プロローグ
深夜ラジオという言葉の響きには、どこか静けさを伴った、パーソナルな世界を思い起こさせるものがある。
男女を問わず、少し低音で落ち着いた渋い声の持ち主が、物静かに季節を語りながら大人の音楽を流しているような。
あるいは、番組によっては全国ネットだったりするにもかかわらず、何故か自分にだけ語りかけてくれているかのような。
だからつい、身近な人には言えないような悩みまで打ち明けてしまったりする。
そういう番組はイメージだけではなく確かに存在するのだけれど、大抵は街の片隅でひっそりと息をひそめているかのようで、こちらから探しに行かなければなかなか見つけ出すことができない。あたかも夜の電波を支配しているかのごとく目立つのは、もっと派手な番組たちだ。
日付もとっくに変わって、日の入りよりも日の出が近いような時間になってさえも、案外とラジオというものは賑やかで
それでも若い頃には、自分が少し大人になったような錯覚を与えてくれる、そんな空気感が嫌いではなかった。
受験生だった頃がピークだろうか。
社会人になってからは翌日の仕事のことを考えれば夜更かしなどできなくなり、とんと聴かなくなってしまった。時々眠れない夜などにふと耳にしたときなど、夜勤をしながら聴いています、なんていうリスナーからのメールが羨ましく思えてしまう。
一晩中たった一人で何処へ行くでもなく深夜ラジオを流しながら、空が明るくなるまでドライブをしてみたい。もちろん若者が大人ぶるための
最近になってふとそんなことを思うようになったのは、また年齢を重ねてしまったせいなのか。だとすれば、そんなことに気づきたくはないものだけれど。
いつだったか、何かの打ち上げの席でそんな話をしたら——もちろん既存の番組を批判するような言葉は慎んだ上でだけれど——、忘れた頃になって、あろうことか自分にラジオの仕事のオファーがあった。しかもスタッフではなく、喋る側の人間としてだ。
もちろん、すぐさまその場で丁重にお断りをした。
訳と縁あって芸能関係の仕事に携わってはいるものの芸能人ではないし、芸能人になりたいと思ったこともないし、ましてや、人様に何かを語れるような人間でもない。公共の電波を使って不特定多数の人たちに話しかけるなんて特殊能力は、わたしにはない。
なのに、さらにそんな話すらも忘れかけていた頃に、再び呼び出されてしまった。
二人で会って話そうと言われて
「大丈夫だよ。俺、ハナエちゃんとは父親くらい歳が離れてるしさ、今さら口説いたりしないから。あ、仕事のことでは口説くんだけどね。はっは」
そっち方面のことでは心配する必要のない、信頼に足る人物ではあったけれど、もし本気でそう思っているのだとしたら、年齢差など何ら安心材料にはならないんですよと教えてあげたい。
子供が二人いるらしいがバツイチだそうで、一応は独身男性だ。頭頂部の薄毛を高そうなハットで隠し、中途半端に白髪が混じった髭をたくわえている。ちょい悪おやじになり損ねたような、あるいは上下逆さまに引っ繰り返しても顔になりそうな愛嬌のある風貌は、女性からひと目惚れをされるようなタイプではない。けれど、もしも、万が一、仮に、友人から惚れてしまったと相談されたら、あの人ならいいんじゃないのと答える程度には良い人だと思う。ただし、離婚原因だけは確認するように忠告をするけれど。
わたしにとっては色恋の対象にはならない。だから口説かれるだけ面倒だし、恋愛に限らず仕事においても良い人を袖にするのは心苦しい。そんな思いはできればもうしたくない。
おしゃれでムーディなお店は嫌ですよと冗談めかして釘をさしたら、オッケーッと軽いタッチで返されたものの、あとから指定された店はいかにも怪しげに感じられた。
そう感じたのは「
今さら断れないしなぁと悩みつつ、チェックしたグルメサイトによれば和食に分類されていて、口コミの評価は可もなく不可もなくといったところだった。少し安心して胸を撫で下ろすと同時に、これは完全にネーミングに凝ろうとして失敗したパターンだなと判断を下した。
「らっしゃいっまっせえっ」
