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後編

「え、え? 御手洗さん?」

 あまりに俺の願望が強すぎて、夢か幻でも見ているのかもしれない。しかし目の前にいる彼女は間違いなく、俺の憧れの人でもあり、直接の指導役にあたっている御手洗市子だった。

「ん、誰?」

 舌ったらずに話す彼女の目は、アルコールに酔って潤んでいる。会社で見せる面影は微塵もなくて、あまりにも無防備な雰囲気に、意識せずとも俺の心臓は強く打ちつけ始めた。

「俺です、山田一悟。御手洗さんの家ってここだったんですか?」

「そうだよ。でも鍵がないの!」

 彼女の言い方はどこかやさぐれて、子どもみたいだった。そんな彼女に優しく問いかける。

「じゃぁ一晩だけでも、家に行ってもよさそうな人はいません? このままじゃ、夏とはいえ危ないですし風邪ひきますよ」

「いーよ。迷惑かけらんない」

 そこで俺は言葉に詰まる。けれど、思い切って自分からおずおずと提案した。

「恋人は? 御手洗さん、お付き合いしてる人いるでしょ?」

 わざわざ彼女の恋人に連絡して、ここまで迎えに来てもらう羽目になるのか、と思うと、柄にもなく泣きそうになった。

 なにやってんだ俺、と思っていると彼女から意外な言葉が飛び出したのだ。

「別れた」

「え?」

「私が振られたの! 文句ある? 吉田薬局との契約も白紙になっちゃって……。私、営業の神様に見捨てられたの」

 恋人と別れたことよりも契約が取り消されたことの方が彼女にとっては大きいらしい。やばい。なんだ、このシチュエーション。俺はクリスチャンじゃないけど神様って本当にいるのか?

 そんな考えを巡らせながら我に返る。今はそれどころではない。とにかく彼女をなんとかしなくては。

「あの、御手洗さんさえよかったらうちに来ます?」

「いいよ、べつに」

 ぶっきらぼうに言い放つ彼女を、俺は大胆に抱え上げた。

「いい、ってOKってことですよね。なら遠慮なく」

 もちろん、そういう意味ではないのは分かっているが、ここは気づかないふりをしておこう。彼女は驚いた顔をしながらも、眠たさもあってか俺にすんなりと身を預けてきた。

 思ったよりも華奢で柔らかい感触に、お酒を飲んでいないこっちまでクラクラする。

 こうして俺は、なかば強制的に彼女を自分の家まで連れて帰った。人助け、なんて自分に言い訳しながら。

 彼女をどうこうしようって気持ちは微塵もない。でも恋人と別れたと聞かされて、自然と勝手に舞い上がっていた。

 信じもしない神様に感謝して、この後、全力で恨むことになるとも知らないで。いや、でもやっぱり最終的には感謝したのかもしれない。

 部屋に連れて帰ったものの、そこから俺は理性を、さらには人間性を試されることになった。止めるのも聞かずに、彼女は暑い!と文句を言いながら服を脱ぎ始めたときには、卒倒しそうになる。

 肌にじんわりと汗をにじませながらも、自分のベッドで眠る彼女に対し、何度も理性を飛ばしそうになりながら、必死で堪える。もう一生分のため息をついたんじゃないかと思うほどだ。

 ベッドのそばのフローリングに座って、彼女の寝顔をまじまじと見つめた。あまりにも無防備な彼女に逆に腹が立ったりもした。もういっそのこと、とも思ったりもした。でも……。 

「お疲れさまです、市子さん」

 彼女の頭をそっと撫でると、柔らかくてサラサラとした髪の毛が手を滑った。その感触に心臓が煩くなる。いまどき中学生でもここまで反応しないだろう。

 それほどに彼女はずっと俺が大事に思ってきた人で、憧れていたんだ。

 なのに図々しくも恋人と別れたって聞いたときはやっぱり嬉しくて、こうして家にまで連れて帰ってしまった。

 どうしてなのか、答えは簡単なものだった。

 俺はようやく自分の気持ちを理解できた。彼女に憧れていて、会いたくて、お礼を告げることだけが目標だったのに。

 それよりももっと欲しくなってしまったのだ。彼女自身を。

 一夜の過ちで終わらすつもりは全然なくて、けれど翌日目を覚ました彼女は、あまりにも冷静になかったことにして欲しい、なんて言うから俺はわざと含んだ言い方をした。そして妙な提案をしたのだ。

「なにかが変わるかもしれませんよ?」

 変わったのは自分だったのか、彼女だったのか。馬鹿馬鹿しいと断ってもよさそうなのを責任を感じて真面目に俺と一緒に過ごしてくれる彼女にときに罪悪感も抱いたりもした。

 反面、彼女にとって自分は色々な意味で特別になれた気がして、それが嬉しかったりしたのも事実だ。

 その一方で、彼女といれば嫌でも思い知らされていく。俺は彼女にとって特別な存在かもしれないが、恋人ではない。職場の後輩という立場でしか彼女と関われない。

 彼女から、この仕事に就いたきっかけになった上司の話を聞いて、冷静ではいられなくなったり、せっかくふたりで過ごしていたときに、あっさりほかの男に持っていかれるのをおとなしく許したり。

