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前編

 彼女と出会ったのはかれこれ五年も前の話だったりする。十七歳で gymnasium(ギムナジウム)の卒業資格試験に合格し、九月から始まる大学生活を目前に、思い立ったように俺は日本に向かった。

 もう慣れた外国暮らし。過ごした時間の長さ、文化の馴染み、どちらかといえば日本よりも自分の居場所はここだった。

 そのことに不満があったわけでも、両親や友人たちとなにかあったわけでもない。ただ、将来を見据える中で、自分というものを必要以上に考えて、思い詰めていたんだと思う。

 「日本に行く」と書き置きを残して、飛行機のチケットと少しの荷物を持って、後先考えずに俺は出国した。

  とはいえ未成年で、さらには日本に慣れていない俺がひとりでなんでもできるわけもなく、結局は母方の祖父母をあてにすることになったのだが。

 八月初旬、空港から出て感じたのは、じめっとした日本独特の湿り気のある暑さ。もうこれだけで参ってしまいそうになる。どっと額に滲む汗を拭って、空港から祖父母宅に連絡をしたのが始まりだった。

 祖父母は母の妹である叔母一家と同居していた。突然の訪問にかなり心配され、驚かれたたりもしたけれど、最終的にはよく来た、と歓迎された。

 元々大きな家で部屋も空いていて、ひとり増えたところで生活は対して変わらないらしい。叔母には娘と息子がいて、息子の方は結婚して家を出ていたが、娘の方は大学生でまだ家にいた。従姉のはるかだ。

「一悟、暇でしょ? ちょっと付き合ってよ」

 日本に来て一週間。最初の数日間は色々観光に連れていってもらったりしたが、見に行くところも限られている。会いたい友人などもおらず、正直、時間をもて余していた。

 なんのために日本に来たのか。祖父母に顔見せしただけで十分か、と自分に言い聞かせていたときだった。

「どうした?」

「車見に行くの。ほら、私勤務先が隣の市になりそうだから」

 大学四年生のはるかは、既に地元の信用金庫から内定をもらっていた。そして通勤のために車が必要だという。

 両親、ひいては祖父母までついていくのに俺まで必要だろうか、と思ったけれど、はるかの言うとおり暇だ。それに、はるかなりの気遣いなのだと想って、俺はおとなしくついていく旨を告げた。

