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03

 ありがとうございます、と彼からお礼を告げられ、私は帰り支度を整えはじめる。彼の方も無事に食べ終えたみたいでホッとした。

 伝票を取ろうとする彼の手よりも先に私がそれをさらった。

「今日は私がご馳走するよ」

「そんな」

 がたっと音を立てて立ち上がる彼に倣って、私も腰を上げる。

「いいよ。私の希望で、食べるのが苦手なラーメン食べさせちゃったお詫び」

 さっさとレジに足を進めると、さすがにレジ前で言い合うのはナンセンスと思ったのか、彼は口を閉ざした。会計を済ませて、店員たちの見送りの言葉を受けて店を出る。

 自動ドアが開いて、店に入る前はやや肌寒かった空気も、今は食後というのもあって体が火照っているから心地いい。

 ドアが閉まったところで、待っていたかのように後ろにいた彼が口火を切った。

「市子さん。お昼もご馳走になっちゃいましたし、相談にも乗ってもらっちゃって……このままじゃ俺、してもらってばっかりですよ」

「そんな気にしないで。これくらい……先輩が後輩にするのは当たり前だよ」

 軽く顔だけ向けて返せば、彼はなんだか傷ついた顔になった。そのことに不安が走る。

 どうしよう、彼にもプライドがあるだろうし、それを傷つけちゃったかな。

 でも、どうすればよかったんだろう。こういうとき可愛く甘えたり、男性を立てたりする術を私は持っていない。しょうがない、これが私だ。……けれど。

 私は彼の方に足の爪先も向けて、ちゃんと対面した。

「それなら図々しいかもしれないけれど、もしよかったら、改めてご馳走して。今度は山田くんが気を遣わなくていいところで」

 精一杯考えを巡らせて出た言葉がそれだった。平日の夜とはいえ、このラーメン店を含め、近くは飲食店が並んでいて、なかなか人の出入りが激しい。

 各々、好き勝手目的地に向かっている中で、スーツを着た男女が立ち止まって向き合っているのだから、私たちは少し浮いていた。

 彼が目を引く外見だから、尚更だ。

「じゃぁ、またラーメン屋に連れて行ってください」

「え?」

 改めて見れば、彼の顔はすっかりいつもの笑顔に戻っていた。そのことにひどく安心する。

「言ったでしょ。食べるのは苦手ですけど、ラーメンは好きなんです。でも、やっぱりラーメンってお店で食べるものだし、なんとなくわざわざひとりで行くのも気が引けていたので。よかったら市子さんがまた一緒に行ってください」

「……私でよければ」

 短く告げて、唇をきゅっと結ぶ。なぜだか勝手に溢れそうになる気持ちを懸命に押し留めた。彼が麺類を食べるのを苦手だって知っているのは、何人くらいいるのかな。

 彼はきっと他の女の子とはラーメン屋には行かない。そうなると、自分が特別な気がして。それがどうもくすぐったい。

「御手洗?」

 夜の喧騒の中、不意に疑問形で名前を呼ばれ反射的に冷静になった。すっと山田くんから視線を逸らして横を向くと、そこには、坂下と……

「お疲れさまです、坂下さん。西野さんも」

 そう、なぜか西野さんが坂下の隣にいた。昼間に見た受付の制服の上にロングカーディガンを羽織っている。

 おそらく食事にでも行っていたのか、恋人のような甘さも、距離の近さもない。とはいえ、それは私たちも同じだ。

「これは、その、坂下さんに、仕事のことで相談に乗っていてもらってたの」

 こちらがなにかを指摘したわけでもないのに、西野さんが、あからさまに坂下から距離を取る。その態度に、坂下が残念そうな顔をしたので、ちょっと笑いそうになった。

 そして山田くんを見ていた西野さんが、窺うような視線を私に向けて来たので、それを坂下が汲んでやる。

「お前らはどした?」

「そっちと同じ。ちょっと営業のアプローチの仕方で相談に乗ってて」

「にしても色気なさすぎだろ。普通、女子が連れていく店か? どうせまた飽きもせず、いつもと同じラーメンを食べたんだろ」

「いいでしょ、好きなんだから」

 呆れた坂下の意見はこの際、無視だ。それにしても歩道とはいえ、人の流れのあるこの場所でいつまでも大人四人が立ち話という構図も邪魔だ。

 さっさとこの場をやり抜けようとしたら、坂下がまさかの提案をしてきた。

「山田、ちょっと俺の代わりに西野ちゃんを送っていってやってくれないか?」

 まさかの発言にその場にいた全員が虚を衝かれる。坂下の意図がまったく読めずにいると、奴はこちらに視線を寄越してきた。

「ちょっと御手洗に話があるんだ。せっかく、ここで会ったからちょうどいいと思って」

「そんな、今!?」

「お前らの話はもう済んだんだろ?」

 どう考えても快く受け入れられそうにない。露骨に嫌な顔をしてみせるが、坂下はものともせず、強く言い切った。

「とにかく少し付き合えよ。山田、西野ちゃんを頼んだぞ。今日、昼飯食べていないお前を気遣って、わざわざ弁当を持ってきてくれたんだ」

 告げられた事実に心臓が大きく鳴った。私は無関係のはずなのに。山田くんが驚いた顔を見せ、西野さんが照れて俯きがちになる。

 そんなふたりを眺めていると、いつのまに近づいてきたのか、坂下が私の腕をとって少し歩いた。文句さえ言えずにされるがままでいると、いきなり肩に腕を回され、強引に引き寄せられる。

「ちょ、どういうつもり!?」

「いいから少し協力しろ。なんか奢ってやるから」

 ひそひそと小声で訴えかけられ、いつになく真剣な坂下の声と表情に、少し動揺する。

 にしても、この男は西野さんが気になっていたのに、山田くんに西野さんを送らせるなんて、どういうつもりなんだろう。

 好きだから彼女の幸せを願ってあっさり身を引くようにも思えない。

 私は背を向けているふたりの方をちらりと見た。お弁当の件でやりとりし、和やかな雰囲気で談笑している。客観的にこうして見ても、お似合いだと思う。

 少なくとも彼の隣に私がいるよりは。

 そのとき、ふと山田くんと視線が交わってしまった。ばちっと音がしそうなほど見事なもので、私はなにも悪いことをしていないのに、さっと顔を背けてしまう。

 いい加減、坂下の腕が重い。

「分かった。とりあえず、あんたの奢りで飲みに行ってあげるわ」

 はぁ、とため息混じりに小さく告げると坂下は、ようやく回していた腕を解放して、ふたりに向き合った。

「西野ちゃん、ごめんな。山田、頼んだぞ」

 私もなにか言わねば、と思い渋々振り返る。

「山田くん、また仕事のことで、なにかあったらいつでも言ってね。今日はお疲れさま」

「……はい、ありがとうございました。お疲れさまです」

「西野さんをちゃんと送って行ってあげてね。西野さんもお疲れさま」

「お疲れ様です」

 言い終えてから、勝手に気まずくなり私は山田くんも西野さんからも素早く視線をはずす。そして坂下が、颯爽とこの場をあとにしようとするので私もそれに続いた。

 山田くんと西野さんはこれからどうするんだろう?

 気になりながらも振り返ることはできずに足を進めた。

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