02
「ラーメン、ですか?」
「ラーメン、ですよ」
店の前まで来て、複雑そうに呟く彼の口調を真似て返してみる。一通りの仕事を終えて、山田くんが色々と提案してきたお店をすべて却下し、自ら提案したのが、行きつけのラーメン屋だ。
お洒落とまではいかなくても、女性一人でも十分に入りやすい雰囲気で、夜遅くまで営業している。
スープは塩が一押しで、私はここの数量限定のゆず塩鶏ラーメンがお気に入りだ。今日は時間が時間なので、もうないかもしれない。
「ラーメン、嫌い?」
「好きですよ。でも……」
あまり気乗りしていない彼に気づかないふりをして私は店内に足を進める。自動扉が開くと、若い女性店員が「お好きな席へどうぞ」と声をかけてきたので、ざっと店内を見渡し、空いている四人掛けテーブルに座った。
平日だからか、そこそこ空いていた。
「私、もう決めてるからメニューどうぞ」
正面に座ったタイミングで彼に備え付けのメニューを差し出す。
「市子さんのおススメってあります?」
「うーん。ここは塩ラーメンが一番のウリだけれど」
「じゃぁ、ねぎ塩ラーメンにします」
「ほかになにかいる?」
てきぱきとメニューを決めて、水を持ってきた店員にそのまま注文を済ませた。幸い、ゆず塩鶏ラーメンもまだ売り切れていなかったので少し気持ちが浮上する。
メニューを所定の位置に戻して、改めて視線を彼に合わせた。
「で、相談ってなに?」
「この前、お相手した方で、購入を迷われている方がいらっしゃったんです。車を買い替えるのはもう決めていらっしゃるみたいなんですが、車種で迷っていらして。ベゾンダーと似たタイプのスペチャーレが、もうすぐモデルチェンジをするから、安くなるのを待ってそちらにしようか、とのことで。上手くベゾンダーの方を勧められなかったんですよね」
スペチャーレは他社の車で、ベゾンダーとタイプが似ている。ミニバンほどの大きさもなく、スタイリッシュさも兼ね備えている。
大体、並んで比較されるいわば同系列の競合車だ。そのスペチャーレが来年の春にモデルチェンジするのは聞いている。
それに合わせて今の型が比較的安く買えるのは、誰もが知るところだ。対するベゾンダーは一足早くモデルチェンジしたばかりで、CMもバンバン打ち出しているが、その分値段はやはり張る。
「価格だけで言うと、こちらに分が悪いから、装備や燃費で推していくしかないね」
「そう、なんですよね。あっちとの大きな違いといえばシートでしょうか。ベゾンダーの二、三列目のシートを移動させて自由に使えるのは、あちらより優れていると思いますし」
「スペチャーレは今度のモデルチェンジでは改善するみたいだけれど、今のタイプはシートを横に上げるから、積載性でいえばうちの方がいいよね。あと、走行スペックと燃費だけだとあまり大差がないから、安全装備で推していくとか」
「なるほど。安全装備で推すのはあまり考えてませんでした」
感心した声を彼が漏らすと、そこでラーメンが運ばれてきたので話を中断する。
失礼ながら、思ったよりも相談内容が真面目だったので、これならもう少し落ち着いて話せる場所がよかったかな、と心の中で少しだけ後悔する。
べつに意地を張ったわけでもない。
でも、お礼として食事の誘いを受けてしまったら、私以外の誰かがお弁当を渡した場合でも、彼はきっとお礼として食事に誘うんだろうな。
それこそ、もしも西野さんがあのお弁当を渡していたら、きっと彼は今頃、女性が喜びそうなお洒落なお店で西野さんと食事を楽しんでいたに違いない。
想像すると、鈍い痛みが胸の奥で疼く。彼が誰となにをしようと私には口出す権利なんてない。
彼が優しいのは十分に理解しているし、だからこの状況は、あくまでもご飯を食べるがてら、職場の後輩からの相談を先輩として聞いているだけ。
男女の妙な色気なんて存在しないし、そんなものは私たちには、私には必要ない。
必死で自分に言い聞かせているのがなんだか滑稽で、逆に言えばそれだけ意識しているということなんだとは、突き詰めて考えないようにする。
透明のスープをレンゲですくって口に運びながら、彼に視線を戻した。すると、あまり箸が進んでいないことに気がつく。
「どうしたの? あまりお口に合わない?」
「いえ、とっても美味しいですよ」
そうは言っても彼の表情はどう見ても渋い。なんだか無理にラーメン店に決めてしまったことに対し、今になって不安になってくる。
「無理しなくていいよ。苦手なのに、」
「違うんです!」
否定の言葉は、右手に箸、左手にレンゲを持ったまま告げられた。そして、ややあってから彼は大きくため息を吐いて、項垂れた。
「すみません。俺、ラーメンは好きなんですけれど、食べるのが苦手なんです」
