04
しばらく歩き、目的地に予想がつく。社員の間ではなかなか評判が良くて、私も二回ほど行ったことのあるバーだった。
中に入れば、ラテン系の音楽が流れ、照明の落とされた店内は独特の世界観だ。
テーブル席に座るほどでもないと思い、カウンターに並び、坂下はビール、私はカシスオレンジを注文した。
「で、どういうつもり? 彼女のことは諦めたの?」
もういいだろう、と思ってわざとらしく愛想なく坂下に尋ねる。
「まさか。急がば回れって言うだろ?」
「意味が分かんないんだけど」
早くも頼んだ飲み物が前から手渡され、一度話を中断する。この男と乾杯することもとくにないけれど、とりあえずお疲れ、と言いながらグラスを合わせた。
「ここだけの話、あまりにもお前が頼りないから、俺が山田に彼女がいるのかって訊いたんだよ」
思わず口に含んだカシオレを吹き出しそうになった。まじまじと坂下を見つめると、坂下はにやりと笑った。そして思いっきりだらしない顔になる。
「あいつさぁ、彼女はいないけれど、好きな奴がいるんだって。誰かは教えてくれなかったけれど、西野ちゃんじゃないのはたしかみたいで。ってことはだ、西野ちゃんは山田に片思いなわけで、結果は見えている」
坂下の狙いがようやく分かって、私は再びカシオレを口に含んだ。坂下はかまわず得意げに隣で話を続けた。
「こうして親身になって協力して好感度を上げつつ、西野ちゃんが山田に振られたら、全力で行くことにする」
つまり西野さんに協力して、二人の仲を取り持つそぶりを見せながらも、その腹では西野さんを山田くんに焚きつけて、失恋するのを待っているわけだ。それは、なんとも
「あざといね」
「ガンガン押すだけが手に入れる方法じゃない。正しいタイミングとやり方を見極めるのが営業だろ」
なにをカッコつけているんだ、この男は。
私はグラスをテーブルに戻した。中の大きな氷がカランと揺れる。坂下のやり方は、ある意味正しいのかもしれない。けれど、それはあくまでも前提が正しい場合だ。
「人の気持ちなんて分からないじゃない。仮に山田くんに好きな人がいたとしても、彼も片思いなら西野さんの魅力に負けちゃうかもよ。彼女が魅力的なのは、あんただってよく分かってるじゃん。あんなふうに自分のためにお弁当まで持ってきてくれた、なんて健気な話を知ったら気持ちも揺れ動くかもよ?」
自分で言って、ズキズキと胸の奥の方が痛みだす。だって私は知っている。山田くんに好きな人がいる、というのはおそらく嘘だ。
好きな人がいるなら、私とプライベートできっと過ごしたりしない。好きな人がいる素振りも見たことない。それも彼が全部上手く隠しているのなら、分からないけれど。
汗をかいているグラスをぎゅっと握りしめると、掌がじんわりと濡れた。冷たさを感じながらも隣から反応がないので、そちらを見ると坂下が顔面蒼白になっていた。
「え、俺、もしかしてやっちゃった!?」
口に手を遣り、思った以上に落ち着きを失っている。
「いや、それは分かんないけどさ」
「今頃、送っていったついでに、西野ちゃんの家でふたりで過ごしてるなんてないよな!?」
「だから、分かんないって」
苛立ちを含ませながら返すと、坂下は急に魂が抜けたように大袈裟に項垂れた。
「山田め、優男に見せかけ、送り狼になってたらマジで許さねぇ」
けしかけたのは、あんたでしょ。というのは、もう言わなかった。面倒な男だ。
事実は分からない。けれど西野さんは山田くんが好きで、そんな彼とふたりきりになれているんだよね。
しかも家にまで送ってもらえる、なんて絶好のシチュエーションなわけで。その相手が誰よりも優しいのを私はよく知っていた。
『西野さんの魅力に負けちゃうかもよ』
自分で言った言葉が頭の中でリフレインする。だから、なに? べつに私と山田くんは付き合っているわけでもない。本当に、ただの職場の先輩と後輩なんだ。
「そういえば例の自動車学校の件、進んでるのか?」
はっと我に返った。坂下は自分なりに気持ちを切り替えたらしく、仕事の話を振ってきた。
「うん。ほぼ上まで話は通っているみたいで、おそらく本決まりすると思うけれど」
「だとしたら、下半期の功労者賞は確実だな」
面白くなさそうに漏らされ、私は一瞬だけ眉をつり上げた。けれど、この男はこういう奴だ。いちいち気にしてたらきりがない。
私が前々から営業にあたっている自動車学校で、教習車を次回に一新する際、他社からうちのメーカーに替えてもらうという段取りをつけられた。
一昔前は教習車は見るからに、というものが多く、通う側からしても車をさほど気にすることもなかった。
しかし競争が激しくなり、教習所もサービスの向上や他社との差別化を図って、ひとりでも多く通ってもらおうと必死なのだ。
おかげで教習車にしても見た目やメーカー、車種なども重視され、お洒落さや運転してみたいという気持ちをくすぐるために、そこそこ名の知れた車も重宝されるようになった。
自動車メーカーが自動車学校に営業をかけるのは、基本だ。そこで免許を取得した人への営業にも繋がるし、意外と新車を購入する際、乗りなれた教習車と同じタイプの車で、なんて人もいたりする。
「あそこ、校長がなかなか面倒だって聞いたぞ」
「私はまだお会いしたことないんだけれどね。本決まりしたら、支店長と挨拶に行くと思うけれど」
それから坂下としばらく仕事の話で盛り上がる。この男とこうしてふたりでプライベートな時間を過ごす機会は今までほとんどなかった。
だから少し新鮮なのもあり、おかげで山田くんと西野さんがどうなったのか、という考えは一時忘れることができた。
店を出て大通りに出ると、さすがに人通りは少なくなっている。坂下と別れ大通りに出てから素早くタクシーを拾った。
結局、坂下とはなんだかんだで二時間近くだらだらと喋り続けてしまった。疲労感がどっと押し寄せる中で、私は後部座席のシートに身を預ける。
マンションまではワンメーターの距離だったけれど、近づくにつれて私の心臓は早鐘を打ち出した。なにをこんなにも不安になっているんだろう。
タクシーから降りて、なにかを振り払うように沈黙が刺さりそうな共用のスペースをいつもより大股で通り抜けていく。
そして、ドアの前で鞄から鍵を取り出したところで、自然と隣の部屋に顔を向けた。さすがにもう、帰ってきているかな。
そこで軽く頭を振り、時間帯もあって極力音を立てずにドアを開けた。彼もいい大人だ。どう過ごそうと私には関係ない。
なら、私と彼の関係はなんなの? 職場の同僚で、家が偶然にも隣同士でご近所。一回だけ寝てしまったけれど、それ以降、接触はないし。
……友達? 浮かんでは否定してを繰り返す。明確に表せる言葉を必死で探したけれど、見つからない。そのことに、とんでもない気持ち悪さを感じて奥歯を噛みしめた。
はっきりさせたいの? 私は彼とどうなりたいの?
なにも答えが出ないまま、苛立ちをぶつけるように後ろでまとめていた髪をほどいた。続けてソファに乱暴に鞄を放り投げる。
いつも彼が座っている場所をじっと見つめて、正体不明のイライラを落ち着かせようと深呼吸をしてみた。自分で自分の感情が上手くコントロールできないなんて。
こんなのは嫌だ。私らしくない。なにもかもを流してしまいたくなり、私はシャワールームにさっさと足を向けた。