(14)予想外と予定通り
最後の餃子を包み終えた真冬が、口を少し尖らせるようにして拗ねた顔を見せていた。
それは彼女が豊富なレパートリーの一つから意識的に
「どうしてもっと早く話してくれなかったの」
息子からの手紙を受け取って以降、奈央と息子のことをいつ言おういつ言おうと思いながら言い出せず、今日を迎えてしまった。今日になってもきっかけを掴めず、ようやくついさっき、ええい、ままよ!と、餃子を包みながら打ち明けた。
「すまない」
それ以外に言うべき言葉は見つからなかった。
ずっと自分の胸の中だけにしまい込んでいた。
初めて人に打ち明けた。
学生時代に愛した女性、奈央のこと。
その息子のこと。
「あなたの中には、まだその人がいるんだ」
そう伝わってしまうことは予想ができた。
だからこそ、これまでどう話していいか分からかなったのだ。
「そうじゃない」
そんな言葉を簡単に信じてもらえるとも思わない。
でも、それは事実なのだから、何度疑われても繰り返すのみだ。
打たれ強さには自信がある。
何度転んでも立ち上がる。
そうやって生きてきた。
「もちろん奈央のことは忘れちゃいない。これからだって忘れることはない。でも、それはおまえを想う気持ちとは全く別のものだ」
「はいはい。分かったわよ。別にどっちでもいいし、そんなこと」
真冬は顔を背けるようにして流しに向かった。
必死に涙を
泣くな。
そう言いたかった。
こんなことでおまえを泣かせはしない、と。
俯いたままの彼女の隣に立った。
彼女は一生懸命両手をこすり合わせて、ハンドソープを泡立てている。
その横で自分もハンドソープをたっぷり付けて洗ったが、一度では不十分な気がして、もう一度両手でしっかりと泡立てた。
先に洗い終わった彼女はタオルで手を拭っている。
「お前ももっとしっかり洗った方がいいんじゃないのか」
「もう十分綺麗だよ」
何とか涙は
「ニンニクだって入っているんだし」
「ニンニク入りはあなたが包んだ方だけでしょ」
今夜、真冬は二種類のタネを用意していた。ニンニクが入ったものと入っていないもの。そのニンニク入りの方を受け持った。今日は彼女の手をニンニク臭くはしたくなかったので、そこは率先して引き受けた。できれば自分の手もニンニク臭くしたくはなかったが。
「そもそも餃子じゃなくても良かったんじゃないか」
「相談して決めたことでしょ。絵里子ちゃんが、野菜嫌いの神堂さんも餃子なら好物だって言ってたから。今頃になって文句言わないで」
実のところ彼女の反論はどうでもいい。
腹を立てたせいで、ぎりぎり止まっていた涙も完全に引っ込んだことだろう。
それでいい。
ただ本気で怒らせても具合が悪い。
念入りに二度洗いした手を嗅いでみる。
大丈夫だ。
ニンニク臭もオヤジ臭もしない――はずだ。
気合を入れる。
綺麗になった手を広げて、彼女に見せた。
「何してんの?」
「どっちの手が綺麗でいい匂いがするか、勝負しようぜ」
もう一度自分の手の匂いを嗅いでみせる。
「はあ? 馬鹿なこと言って。同じ石鹸で洗ったんだから匂いは同じでしょ。まだ他の料理も作らないといけないんだから、邪魔しないで」
冷蔵庫に向かおうとする彼女の腕を取って引き止める。
「待てよ」
「なに?」
「手、見せろって」
「本気で言ってるの? 石鹸は同じでも、わたしの方が綺麗でいい匂いに決まってるじゃない」
何故かドヤ顔で両手を差し出してきた彼女。
その左手を取った。
顔に近づけて匂いを嗅ぐ、と見せかけて薬指に指輪をはめた。
笑っているような拗ねているような複雑な表情が、途端に真顔を通り越して戸惑いの表情に変わった。
「な、なに? 何なの?」
こっちの顔と指輪とを交互に見比べて動揺している。
面白いから暫くそのままにしておこうかとも思ったが、さすがに可哀想かなと思い直した。
これまでさんざん待たせたのだから、もう待たせるのはやめておこう。
「結婚してくれ」
予想通りだった。
蛇口を全開にしたかのように、大きく見開かれた彼女の瞳から大量の涙が溢れ出した。
「ば、馬鹿ぁ……」