 連れて来られたのは、わりと大きな自動車メーカーのディーラーで、ちょうど大規模なキャンペーンを実施していた。

 時期的にお祭りを模した屋台風のブースが並び、家族連れが賑わっている。想像していたよりも多くの人が訪れていた。

 ぞろぞろと大人数ではるかの車決めに付き合うのもなんだか億劫で、かといって店内にひとりでいるのも、居心地が悪い。

 しょうがなく、外の影になるところで並んでいる車をボーッと見つめる。そんなとき、ふと声をかけられたのだ。

「君、顔色悪いよ? 大丈夫!?」

 見ればここの制服を着た若い女性が、おどおどした顔でこちらを見ている。話しかけられた鬱陶しさや暑さもあり俺は自然と顔をしかめた。

「大丈夫です」

 そっけなく返して、自分は客にならないと先に告げる。下手に愛想よく返して、興味をもたれるのも面倒だった。

 けれど彼女は、機嫌を悪くするどころか、朗らかな表情を見せてくる。わざわざ『年下は対象外だから』とまで告げて。

 そのことが、なんだか面白くないとも感じだ。どうしてそう思うのか。客でもない、ましてやこんなぶっきらぼうに返す俺に、彼女は笑顔を崩さない。

「私にとって、君が初めてのお客さまだよ。これから始まる私の長い営業人生の中で、貴重な初めてをあげる」

 さらには、そんな文句までつけてくれる。初めて、って……。

「君に会えてよかったよ。来てくれてありがとう」

 ずるい、と思った。あんなのはリップサービスだ。彼女にとって俺なんて明日には忘れている存在だ。でも、嬉しかったんだ。

 自分はどこに、どうあるべきなのか。生粋の日本人だけれど外国暮らしが長くて、将来だって、このままいけば親と同じ会社に就職することになる。

 ふわふわと不確かで、自分の存在意義が苦しかった。十代によくある時期的なものだったのかもしれない。

 それでも彼女の言葉に、彼女の笑顔に俺は救われた。俺の存在をしっかりと認めてもらえた気がした。自分でも単純だと思う。

 けれどこの出会いが、今後の俺の人生を大きく左右することになるなんて。

 それから俺は、気持ちをすっきりさせて帰国できた。大学はもちろん、日本語の勉強にも今まで以上に力を入れて取り組めた。なぜなら、俺にはひとつ目標ができたから。

 いつか彼女に会ってお礼を言う。「あなたのおかげで俺は変われたんです」って伝えたい。そのときは営業と客でも、年上と年下とかでもなく、彼女と対等な立場になって言いたい。そんな想いを募らせた。

 彼女の名前を聞いておいたのと、はるかが担当は違うが、彼女の店舗で車を購入したことが功を奏して、俺はちょくちょく彼女の情報を手に入れることができた。

 はるかに教えてもらい店舗のブログを覗いてみると、仕事のことやフェアについて彼女がちょくちょく更新しているのが窺えた。

 時折、写真で登場する彼女は、いつも笑顔だ。そして左手の薬指を無意識に気にしてしまう自分に驚いた。結婚はしていなくても、恋人くらいいてもおかしくはない。

 でも、それは俺には関係ないはずなのに。

 複雑な思いを抱えながらも、彼女の働く自動車メーカーの入社試験に合格し、ついに日本に行くことが決まった。

 元々ドイツには新卒という概念はほとんど存在しないし、両親も日本で働いてみるのは、いい経験になるだろうと背中を押してくれた。

 試験の成績はかなりよかったらしく、本社を勧められたが、それをあっさり断り、希望していた彼女と同じ営業所に配属してもらえたのだ。

 けれど、現実は甘くなかった。再会した彼女はまったく俺を、俺との一件を覚えていなかったのだ。

 同じ形で名前を訊いてみたり、初めての客について尋ねてみたりしたが、俺のことを思い出す気配など微塵もなく、かなりショックが大きかった。

 思い描いていた感動の再会シーンが音を立てて崩れていく。しかも彼女には付き合っている相手がいるとまで聞いて、俺の落ち込みは半端なかった。

 でも彼女が直接、指導に当たってくれることになり、とにかく仕事で失望させれないように、と必死だった。

 いつか以前に会ったのを伝えるチャンスを俺は諦めてなかった。ただ、そのときにやっぱり頼りない年下の男、というのは嫌だったのだ。

 彼女のそばにいて知ったことがたくさんある。随分と性格がキツくなったな、なんて思ったりもしたけれど、クライアントに対しては、できる限り希望に寄り添おうと一生懸命だし、展示している車を見る目はいつも優しい。

 営業はどうしたって男性が多いし、女性ならではの苦労もあると思う。ひとりで全部背負うには細すぎる肩を見て、彼女を支えたくなった。

 けれどそれは俺の役目じゃない、むしろ俺はそんなことを望んではいけない。それがたまらなく悔しくてやるせなかった。

 そして、じわじわと夏が迫る頃、俺は引っ越しを決意した。入社したばかりのときは、祖父母宅に居候させてもらっていたが、仕事にも大分慣れたし、出社時間や帰りも不規則なので付き合わせるのも申し訳ない。

 会社からは少し離れているマンションの角部屋に決め、ひとり暮らしは意外と快適だった。

 隣に挨拶は当たり前だ、と祖母から言われたものの、なかなかお隣さんと顔を合わすタイミングがつかめない。下手に関わりを持っても……と思っていたある夜、俺は自分の目を疑うことになる。

 なぜか俺の部屋の隣で、彼女がうずくまっていたのだ。

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