04
山田くんはゆっくりと顔を上げて、すぐ唇が触れ合いそうなほど近くまで寄せてくる。睫毛の長さが分かるほどの距離だ。
「仕事以外でほとんど接触のなかった自分のことを忘れている憧れの人が、自分の家の隣で気を失いそうになっているなんて。あのとき、俺は初めて神様の存在を信じましたね。でもその次は地獄ですよ。分かります? そんな人が自分で服を脱いで、無防備に隣で寝てるんですよ? しかも、うわ言で彼氏と別れたという情報まで聞かされて、俺がどんな気持ちだったか」
「どんな気持ちだった?」
この際なので開き直って訊いてみる。すると彼は、返事はせずに唇を重ねてきた。柔らかい唇の感触に私は静かに目を閉じる。
そして、そのまま身を任せて背中に回していた腕を首にかけると、彼は私を抱きかかえるようにして、ソファの背もたれに押しつけた。
その間も口づけは続けられ、何度も角度を変えて唇を重ねているうちに、次第にもっと、という欲が出てくる。
重ねるだけではなくて、唇を軽く挟んで啄むようなものから、舌先で舐めとられて濡らされていく。でも、けっして深いキスには移行しない。
キスの合間に物足りなさげに彼を見つめると、それに気づいてか目を細めて笑ってくれた。頬や頭を優しく撫でられるも、やっぱりなかなか焦らされる。
「少しは俺の気持ち、分かりました?」
望まないまま解放されて、親指で唇をなぞられながら問いかけられる。キスを再開させて欲しい気持ちで胸が苦しくなりながらも、彼はなにかを含んだような笑みを浮かべた。
「欲しいけれど、それ以上は進ませてもらえない気持ち」
「でも、山田くんの場合は、自分でそうしたんじゃない」
焦らされている苛立ち半分、責められて苦しくなった後ろめたさ半分。実際に寝てしまったと私は思っていたわけだし。
手を出さないでいてくれたのは有り難いけれど、それは山田くんが決めたことだ。
なかなか人間変わらないもので、こうして気の強い返事しかできない自分が憎い。すると彼は急に真面目な顔になった。
「そうですよ。だってどんな流れであれ一度寝てしまったら、俺がなにを言っても、軽く見られそうで。ずっと大事にしてきた気持ちが、市子さんに伝わらない気がしたんです」
それに、と続けながら山田くんは身を乗り出して私との距離を縮めてきた。
「一度したら、奪ってでも全部ほしくなりますから」
眼差し、声、表情。きっと仕事でもこんな顔を彼はしないんだろうな。すべてが目に焼きついて離れない。もう逃げられない。
そして彼は、すぐにいつもの調子で笑みをたたえながら質問を投げかけてきた。
「今でも年下は対象外ですか?」
「うん」
予想外だったのか、即答する私に触れていた山田くんの手が思わず止まった。そんな彼の顔を今度は私がじっと見据える。
「だって、もう年上とか、年下とか、職場の後輩とか関係ない。私は山田くんがいいの」
彼がどんな立場でも、私はきっと惹かれていたんだと思う。だって私に必要なのは、大人の余裕がある人でも、仕事の相談に乗ってくれる人でもない。
私を見て、ちゃんと向き合って、ときには叱ってくれる優しさのある人だ。山田くんじゃないと駄目なんだ。
「私、きっと山田くんの想像していた私とは違う。意地っ張りだし、変にプライド高くて素直になれなくて。憧れてもらえるようなものもないかもしれない。でも、それでも、少しずつ直していくから。だから、これからも私のこと好きでいてくれる?」
喉も唇も震えて、なかなか声にならない。それでも私の精一杯の素直な気持ちだ。すると彼は今までにない柔らかい顔をして笑った。
「市子さんのこと、ずっと好きですよ。最初はただの憧れでしたけれど、でも、今は市子さんの周りにいる男性にいちいち嫉妬して身がもちそうにないほどに、愛してますから」
さらっと口にされた言葉に照れる間もなく、彼が身を寄せてきた。瞬きもできずにいると、彼が優しく私の髪を耳にかける。穏やかな笑顔に私も笑った。
それが合図のようにゆっくりと口づけられる。まるで初めてキスするかのように、大切に。
「それにしても、はっきりと言わなかった俺が悪いとはいえ、俺の気持ちが全然市子さんに伝わってないことに驚きました」
薄明りの中、私の髪を優しく梳きながら彼が苦笑した。抱き合って、たくさんキスをして、今はこうして彼のベッドの中でお互いに一糸まとわぬ姿でくっついている。
わずかな隙間さえも消したくなり、私は彼の首に腕を回して密着した。
「だって、山田くん基本的に誰にでも優しいし。それに調子が悪いとき、私にだけは見られたくなかった、なんて言うから」