「……猫舌ってこと?」
彼の言葉を咀嚼してから、私は考えられる答えを導き出す。しかし、それは彼が首を横に振ったことで否定された。そうなると、どういう意味でなのかよく分からない。
「すするのが苦手なんです。というより、できないかも」
「へ?」
まさかの“苦手なこと”に私は目が点になった。そんな私に対し、彼は気まずそうに顔を背ける。そしてぼちぼち事情を語り始めた。
「外国にも日本のラーメン屋って結構あるんですよ。日本食は元々人気ありますし。でも、あっち、とくにヨーロッパでは、すするのはお行儀悪いことってされているから、そりゃもうみんな、ものすごく静かに食べるんです。元々すするのができない人も結構いますし。すごい人はラーメンはスープ感覚で、汁だけ飲んで、麺や具を残して帰ったり」
「ええっ」
素直に驚きの声が漏れる。それはもう、ラーメンと呼んでいい代物なの? 同じ食べ物でも場所が変われば、食べ方や立ち位置も変わるらしい。彼はさらに続けた。
「そんな状況で育ったおかげで、すすらずに食べる癖がついちゃって、今更思いっきりすするのが、なんだか逆に後ろめたいと言いますか」
なるほど、これでようやく事情を理解した。箸がなかなか進まないのは、猫舌でも嫌いというわけでもなく、すすらずにちょこちょこ食べているからなんだ。
「ごめんね、苦手なのに付き合わせちゃって」
「いいですよ。俺がカッコつけただけなんです」
そう言いながら、山田くんは箸で麺を懸命に口に運んでいる。たしかに、見ようによってはかなりお上品な食べ方だ。じっと見ていると、食べている彼と視線がばちりと交じわった。
「あんまり見ないでください」
ぶっきらぼうな物言いは嫌悪というより照れくささからだろう。おかげで私は謝罪の言葉と共に、つい笑みがこぼれてしまった。
「ごめんね。でも、私の前でカッコつけなくてもいいよ。そういうのは他の女子の前だけでいんじゃない?」
意外と、こういう山田くんでも可愛い!とか言って受け入れられそうな気もするし。彼がなにか返そうとしたが、その前に私から珍しく問いかけた。
「山田くんって、そんなに外国暮らしが長いの?」
「長いですよ」
彼は自分の生い立ちを簡単に語ってくれた。小学校低学年までは日本で暮らしていたが、お父さんの仕事の都合で一家で渡独することになったんだとか。
そのお父さんの仕事というのが、ドイツに本社を構える世界的有名なお菓子メーカーの重役というのだから、これには驚いた。
お父さんは、元々留学してヨーロッパの大学、院を出た経緯もあり、日本ではなく本社で採用されたらしい。そして、日本で本格的に売り出すために、こちらに来ていたそうだ。
今では日本のメーカーと提携して、当たり前のように馴染み深いものになっているけれど、まさかそこに至るまでに、彼のお父さんが絡んでいたなんて思いもしなかった。
もちろん私も何度も口にしたことがある。紫色のパッケージが独特でフレーバーが多いのも特徴だ。
「え、でも反対されなかった? お父さんと同じようにそっちで就職もできたわけでしょ? なんでわざわざ帰国して、うちに就職しようと思ったの?」
これは当然の疑問だ。彼の育った環境や両親の事情を思えば、うちよりも、もっといいところに就職できただろう。それにヨーロッパでの生活が長いなら、日本で就職するのは、より難しかったはずだ。
現地での学校に通いながら、日本語を忘れないためにも、補習校にもずっと通っていたらしい。私だったら考えられない生活だ。
山田くんは一度、箸を置いて、レンゲを右手に持ちかえた。大分、麺を食べたみたい。そしてなにかを思い出すように言葉を噛みしめながら返してくれた。
「ゆくゆくはあっちに戻るように、なにかしら言われるかもしれませんけれど、若いうちは色々な経験をしておくことも必要だと思って」
「だからって、どうしてうちに……」
「叶えたいことがあるんです。もう、ずっと前から、決めていたことがあって。それを叶えるために、今ここにいるんです」
さっきまでとは打って変わって、あまりにも迷いのない、はっきりとした物言いだった。その声も、瞳も、表情も、すべてで真剣さを伝えてくる。
「それは……叶えられそう?」
少し間があいて尋ねると、山田くんは軽く首を傾げた。
「どうでしょう。まだ自分の努力が足らないからか、なんとも言えません」
思わずどんな内容なのかを訪ねようとして、慌てて口をつぐむ。それが、どこかもどかしくもあった。
「……叶えられるといいね」
弱気な彼を励ますべく、私は返した。きっと叶えられるよ!なんて無責任なことは言えない。
少しだけ彼の事情を知ることができて、嬉しいような、寂しいような。やっぱり彼とは住む世界が違いすぎるんだと改めて思ったから。