暖簾をくぐると、威勢のいい大将の声に迎えられた。
少し気遅れしながら店内を見回すと、奥の小上がりで手を振っている人がいた。
「ハナエちゃん、こっちこっち」
満席ではないが、カウンター席もテーブル席もほどほどに埋まっている。
店員も客も賑やかで、プライベートで来たいとは思わない雰囲気だけれど、今日に限ってはお願いしたとおりの店だったので文句を言う筋合いではない。こういう些細なことからみても、やっぱりこの人は信用できる。
でも、今回の本題になるとしつこかった。
「ハナエちゃん、美人だしスタイルいいし、本当ならテレビや雑誌にも出て欲しいところなんだけどさ」
その人は日本酒を呑みながら、しつこく口説いてきた。
「わたし、もう若くないですから」
「まあ、それはそうかもしれないんだけどさぁ」
いやいや。そこは嘘でも否定するところだろう。
思わず突っ込みそうになるけれど、話が蒸し返るのは望むところではないし、人となりを知っているから腹も立たない。無駄に
「ルックスももちろんなんだけど、声がいいんだよ。好きなんだよなあ、ハナエちゃんの声。それにほら、声は歳取らないって言うじゃない」
まだ年齢の話をするか。
「そんなこと言いますかね?」
「言うよ。言う言う。ワインみたく熟成はされていくけどさ、老いはしないんだよ。いい声の人は歳を重ねてますますいい声になる」
「そこまで歳じゃありませんから」
つい我慢できずに言ってしまった。
「もちろんだよ。だから、本当ならモデルでも女優でも十分いけると思うんだけどさ、そこは我慢してるわけ。ハナエちゃんの性格もある程度は分かってるつもりだから。本気で嫌がることをやれとは言わないよ。でも、深夜のラジオならさ、正直なところ、まんざらでもないんじゃない?」
不覚にも返す言葉を見失った。
まんざらでもない?
そんな台本に書かれた台詞みたいな感情を抱いたことはなかった。
まんざらってなんだ?
いや。今はそんなことはどうでもいい。
折り入ってだって、いまだによく分からない。
何故だろう。
自覚すらしていなかったのに、どうして見透かされたのか。
確かに、まんざらでもない——かもしれない。
深夜ラジオはある意味で憧れの世界でもある。それでも、自分がやってみたいと考えたことはなかった。なんら経験のない世界だし、今の仕事の調整も必要だ。いやいや。そんな具体的な障害をあげるまでもなく、到底無理。無理なものは無理だ。
「今さ、頭の中でできない言い訳考えてない? やるやらないじゃなくて、できるできないで考えたでしょ」
とぼけた顔をして、この人は鋭い。
だからこそ、海千山千が
「実際、無理ですよ。ご迷惑をおかけするだけです」
「ほら。それが言い訳。迷惑なんてかからないよ。そっちの事務所とはうまく話をつけるから」
「でも、そういうわけには」
「ど深夜だし。ローカルだし。スポンサーもうちの元女房の実家の関連会社だけだし。どうせ誰も聴いてないから、数字なんか気にしなくていいし」
身も蓋もないことを言っている自覚があるのだろうか。
こちらがため息をついてしまう。
だったらわたしじゃなくても誰でもいいんじゃないですか。
そう言ってやろうと、本格的に謝絶モードに入りかけたとき、話題は急旋回された。
「この店、来たことある?」
思わず首を横に振る。
「この店、知ってた?」
また首を横に振った。
「ここ、彼女がやってた店なんだよ。ほら、なんていったっけ?」
そんなノーヒントで分かるはずがない。
「あの子だよ。元アイドルの」
やっと第一ヒントが出たものの、何ひとつ選択肢が思い浮かばない。
「ほら。名前、何て言ったっけなあ……あー、この歳になると人の名前が出て来ないんだよなあ。確か、ここの店名にも関係あるんだよ。秋冬……えーっと、どう関係あるんだっけ? ほら、あの、かわいい子」
ひとり言のように言いながらグラスを置いたと思ったら、人差し指と親指を伸ばした形で両手を組んだ。
何だと思って見ていると、その指先をこちらに向けられたところで気がついた。
それは拳銃の形だと——。