しどろもどろに告げると、なだめるかのように額に唇が落とされる。そこで視線を合わせると唇も重ねられた。それが離れてから彼が口を開く。
「好きな人に、弱っているところなんて見られたくありませんよ。ただでさえ年下なのに。あのときは、市子さんを坂下さんにあっさり持っていかれるし、市子さんから永野部長に対する思いを聞いて、勝手に嫉妬して色々思い悩んでいたんです」
「持っていかれるって」
その言い方は違う気がして、指摘すると山田くんは眉を寄せた。顔は怒っているが、触れてくる手は優しい。
「持っていかれる、ですよ。俺が後輩じゃなかったら、市子さんと特別な関係だったら、あんなふうにあっさり渡したりしなかったのに」
まさか彼がそんな葛藤を抱えていたなんて露にも思っていなかったので、私は意外な事実に目をぱちくりとさせた。
「私じゃ踏み込ませてもらえないのかと思った」
「そんなのじゃありません。言ったでしょ、カッコつけただけです」
「カッコつけなくても、山田くんは十分にカッコいいよ」
はっきりと迷いなく私は声にする。すると彼が私を映していた瞳を丸くした。
「だから、辛いときはちゃんと言って。年上とか年下とか関係なく、頼って欲しいし、甘えて欲しい。こ、恋人なら……」
慣れない単語に口ごもってしまい、わざとらしく彼の胸に顔を埋めると、そのまま力強く抱きしめられた。
「なんですか、それ。どうしてそんなに可愛いんですか」
「可愛くないから、ちょっと離して」
意識してかどうかは分からないが、彼の形のいい唇が耳に押し当てられ、私の肩が震えた。
「どうしてです? 市子さんは可愛いですよ」
「や、め」
そのままの位置で低く喋られ、泣きそうになる。回された彼の腕の力は強く、身動きできない。
彼は音を立てて耳たぶに口づけてから、おかしそうに私を解放すると、今度は首元に顔を埋めてきた。
「ちょ」
「お言葉に甘えて、今甘えてみます。でも市子さんには十分に甘えさせもらっていますよ。初めて会ったときも、この前も、ちゃんと俺の欲しい言葉を言って、救ってくれるんですから」
話しながらも、彼の柔らかい髪が肌を掠めてくすぐったい。しかし、その感触はすぐになくなる。ざらりとした舌が肌の上を滑ってそちらに全神経を持っていかれた。
薄い皮膚をきつく吸われ、私は思わず声をあげる。
「っ、駄目」
「見えないところにしてますから。本当は見せつけい気持ちもあるんですけど」
それは困る。私の微妙な動揺を悟ったらしく、彼は笑いながらその場に軽く口づけた。自然と声が漏れそうになるのを必死で抑えていると、ようやく彼は顔を上げた。
「すみません、困らせるつもりはなかったんですけれど、市子さんが俺のものになったんだって、ちょっと確かめたくて」
「……私、初めてなんだけど」
「え?」
涙目でじっと彼を見つめる。そして今度は私が彼の頬に手を添えた。しっかりと言い聞かせるように。
「自分からこんなにも好きって思ったのも。失いたくないって思ったのも。全部、山田くんがハジメテなんだけど?」
そのまま顔を近づけて彼に口づけた。そして唇をわずかに離し、触れるか触れないかギリギリの距離でささやく。
「それに、こんなにも自分の気持ちが上手くコントロールできなくて、全部許しちゃいそうになるのも、初めてだよ」
そう告げると、今度は彼から口づけられた。深く、求められるようなキスに、いつの間にかベッドに背中を預けて、彼が上になっている。伝わってくる温もりも、預けられる重みも、なにもかもが愛おしい。
「好きですよ、市子さん」
優しく頬を撫でられながら、彼が切なそうな表情をする。なんとも言えない色気漂い、こんな顔もするんだとドキドキしながらも、私は余裕を見せて頷いた。
「うん、今度苺ビュッフェに連れて行ってね」
「え」
「ありがとう。私、“いちご”が大好き」
虚を衝かれたままの彼に満面の笑みで答える。すると彼は、なんだか今にも泣き出しそうな顔になって、それからやっぱり笑ってくれた。
そのまま再開される口づけに私は身を委ねることにする。しょうがない、溺れてもいいと思ってしまったのだから。
ずるい、毒みたい。口にするたびに、キスするたびに、触れるたびに、気持ちが大きくなって止められなくなる。それなしじゃ生きていけなくなる。
けれど、それでもいい。それなしじゃ生きていけなくなるんじゃなくて、生きていくのに必要なものだから。それを私は見つけられた、気づかせてもらえたんだ。
意地っ張りで素直ではない私だけれど、彼のことを名前で呼ぶようになるのは、どうやらそう遠くない未来の話になりそうだった。