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渋谷のTSUTAYAを通り過ぎて徒歩五分ほどの場所にあるベトナム料理店。
女子高時代の友人の美沙が今夜の合コンのために予約してくれた店だ。
ホーチミンの街並みや屋台を思わせる装飾の店内に、一歩足を踏み入れた時から心が躍った。
花の金曜日。店内はカップルや若者のグループで賑わっている。
がやがやとした騒がしさが、私をより異国の屋台にいるような気分にさせた。
隣の席で、直之くんがすっかり冷めきったフォーに添えられているパクチーをちまちまと箸で取り除いている。
「パクチー苦手なの?」と声をかけると、彼は照れくさそうに首をすくめた。
「あ、バレたか。独特な味しない?めぐちゃんは大丈夫?」
「私は好きだよ。じゃぁ一緒にいる時は、私が助けてあげる」
私は直之くんの目を三秒間しっかり見つめてから、彼が選り分けたパクチーを口に運んだ。
彼の言う独特の味は青臭いけれど、フォーと一緒に食べると香味が花を添えて美味しい。
直之くんはちょっとビックリした顔をして、すぐに笑顔になった。
「めぐちゃん、すごいなぁ。じゃぁ次もよろしく頼むわ」
こちらに体を向けて快活に笑った彼の右の頬に、笑窪を見つけた。
外見は中の上。爽やかで今風。雰囲気イケメンってところだけど、背は高い。
向かいの席の、もうすでに名前を忘れてしまった男もちらちらと視線を投げかけてくるけれど、私は気付かないふりをした。
自己紹介を交わした時から、今日は直之くんに決めていた。
某有名医大卒の研修医たちとの合コン。
今日は誰を選んでも、わりと好条件な相手にありつくことができる。
すごくダサいとか、会話が成り立たないとかは論外だけれど、最低限のレベルをクリアしていればオッケー。
でも直之くんのように実家がお金持ちとか由緒ある家系なら、なお良い。
私はできるだけ高く売れる内に早く自分を売ってしまいたい。
不景気だなんだと言われるこの時代に、女性の生き方が多様化したからといってバリバリ働いて生きていきたいとも思えない。
地頭の良さは勉強ができるのとはまた別だと思っているから、高校の指定校推薦で入学した、そこそこの偏差値の私立大学にも自分では満足していたけれど。
将来に目を向けた時、私にあるのは、こんな学歴だけだった。
会社員として上を目指そうとか起業して成功させようとか、そんながつがつした野心もありはしない。
そうなると私なんかが稼げる生涯賃金なんて、きっとたかが知れている。
自分で言うのもなんだけれど、見た目だって悪くはないし、男受けのするタイプだと思う。
より可愛くなるために努力だってしてきた。
お金があれば、友人との海外旅行より高いエステコースに通う。
インスタ映えするスイーツよりも、ダイエットのために自家製スムージーを飲む。
だけど容姿なんて、それこそきっと年々衰えて、いつか価値のなくなってしまうものだ。
だったら私を射程距離に置く男性が少しでも多い内に、なるべく好条件で買ってくれる相手を見つけるための武器にしよう。
「好みの男性のタイプってある?」
ベタな質問を投げかけてくる直之くんに、胸の内に渦巻く、そんな野望はおくびにも出さず微笑んだ。
「えくぼがあって、パクチーが苦手な人」
直之くんが目をまるくして「まいったな」と前髪をかきあげる。
彼の頬に、またえくぼができた。
合コンが始まって一時間ほど経った頃、スマホに会社の先輩である高坂さんから着信があった。
トイレ前の廊下まで移動して電話に出る。ブルーの壁に黄色いラインがペンキで塗られているのを、ぼんやり眺めた。
スマホのスピーカーの向こう側から、いつもの高坂さんらしくない強張った声が聞こえる。
「非常事態だから、今すぐ私の代わりに接待のヘルプに入って。お願い」
確か今日はずっと彼女が準備してきた大手メーカーの接待だったはずだ。
定時より前に部長と連れ立ってオフィスを出て行く高坂さんを見て「そんなに必死に働いて何が楽しいんだろ。あー、早く結婚して会社辞めたい」なんて思いながら見送った。
「なんで急に私なんですか?予定があるので困ります」
「沢井さん、ごめんね。ちょっと事情があって。沢井さんでないとダメなのよ。部長からも言われてて」
「なんですか、事情って。私、一切、その案件には関わっていませんでしたよね?」
