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「いや、まぁ、そうだろうけどね……」
「どうして急に帰れだなんて」
「うーん……。ちょっと言いにくいんだけど、さ。若い子連れてきてよって、部長さんが」
「えっ、ちょっと待ってください。それって」
「悔しいだろうが、ここは沢井ちゃんに引き継いで。分かっていると思うけど、こういうクライアントもいるから。今日は帰りなさい」
さっきまで歯切れの悪かった下田さんが、一息にそんなことを言って早足で門の中へ戻っていく。
私は頭から水を浴びたようになって突っ立ったまま、暖簾の奥に消えていく彼らの後姿を、ただ呆然と見つめていた。
力の入らない指を無理やり動かして、沢井さんに電話をかける。
沢井さんというのは昨年、入社したばかりのまだ若い女子社員だ。
もう帰って合コンでもしていたのか騒がしい電話口の向こうで、彼女は不満げな声を上げたけれど、なんとか説得して私の代わりに同席してもらう。
ふらつく足でオフィスに戻ると、バッグから取り出したプレゼン資料とその他の必要書類を、沢井さんに引き継ぐべくファイルにまとめた。
二十一時を過ぎたフロアには誰もいない。しんと静まり返った室内に一台だけ起動した私のパソコンのファンがまわる音が響いている。
できるだけ無心で作業を進めていたはずなのに、気付いたら下唇を強く噛みしめていた。かすかに血の味がした。
あんなの、女性蔑視も甚だしい。
セクハラだし、あんまりにも馬鹿にしている。
今までの努力はなんだったのだろう。
自分が責任をもって取り組んできたことは、こんな風に簡単に、誰かに明け渡さなければならないような仕事だったのか。
そんなに好きでもなければ、やりがいを感じてもいなかったけれど、だからといって手を抜いてきたわけでもない。
お給料をもらうからには、この会社の一員として働くからにはと、自分のできうる限りのことをしてきたつもりだ。
でも結局、こういう時、私はあまりに無力だった。悔しい。
体から力が抜ける。
椅子にどさっと腰を落として、デスクに突っ伏して泣いた。
こんな時、寄りかかることのできる相手はいない。
プライドが変に高くて、友達には仕事の愚痴を言ったり泣き言を言うのは苦手だった。
まだ恋愛をしていた頃、恋人にだけはそういう自分を少しだけさらけだすことができていた。
でもそれすら遠ざけてしまった今、私には誰もいなかった。
心はこんなに冷え切ってるのに、瞼や頬は熱いし、流れていく涙も熱い。
私がやってきたことって、結局、私でなくてもよかったんだなぁと思うと胸がぎゅっと押しつぶされそうになった。
「高坂さん?」
突然、町田くんの声がして、私は反射的に飛び上がるようにして顔を上げてしまった。
真顔で固まる彼と目が合う。
――なんとなく、町田くんにはこんな姿、見られたくなかったな。
「ま、ちだ、くん……どう、した、の」
無理に決まっているのに何事もなかったように返事をしようと試みる。
思ったよりも声がうまく出せなくて、しゃくりあげながら途切れ途切れになんとか言葉を絞り出した。
全然、ダメじゃん。もう、泣いてるの丸出し。
町田くんは戸惑ったような顔で一歩ずつこちらに歩み寄ってくる。
「忘れ物しちゃって。イヤホン、なんですけど……なんか、ありました?」
「なんでも、ない」
「なんでもないわけ、ないですよね?」
「なんでもないってば」
食い下がってくる彼に、ちょっと語尾が強くなってしまう。
「そう、ですか」
頑なな態度の私に呆れでもしたのか、町田くんはそれだけ言うと自分のデスクの上からイヤホンを回収して革の鞄に仕舞った。
こんな意固地なおばさん、本当に可愛くないよな。
「じゃぁ、何もなかったってことでいいですし、何も聞きません。何も言わないでいいです。ただ、飲みにでも行きませんか?」
気まずくなって目を逸らすように爪をいじっていた私は、彼の柔らかい声に顔を上げた。
「なに、言ってるの?」
「ダメですか? 俺、前から高坂さんと飲みに行きたいって言ってるんですけど」
町田くんは困ったように眉根を寄せながら、優しい笑みを浮かべていた。
「俺なんかじゃ頼りないかもしれないですけど、高坂さんのこと、支えたいって思ってるんで」
後輩として言ってくれているのだろうに、鼓動が忙しなくなって耳の奥に大きく響いた。今度は頬が別の熱をもつ。
頭の中で彼との年の差を瞬時に計算する。勤続十五年の私と、二年前に入社してきた彼。
十三年?
干支が一周したってまだ足りないじゃない。
え、ってことは、この子……もしかして。
「ちょっと待って、町田くんって、干支なに?いぬどし?」
脈略のない私の問いかけに、彼はより一層困ったように笑った。
「そうですけど。なんですか、急に」
「やっぱり戌年なんだ!」
犬みたいな町田くんが、まさに戌年だなんて。
なんてぴったりな干支だろう。私は酉年だけど、別に鳥っぽくはない。
「すごい、すごいよ、町田くん!」
たくさん泣き過ぎたあとの変なテンションも手伝って、今度は可笑しさがこみ上げてきた。くつくつと喉で笑うと、彼はちょっと顔をひきつらせた。
「な、なんだろう。ちょっとよく分からないですけど、こんなので笑ってくれたのなら、よかったです」
「うん、うん。ありがとう。町田くん」
「……じゃぁ、いいですよね?一杯くらい付き合ってもらっても」
背が高いくせに上目遣いに言う彼を前に、しばらく考え込む。
色んな思考に飛ぶのだけれど、結局、今夜はこのまま真っ直ぐ家に帰るのも憂鬱で、いつもだったら絶対に断るはずの彼のお誘いを、受け入れてしまった。