第六十話
「これを使うといい」
グレーのハンカチを差し出すと、彼女は嬉しそうに受け取った。
押さえるような仕草で頬に薄く折り重なった布を当てている。
絹のようにきめ細やかな肌からしずくが移り、水玉模様の濃いシミを作り出していく。
「……私のことを聞かないの?」
「聞いたら和歌は…………いや、和歌がいいというなら、聞かせてくれ」
そうだ、自分らしくない。
これまでのように、俺が知りたいと思うことを調べ、記録に残せばいいだけのこと。
いつかテレビ業界へ返り咲いた時に、その記録を使えばいいじゃないか。
用意していたボイスレコーダーの電源を入れ、俺は取材を始めた。
「とりあえず、改めて名前を教えてくれ」
「和歌です……」
「ああ。それはもう聞いたが、下の名前は何というんだ?」
「……名前はないの」
「名前がない?」
「ええ。……ただ、和歌と」
どういうことだ。
名前が無いなんて聞いたことがないぞ。
どこか得体の知れない不気味さを感じとり、顔の左側から下方へと鳥肌が立つ。
「和歌は…………どこからやってきたんだ……?」
彼女は静かに立ち上がり、向かいの腰掛の方へしずしずと歩み寄った。