泣きながら、この期に及んで結婚の承諾よりも、文句を言いたいらしい。
さもありなん。
こんな男にずっと文句も言わず、いや。これまでもさんざん文句は言いながら、それでも着いて来てくれたのだ。積もりに積もった
事情を知らない周りから奥さんと呼ばれることはあっても、自分から妻を名乗ることはなかった。知らないところで肩身の狭い思いもしただろう。
今でも十分似合うとは思うけれど、もっと若いうちにウエディングドレスを着せてやりたかった。クローゼットの奥に仕舞い込んだままになっている、アイドル時代に雑誌の企画で着たウエディングドレス姿の写真パネルを知っている。彼女の性格からすれば、本当は堂々と部屋に飾っておきたいはずだと思う。なのに仕舞い込ませているのは、きっと自分のせいだ。
東京の店も続けさせてやりたかった。
昔からのファンに囲まれて楽しそうに料理をする彼女の姿も好きだった。アイドルが大好きだった彼女は、あの店ではずっとアイドルのままでいられたのだろう。
何度もしつこく彼女に酌をさせる客には腹が立つこともあったけれど。
学生時代、本当ははじめから真冬推しだったことはこれからも内緒だ。同じ墓に入ったら、その後で告白するかどうか考えよう。
若かりし頃、雑誌の付録だった折り目だらけのポスターを必死に伸ばして部屋の壁に貼っていた。CDショップの抽選で当てた馬鹿でかいポスターを天井に貼り、毎晩真冬の顔を見ながら寝た。彼女がレギュラーになったラジオ番組に、数えきれないほどのメールを送って、やっとの思いで直筆サイン入りの生写真を手に入れた。
貧乏学生だったからCDやグッズも思うようには買えなかった。個別のグッズが多く売れるメンバーがグループ内での地位も高くなる。そんなシビアな仕組みを知ってはいても、ほとんど協力してやれない自分が
彼女は多くの人たちから愛され、自分自身の力で主力メンバーとしての地位を勝ち取った。
とてもじゃないが、お前を推していたなんて胸を張って言えたもんじゃない。単に恥ずかしいというのも大きな理由だが――。
どこまで振り返ってみたところで、自分は何も与えてやれなかった。
そこそこ売れ始めて、それなりに稼げるようになってからでさえも、彼女が本当に欲しいものは与えてやれなかった。
与えるどころか、せっかく手に入れた東京の店を手放させてしまった。大好きな彼女の笑顔の元を、自分で奪い取ってしまった。
とっくに見放されても仕方のない男だった。
いくら文句を言われても仕方がない。
恨まれても仕方がない。
でも――。
身勝手かもしれないけれど。
もう負い目に感じる関係は終わりにしたい。
「何でこんな、こんな……。餃子を作ったあとにぃ……」
文句を言いたいのはそこなのかよと、ちょっと力が抜ける。
「だって作る前だと、指輪が汚れちゃうだろ」
適当なことを言ってみた。
「馬鹿ぁ……ほんとに馬鹿なんだからぁ……」
「餃子の中に包み込んで仕込んでみても良かったかなって思ったけど、さすがにそれはやめた」
「当たり前でしょ」
「お前なら指輪丸ごと呑み込みかねないしな」
「馬鹿」
ようやく涙の新規発生は止まったようだ。
「で、この馬鹿と結婚してくれるのか?」
もちろんっとか何とか言って抱きついて来る。
そう予想していた。
さりげなく腰を落として抱き止める準備をした。
彼女はまだ右手で涙を拭いつつ、鼻をすすりながら指輪を見ている。
「ティッシュが欲しけりゃ返事をしろ」
ぼろぼろの顔でこっちを見た。
そうだ。
そこから、飛びついて来い。
だが――。
彼女は斜め上を見て、少し姿勢を正したかと思うと深呼吸をして、そのまま深々と頭を下げた。
「よろしくお願いします」
予想が外れて、調子が狂った。
思わず自分まで背筋が伸びた。
「お、おう。こちらこそ」
そう言い終わった途端、顔を上げた彼女が、泣いているのか笑っているのか分からない表情で飛びついて来た。
予想外のタイミングではあったものの、何とか予定通りに受け止めた。
第5話「ハンカチを貸す理由」〈了〉
【連作短編集】世界中の恋が全部叶えばいいのに《終》