 俺はどうしたって仕事の話では彼女の理解者にはなれなくて、頼ってもらったり、甘えてもらうことだって難しい。

 それらができる人物に嫉妬して、俺の知らない彼女をずっと見てきたんだと思うと、辛くなる。そして、そんなことばかり考える自分に嫌気が差した。

 その現状をなんとかしたくて、とにかくもっと仕事をこなさなければ、と躍起になった。胸に立ち込める暗雲を振り払いたくて、必死だった。

 結果、彼女に心配をかけることになるなんて思いも寄らなかったけれど。

 一番見られたくない人に、弱っている自分の姿を晒してしまい、俺はつい彼女に不躾な態度を取ってしまった。おかげですぐに自己嫌悪に見舞われる。

「すみません、八つ当たりです。……市子さんにだけは、見られたくなかったんです。こんな自分」

 彼女に追いつきたくて、それなのにこんな自分を見せたら、もっと彼女との距離が離れてしまう気がした。ただでさえ自分は年下で、彼女と一緒に過ごした時間だって短いのに。

 でも、彼女はそんな俺の姿を笑って肯定してくれた。先輩として、かもしれない。けれど口にして、はっきりと俺を評価してくれた。

 おかげで落ちていた気持ちはあっという間に浮上する。あのときと同じだった。彼女はいつも、俺の心を救う言葉を本音の部分でくれる。

 どうしようもない自分に、欲しいタイミングで手を差し伸べてくれる。

 やっぱり彼女のことが好きだと自覚して、ずるいのは分かっていたけれどもう少し今の関係を続けることを願ってしまった。

 そうやって曖昧にしていたばちが当たったんだと思う。彼女から『終わりにしたい』と言われたときは返す言葉もなかった。

 ところが、結果的にはお互いの気持ちを口にするきっかけになり、意地っぱりで素直じゃない彼女の涙と一緒に本音も聞けた。

 自分のせいで彼女に泣かれるのはもう二度と御免だが、彼女が泣きたいときに我慢せずに素直に甘えられる存在になってみせる。ずっとそばで彼女を守ると固く誓った。

 彼女の家で夕飯をすませ市子さんとの思い出に耽っていると、無意識に夕飯の片づけをすませていた。我に返って台所からリビングに向かう。

「市子さん、片付け終わりましたよ。って、なにしてるんですか?」

「あ、これ内緒にしてね。個人情報の取り扱いが厳しいから原則、社内でしないといけないのは分かっているんだけど、終わらなくて」

 市子さんはいつものソファに座り、机に向かって黙々と作業を続けていた。

 問いかけると、悪戯がばれた子どものような表情をこちらに向け、早口で言い訳を捲し立ててくる。晴れて恋人同士になったけれど、彼女との関係は、実のところあまり大きな変化はなかった。

 俺はそっと彼女に歩み寄る。彼女がしているのは、担当顧客へのDMのメッセージ書きだった。年末に向けて大きなキャンペーンをするので、その案内だ。

「市子さん、丁寧に書きすぎなんですよ。俺なんて全部同じ内容ですよ」

 彼女はそういうところはすごくまめだ。一人一人に合わせた内容をわざわざ記す。市子さんは軽く肩をすくめた。

「内容というより、御手洗って苗字が悪いんだと思う。この漢字のせいで、絶対に他の人より時間を使ってるよ」

「俺はそっちとは思いませんけどね」

 呆れて呟くと、市子さんは少し移動して隣に座るスペースを空けてくれた。そんな気遣いが嬉しくて、俺は遠慮なく彼女の隣に腰を下ろす。

「一悟みたいな苗字な人には分からないよ」

 むっとした表情を見せる市子さんに俺は苦笑した。

「そうですね、なんならアルファベットでサインみたいにしてもいいですけど」

「なにそれ。でも意外と欲しがる人いそう」

 そう言って市子さんは笑う。その顔になんだか胸が締め付けられた。もちろん幸せすぎてだ。色々と思い出したのもあって、奪うように素早く唇を重ねる。

「なっ」

 不意打ちを食らった、という市子さんの表情に満足して、俺は再度唇を重ねた。頬に手を添え、今よりもずっと長いキスをする。

 戸惑いつつも抵抗されないのをいいことに、角度を変えて時折下唇を甘噛みしたり、舌先で軽く刺激して緩急をつけてキスを楽しむ。

 そこから深いキスに移行するのに時間はかからなかった。彼女をやんわりとソファの背もたれに押し付ける形になったが、受け入れる形で細い腕を首に回してくれる。

 それが堪らなく嬉しくて、俺はさらに彼女を求めた。彼女の薄手のニットの裾から手を忍ばせると、キスをしながら市子さんが目を見開いて、慌てて顔を離した。

「せ、せめて作業が終わってからにしよう」

「俺もあとで手伝いますから」

 何食わぬ顔で告げる俺に対し、市子さんは困ったような潤んだ瞳でこちらを見てくる。こういうときの彼女は本当に可愛い。いや、常に可愛いんだけど。格別だ。

「でも」

 なにか言おうとする市子さんの口を強引に塞いだ。長いキスに降参を示したのはやっぱり彼女の方だった。唇が離れ、伏し目がちになる彼女に俺は笑顔で声をかける。

「それに市子さん、そんなに苗字を書くのが大変なんだったら、どうです? 俺と同じ苗字になりません?」

「え」

 市子さんの反応を待たずにキスを再開させる。彼女はきっと冗談だと思ったに違いない。でも、その答え合わせはあとだ。

 用意したのはいいものの、ずっとどのタイミングで渡そうかと悩んでいた。今なのかもしれない。

 俺は鞄に入れっぱなしの小さな箱の存在を浮かべて、市子さんの反応を楽しみにしながら自然と笑顔になった。

ich gebe Dir meine ganze Liebe! ――俺のすべてをあなたに!

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