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その夜のことは、正直、あまりよく覚えていない。
町田くんも会社の男性社員に教えてもらったという個室のある居酒屋で、一杯どころで済むはずもなく深酒をした。
結果的に言うと、彼は甘えるのだけでなく甘えさせるのも上手で、私は呆気なくまるっと愚痴をすべて吐き出し、他の諸々もトイレで吐き出し、その辺の記憶もほとんど曖昧なのだけれど、次になんとなく覚えているのは、私の部屋に町田くんがいる光景。
肩を抱えられ、ベッドまで運んでくれたようで、私は優しくシーツの上におろされた。
体がマットレスに沈み込んで、町田くんのにおいが離れていく。
「大丈夫ですか? 俺、もう帰りますからね? 鍵だけはちゃんとかけてくださいよ」
あの時、きっともう理性はなくなっていた。
するりと私の肩から抜けた腕を咄嗟に掴んで、私は言った。
「行かないでよ。ペットのわんちゃんみたいに、一緒に寝てよ」
目は閉じているから何も見えないし、呂律だってまともにまわっていない。
でもベッドが揺れて、私のすぐ傍に町田くんが腰かけたのが分かった。
薄っすらと重いまぶたを開けると、私を押し倒すような格好で彼がのしかかっていた。
ペットにこんなのは求めていない。
「高坂さん、俺のこと、男として見てないでしょ?」
何か言おうとするのに、酔いがまわっているせいで頭が働かない。
珍しく真面目な顔をした町田くんが、ぐんと顔を近づけてきて私の耳元で囁いた。
――こういう時は、いつもの甘えた調子じゃないんだな。
「俺はこんなに、高坂さんのこと、女性として見てるのに」
そこで記憶が途切れた。
翌朝。
目が覚めると、至近距離に町田くんのまだあどけない寝顔があって。
しかもご丁寧に彼も私もすっぽんぽんで。
いい年なのに、そんなに経験豊富な方でもないし、テレビドラマのようにスマートになんてできるはずもなく、あからさまに狼狽した。
「まままま町田くん!!!!」
「……ん……あ、春子さん、おはよう」
「お、お、おはようじゃない。おはようございますでしょ?! 先輩だよ?!」
って、正すべきはそんなところじゃない。
しかもこの子、さらっと私の名前を……!
「こ、このこと、これは、あの、会社では……」
「言いませんよ。春子さん、知られたくないんでしょ? 俺はみんなに知られたって構わないですけど」
唇を尖らせる、私より何倍か女性らしい仕草の彼を見ている内に、少しずつ平静を取り戻した。
「じゃぁ、なかったことにしよう。ね、お互いそれがいいよ。町田くんだって、ね、これ何かの間違いでしょ?」
「なかったことにしたいですか?」
今度は真顔で訊かれて、私は閉口した。
「俺はなかったことになんてしたくありません。なんなら、ペットでいいです。春子さんがその方がいいなら、それで」
「なに言って……」
「まぁ、俺だって男なんで。本当はペットより恋人の方が嬉しいですけど」
寝ぐせで爆発した、犬みたいなのに猫っ毛を大仰に掻いて照れたように笑う。
いつも本当はそんな予感がしていたのに、これまで見ないふりをしてきたのは、あまりにも歳が離れているからだ。
からかって遊んでいるのだとでも思わなければ、ときめいてしまいそうだった。
おばさんが本気になってはいけないと、そう自分に言い聞かせていたから。
それに、そもそも。久しぶりに恋愛をすること自体、怖い。
私が自分にも他人にも興味がないと、この子も思うかもしれない。
無神経にまた傷つけてしまうかもしれない。
町田くんは私が答えを出すより早く「うん。もう高坂さんがなんて言おうと関係ないです。また来ます」などと言って、脱いだまま床に散らばっていた衣服を身につけて帰っていった。
ご丁寧にネクタイピンを落として。
そして、その日の夜に、それを取りに来たという口実をひっさげて朗らかに、また我が家にやってきた。
有言実行とは、まさにこのことだ。
それからしばらくは毎回、町田くんは必ず忘れ物を一つして、うちに来る日が続いた。
彼の計画的な忘れ物は、ハンカチだったり腕時計だったり、そんなことある?と思うような靴下の片割れだったりした。
