん。四月の春子さんの誕生日には入籍するんだし」
「まだ二ヶ月くらいあるけど? 言いたいだけなのバレバレ」
「厳しいなぁ」
この大型犬みたいな男は本当に高坂さんにベタ惚れだ。
今にもしっぽを振り出しそうな顔をしながら、向かいの高坂さんの席を覗き込んでいる。
こんな風に素直になれたら、色々楽なんだろうな……。
「あ、そういえば、それ」
「ん?」
町田くんが栄養ドリンクの瓶を指さす。
「それ、木原さんが昼休憩中に戻ってきて、置いていったよ」
「え?!」
思わず大きな声を出してしまった私を、町田くんがちょっと驚いたように笑う。
「ここで春子さんの愛妻弁当を食べてたから、戻ってきた木原さん見てびっくりしたよ。今日はお昼食べてそのまま取引先に向かうつもりだったっぽいのに、わざわざ一回戻ってくるなんて、どうしたんだろうね」
「そ、そうなんだ……」
愛妻弁当という言葉につっこむことすらできず、私はただぼんやりと木原さんのデスクを眺めた。
この栄養ドリンクを置いてすぐにまた会社を出たらしく、整然と片付いたデスクには彼の姿はない。
――どうして、わざわざこんな。
スマホのメッセージアプリの木原さんのトーク画面を開く。
仕事のことの他はほとんど連絡を取り合ったことのない、事務的で無味乾燥なメッセージの並ぶ画面。
『栄養ドリンク、ありがとうございました』
文字なら直接話すよりはよっぽど緊張しない。
攻めた内容でないから当然なのだけれど、午前中の自分と比べると自然にメッセージを送ることができたと思う。
すぐにメッセージに既読がついて、木原さんのレスポンスが表示された。
『風邪気味なんだろ? お大事に』
ドクンと心臓が大きく音をたてる。
うそ……もしかして朝のあれを気にしてくれていたってこと?
それで、わざわざ?
駄目だ。胸の高鳴りが止まらない。
意地悪な態度をとったくせに。あの時は、そんなこと全然言ってくれなかったくせに。
こんなことするなんて、ずるい。
終業時間をむかえ、社員たちがぱらぱらと退社していく。
酒井さんは定時ぴったりにそそくさと去っていき、高坂さんと町田くんは仲睦まじく肩を並べて帰っていった。
PCモニターの向こうの木原さんはまだキーボードを叩き続けている。
午後、私はどうしたら彼にチョコレートを渡すタイミングを作れるのか考えていた。
色んなパターンを思いついたのだけれど、きっとこれがベスト。
スマホのメッセージアプリをたちあげると、何度も繰り返し眺めてしまった木原さんの優しい言葉が目に入る。
直接なんて言えないけれど、文字でだったら。
『今日、飲みに行きませんか?』
木原さんを誘うこと。
直接なんて誘えない。だけど、今は。もうチョコレートを渡すだけじゃなくて、木原さんと時間を共有したい。木原さんのことをもっと知りたい。
いつもお昼休みにどこでご飯を食べているのか。食べ物は何が好きで、苦手なものはあるのか。いつから星が好きなのか。星以外にも趣味や好きなものはあるのか。
私はまだ彼の知らないことが多すぎる。
もっと知って、もっと近づきたい。
この気持ちをなんと呼ぶのかなんて、分からない。
だけど、とにかく今は。今は。
電子的なメッセージならまだ大丈夫と思っていても、送信ボタンをタップしようとする指が震える。
飲み終わるのが惜しかった、栄養ドリンクの空き瓶。
たかがゴミ。だけどせめて今日だけは最後まで見守っていてほしくて捨てることができずにいた。その宝物のような空き瓶を見つめて、私は深く息を吸った。
――よし。
送信ボタンをタップすると、トーク画面にメッセージとなって文字が表示される。
それと同時に木原さんのデスクで彼のスマホが震えたのが音で分かった。
木原さんがつむぐキーボードの音がやむ。
視界の端で彼がスマホを取り上げるのをとらえて、私はどうしたらいいのか分からなくなった。
「おい」
オフィスチェアの軋む音とともに、木原さんのバリトンが私を呼んだ。
恐る恐る顔をあげると、じっと私を見ている瞳と目が合う。
わずかに皺の寄る意思の強そうな眉頭。
「どうして目の前にいるのにスマホに連絡してくるんだ?」
「えっと……なんとなくです」
駄目だ。言葉につまって、妙な返事をしてしまうと、木原さんの眉が一瞬だけぴくっと動いた。
木原さんは今、何を考えているんだろう。おかしなやつだと思われただろうか。
近づきたいのにうまく踏み込めない。こんなこと初めてでどうしたらいいのか分からない。
飲みに行きたい。デートがしたい。なんとも思っていない相手になら、いくらでも平然と言ってのけることができたのに。
「具合悪いんじゃないのか?」
「元気です。全然、めちゃくちゃ元気です」
「なんだ。じゃあさっきのあれはいらなかったな」
どういう意味で言ってるんだろう、この人は。
意地悪なのか、そのままの意味なのか。
私はその言葉の意味をはかりかねて、デスクの上の空き瓶に目をやった。
いらないわけないじゃない。
こんな風に大事にとっておいてあるのに。
「……そんなわけないじゃないですか」
「ん?」
「う、嬉しかったです。ありがとうございました」
木原さんから目を逸らしたままでしか、こんなことすら素直に言えない。
向かいから衣擦れの音が聞こえて、視界の端で彼が立ち上がった。
「今日の沢井はなんだか変だな。また婚活で何かあったか」
「婚活なんて、もうしてません」
「まぁいい。話くらいは聞いてやる」
「え?」
思わず顔を上げると、通勤鞄を手に木原さんが私を見下ろしていた。
深い色の瞳にも薄い唇にも、優しい笑みなんて浮かんではいない。
だけどなんとなくその無表情に温かい何かを感じてしまう。
「沢井が飲みに行きませんかって言ったんだろう。来ないのか?」
「い、行きますっ!」
本当になんだかんだ言ってこの人は。どうしてこんな風に優しくするんだろう。
私は勢いよく立ち上がると慌ててバッグをとって立ち上がる。
さっさとオフィスを出ようと先を行ってしまう木原さんのスーツの背中。
中肉中背で、すごく身長が高いとか背中がすごく広いわけではないのに。スーツの布越しにも引き締まっていることの分かる後ろ姿に、頼もしさや男らしさを感じてしまう。
私はその背中にすら胸がときめいていることに気付きながら、慌てて後を追った。