急に口ごもった高坂さんに、私はごね続けた。
こんな好条件の合コンにこぎつけるまで、どれだけの苦労があったか、これにどれだけ私が賭けているか、彼女に理解できるだろうか。
いや、きっとしていないし、できやしない。
そもそも高坂さんと私ではタイプが違い過ぎる。
短い沈黙のあと、高坂さんが弱々しく笑った。
「相手の部長さんがね。若い子が良いんっだって。やっぱ三十路は辛いわ」
明らかに強がって笑っているような彼女の声に、一瞬、言葉に詰まった。
痛々しい。
これが二十代を仕事に捧げた女性に待っている処遇か。
こんな目にあうくらいなら、やっぱりずっと、会社員として働いていたくなんかない。
女にとって辛すぎるこんな現実と、医者の卵との合コンを天秤にかけてみても、接待になんて行きたくはなかった。
それでも、なかなか引き下がらない高坂さんに根負けして、渋々、彼女の代打で接待に出ることを了承して電話を切った。
――最悪。
せめてもの救いは店を出るときに、直之くんが追いかけてきてくれたことだ。
「めぐちゃん!」
「直之くん?」
私は表情の引き出しから、自分比でもっとも可愛いと思われる微笑みを選択する。
ちょっとはにかむようにして、首を傾げた。
直之くんは右手に握っていたスマホを顔の前で振って見せる。
「直球で言うけど、俺、まためぐちゃんに会いたいと思って。LINE教えて!」
内心で「釣れた」とガッツポーズして、ちょっと考える素振りを見せる。
「私なんかでいいのかな?」
「今日、会った時からめぐちゃんと仲良くなりたいって思ったんだ。ダメ?」
照れたように首を揉む彼に「私もそう思ってた」と言ってスマホをバッグから取り出した。
予期せぬ途中退場だったけれど、ちゃんと収穫があったことに私は胸をなでおろした。
会社勤めはあくまで結婚するまでの腰掛で、この会社に入社したのだって自分の学歴でぎりぎり手が届く範囲の、上場企業だったからだ。
良い会社に勤務していれば、ただ普通に道を歩いているよりは収入の安定した男性と出会えるし、きっとそこからの伝手もできる。
良い会社には良い大学を卒業した男たちがいて、そのお友達も良い大学を卒業して良い会社に入っている確率が高い。
でも、欲を言えば、この会社の社員では結婚相手には物足りなかった。
この企業の総合職、三十代男性の平均年収は七百五十万円。
数年前、婚活女性の相手に希望する年収を調査して、一千万とか八百万という答えをフィーチャーした挙句「高望みだ」と揶揄するネットのコラム記事を見かけたことがある。
日本全体の年収の平均が、およそ四百二十万円。
ここ、東京のサラリーマンの平均年収だって、およそ六百万円。
それが日本一だと言うんだから、一千万円を稼ぐ未婚男性がどれだけいるかと考えると、砂漠で一本の針を探し当てるような、確率の低い話なんだとも思う。
けれど。一千万円なんて、都内に住めばあっという間に消えてしまう。
衣食住だけでなく、子供が生まれれば教育費や習い事や、かかるお金は多いのに他の地域に比べ地価だって物価だって高いのだ。
だから私は、結婚相手にはできれば一千万か、それ以上の年収が欲しい。
そして結婚したら専業主婦になりたい。子供の学費のためにパートするなんてこともしたくはない。
零細企業のサラリーマンだった私の父は、薄給なくせにプライドだけは高く、入ってくるお金もキャバクラとパチンコ代に溶かしてしまうような人だった。
昼ドラにでも出てくるような、どうしようもない設定のどうしようもない男。
そんな父のせいで、母は随分と苦労をした。
休日も昼間から遊び歩いている父とは違い、母は朝から晩まで働いた。
子供ながらに、どうしてお母さん、お父さんと一緒にいるの?なんて残酷な問いかけをしてしまったこともある。
「家族だからねぇ」と笑った母の髪は、当時、まだ三十代前半だったろうに白髪が多かった。
きっと、母には白髪を染める時間もお金もなかったのだ。
そんなどうしようもない男でも好いてくれるような女性がいたようで、母の苦労も省みず、私が小学五年生になる頃には家に帰ってこなくなった。
しばらく母は泣き暮らしていたけれど、私は内心「あぁ、これでやっと母は楽になれるんだ」と思っていた。
両親が正式に離婚したと聞いた時には、悲しいどころか清々しい気分だったくらいだ。
だからあの時、私は決めた。
高く売れる内に、優秀な買い手を見つけて、必ず幸せな生活を手に入れる。