そういえば忘れ物をしなくなったなと思った頃には、もうすっかり、うちに住みついていた。
まるでペットのように。
それから会社でばれやしないかと冷や冷やしながら、秘密の同棲生活が始まった。
恋人のようなペットのような、ふわふわの優しい日々。
町田くんとの生活は、整理整頓の苦手な彼のテリトリーが徐々に散らかっていくことを除けば、とても居心地がよかった。
彼のくれる柔らかな温もりは私をふんわりと包んで、気が付けば彼なしの生活は考えられなくなっていた。
けれど、部署の飲み会で理想の恋愛というお題で場が盛り上がった時に、町田くんの口から「いつもは強気で仕事のできる年上の女性に急に弱い一面を見せられると支えたいなぁなんて思いますよね」とするりと出てきた時には目を白黒させてしまった。
そして今。
「俺は春子さんと出会えて良かったと思ってるんだけどなぁ」
可愛いなぁと胸がきゅんとすると同時に、私はひどく彼に申し訳ない気持ちになった。
町田くんと暮らし始めてから、できるだけ不用意な発言をすることも気をつけるようにしていたし、たまに出てしまっても元カレとは違ってその場ですぐに不満を漏らしてくれたから、ちゃんと謝ることもできていた。
だけど。
「今みたいに、私、簡単に人を傷つけるようなこと言っちゃうから。それで前に、春子は自分にも他人にも興味がないんだろって言われたことあって」
はははと乾いた笑い声を出してみたけれど、私なんのために今笑ってるんだっけと、いよいよ分からなくなる。
いつもは甘えたな町田くんがダイニングの椅子から立ち上がって私の横にたつと、そっと優しく私の頭を撫でた。
――だから、犬は私じゃないんだってば。
「確かに春子さんは自分には興味がないんだって思うよ。でも、他人に興味がなかったら、あんなに会社でまわりを気遣えたりしないでしょ」
「気遣えてなんかないよ」
「ううん。クライアントにだって、春子さんの細やかな気配りは伝わってるよ」
「あんなことがあったのに?」
まだ根に持っている例の接待事件をあげると、町田君は「あぁ」と苦笑いした。
「あれは相手が特殊。俺、先輩に聞いたことあるよ。高坂さんってクライアントにえらい評判で、なかなか他の営業のつけいる隙がないって」
「うそだ。そんなにおだてても何もでないよ」
照れ隠しにジト目で彼を睨む。
「何も出さなくていいよ。こうしてそばに置いてくれてるし」
なんていじらしいことを言うのか。私は彼のまあるい瞳をじっと見上げた。優しい眼差しが返ってくる。
「俺が好きになったのも、そういう春子さん。人一倍気配り上手で、仕事頑張ってて、強くて。他人に興味がない人が、後輩の相談にのったりできないでしょ」
町田くんは微笑んで、お局さんって呼ばれるわりに、けっこう女性社員から好かれてるもんね、春子さん。と付け加えてくれた。
――町田くんは本当に、私のことをちゃんと見ていてくれたんだ。
やりがいのない仕事だなんて思っていたけれど、こうして頑張っていたことを認めてくれる人がいた。
ただそれだけのことなのに、嬉しくてたまらない。
「ありがとう」
彼に座ったまま抱きついて、お腹のあたりに顔を埋めた。
うちの柔軟剤のフローラルな香りが鼻孔をくすぐる。
だけど鼻の奥がツンとするのは、きっとそのせいじゃない。
柄にもなくじーんときて、あからさまに感動した顔を見せるのが恥ずかしかった。
でもきっと年の割の察しの良い町田くんには、これが照れ隠しだってことはバレている。
「あ! そうだ! ねぇ、食べ終わったらさ、今日は特別にご褒美があるよ」
「ご褒美?」
「うん。ご褒美。ね、だからさ、早くご飯食べよう」
わしゃわしゃと私の頭をかき乱して――だから私は犬じゃないんだって! 町田くんは席に戻ると、食事を再開した。
なんのご褒美よ、と言う私にもお構いなしだ。
「マイペースだなぁ」
「あ、どう? 俺のこと、意外と猫っぽいと思ってきた?」
猫はほら、甘えたい時は寄ってくるけど、基本はマイペースだよねとふにゃふにゃ話している彼に、私は首を振る。
「……思わないけど。犬っぽいっていうのは、会社のみんなの総意だから」
「えー」
そんな会話を交わしている間に、お皿はどんどん空になった。
「ごちそうさまでした」
「待って待って。まだごちそうさま、しないで」
慌てて立ち上がった町田くんが冷蔵庫を開けて、なにやら取り出そうとしている。
満面の笑みで振り向いた彼の手にはスタバのプラカップ。
黄色いクリームを透過して、緑のセイレーンのロゴが微笑んでいる。
「え、ねぇ、それってもしかして……」
町田くんは胸を張って、それはもう満足そうに答えた。
「スタバの新作、スイートポテトフラペチーノ!」
「……ねぇ、町田くん。フラペチーノ、何度も飲んだことあるよね? 中身が氷なの、分かってるよね? それ、いつから冷蔵庫に入ってたの?」
「あ」
「あ、じゃない。よく見て? ホイップクリームも中身も、どろどろじゃない?」
ちょっといつもと様子の違うフラペチーノを眺めて、町田くんはまた、にへらっと生クリームが溶けたように笑った。
「でも、きっと美味しいよ。はい」
緑色の太いストローを刺して差し出してくれたそれを、私は呆れながら飲んでみる。
凍っていないせいか、いつもよりどろりと口に流れ込んできたそれは、糖度が濃く感じる。喉にくる甘ったるさ。
でも。
「美味しい」
「でしょー?」
さつまいもの、本当にスイートポテトのような親しみのもてる甘味が私を幸せにした。
んー、秋の味覚。
「ね?買ってよかったでしょ?」
「うーん。できれば次は作りたてのやつが飲みたい」
「だって、それは誘ったのに春子さんがダメって言ったんじゃん」
「仕事終わってなかったからでしょ? 町田くんなんてデスクの上がすごいことになってたし」
ふーんとまた不貞腐れて町田くんはぷいっと横を向いた。
こういう分かりやすいところも可愛くて嫌いじゃないし、彼とのこんな言い合いだって、なんだかんだ楽しい。
――あぁ、私も大概だな。
ドロドロした甘すぎるフラペチーノをちょっとずつ流し込んで、こんな甘い日々がずっと続いてくれないかなと心の中で思った。
仕事も結婚も、自分がこの先、どうなっていくのかも分からないけれど。
町田くんとこんな掛け合いをしながら、ペットみたいな彼に、たまに犬みたいな扱いをされながら平和に暮らしていけたらいい。
やりがいのないと思っていた仕事だって、町田くんや他の社員が認めてくれるなら、もう少し頑張っていけそうな気がする。
きっと私も溶けそうな笑顔で彼を眺めていたに違いない。
町田くんが怪訝な顔で首を傾げた。
「春子さん、どうしたの?」
「別に」
「えー、なに?教えてよー」
私は首を振って誤魔化すと「俺はずっと一緒にいたいなぁと思ってたよ」なんてエスパーみたいなことを言う。
「うそ、心が読めるの?」
「……ぷっ」
盛大に噴き出してお腹を抱えながら、町田くんが「そんなわけないでしょ。春子さん、意外と天然なところ、あるよね」と笑った。
「でも、そう思ってくれてたんだ?」
「どうかなぁ」
はぐらかしても今度は彼も諦めない。
「ずっと一緒にいたいと思ってもらえてたらいいなぁ。ね、来週あたり、俺の実家行かない?母さんに紹介させて!」
「え! 無理無理無理無理!! お母さん、おいくつ? 私とそんなに歳変わらなかったりしないよね?」
「んーとねぇ」
空中に目線をやって思案していた町田くんがボソボソと「俺を生んだのいつって言ってたかな? ハタチの時だっけ?」なんて言っているのが聞こえてくる。
黙ったまま頭の中で計算してみて、冷や汗をかいた。
「やっぱり無理!門前払いされるに決まってるでしょ、こんなおばさん」
「えー、うちの母さん、けっこうファンキーなかんじだから大丈夫だよー」
「ファンキーって、どんなお母さんよ?!」
電車の中で渦巻いていた自分の将来を憂う気持ちは、すっかりどこかに消えていた。
町田くんといると癒される。
まだ私たちがこの先、どうなっていくのかなんて分からない。
年の差のことも、真面目に考えたら結婚や妊娠出産のことも、なかなかに問題の多い恋愛だと思う。
それでも、きっと。
私はずっと町田くんと一緒にいたいし、彼のご家族に許してもらえるように少しでも良い女性になろうと思う。
「あ、じゃぁさ、近々、指輪見に行く?ちゃんとでっかいダイヤついたやつ!」
「そんなお金あるの?」
「……善処します」
そんな町田くんのフラペチーノにも負けない甘い甘い提案を聞き流しながら、私の心は幸せで満たされていた。