(18)二人の距離
翌朝、目を覚ましたのは自宅リビングのフローリングの床の上だった。
頭が痛い。
スーツは脱いでいた。きっと正しくは、脱がされていたのだろう。自覚はないけれど。
ネクタイもしていない。ワイシャツは首元のボタンが三つほど外されていた。
頭以外にもあちこちが痛かった。せめてソファで寝るんだった。
「あ。パパ、起きた」
声のする方に目をやると、妻と娘がダイニングのテーブルで食事をしている。
「大丈夫なの?」
心なしか妻が口を尖らせているように見えたけれど、気のせいだと思うことにした。
「大丈夫。……悪いけど、水をくれないかな」
「随分と楽しいお酒だったのね」
やはり妻の言葉には気付かざるを得ないほどに尖った棘がある。
この棘は弾き返そうとしてはいけない。多少ちくりちくりと痛い思いをしても、甘んじて受け入れるのがよい。それが経験則だ。
「朝ごはんか?」
「何言ってるの。もう、お昼ごはんよ。ほんとに大丈夫?」
「ああ……ごめん。大丈夫だよ」
大丈夫——。
そう。尋深からも最後にそう言われたような憶えがあった。
そうだ。タクシーを拾ったのだった。
一人乗り込んだ彼女を見送る時、発車間際に彼女が窓を開いた。
「二次会は寝ちゃってたあの頃と成長がないんじゃないの。駄目よ、ここで寝ちゃ。大丈夫?」
彼女の方は全然平気な様子だった。学生時代からアルコールの処理能力も含めて、実は身体能力面では敵わなかった。勝てたのはテニスだけだ。
本当に成長がないと心の中で苦笑した。
——いや。そうではない。
そうじゃない。
もっと何か、思い出すべきことが——。
アルコールで消去されかかっていた記憶を手繰り寄せる。
時間がもう少し巻き戻った。
「わたしたち、変わったのよ」
タクシーが拾えそうな広い通りまで並んで歩いていた。二人の間に、妙によそよそしい不自然な距離を取りながら。
酔いのせいだろう。彼女の真意を汲み取ろうともしなかった。頭に浮かんだことがそのまま言葉になった。
「いや。君はあの頃のままだ」
思い出しただけで赤面してしまう。素面ではとても言えない台詞だ。
「もう。酔っ払いが」
酔っている分、正直な感想ではあったぢろう。けれど、正直であること、それがいつも正しいとは限らない。生きてきた途中で、それを知った。
「学生時代のあなたは、わたしのことを君なんて呼ばなかったでしょ」
「それはお互いさまだ。あなただなんて呼ばれた憶えもない」
「わたしたち、織姫と彦星じゃないのよ」
突然何を言い出すのかと思った。
「当たり前だ。やつらは毎年会えるのに、俺たちは十五年も会えなかったじゃないか」
「そういうことじゃないわ。今のわたしを見てって言ってるの。最後に会ってから十五年の時間が過ぎた。わたしたち、アラフォーよ。肌の張りもなくなった。小皺も増えた。そろそろ白髪だって」
そんなことは分かっていた。最初からありのままの彼女を見ていた。そのつもりだった。昼間、街で会った時も。呑み屋のカウンタでは物凄く至近距離で。
彼女はそんな思いを容赦なく打ち砕いた。
「あなたは今日会った時から、ずっと十五光年先を見ているような目だったわよ。ずっとそう。あなたとわたしの距離が十五光年あれば、あなたには十五年前のわたしが見える。それは素敵な、魅力的な話かもしれないけれど、現実はそうじゃない。わたしはあなたのすぐそばにいた。今もそう。だから、もうそんな天体望遠鏡を覗くような目で見ないで」
そんな目でなど見ていない——。
そう言い切れなかった。
「あなたはわたしにふられた。そう思っているでしょう」
思っているもなにも、事実ふられたのだ。
そう反論するよりも、彼女の言葉の方が早かった。
「わたしの思いは違う。わたしがあなたにふられたの。あのあと、そう、あなたがあっさりと、わたしの別れましょうっていう申し出を受け入れたあと。わたしはずっと待ってた。あなたがもう一度告白してくれるのを。なのに、あなたは何も言ってくれなかった。だから、わたしがふられたの。それが真実。あなたの記憶は間違っている」
そんな——。そんなことを言うために来たのか。それが整理をつけると言った意味なのか。
言うべき言葉を見つけられなかった。
若い頃に気づかずにやり過ごしてきた真実など、大人になってから知るものではない。もはや後悔などするレベルでもない。ただただ小っ恥ずかしいだけだ。この短い時間の中で、どれだけ自分の青さを思い知らされたことか。
なのに彼女の方は、まだ隠し球を持っていた。
「今日だって、あなたを見つけるの大変だったんだから。お昼休みの時間、早めに行ってあなたが出て来るのを待ってたのに、なかなか出て来ないし。どんどん人が増えて見つけにくくなっちゃうし。午後からの仕事の時間も迫って来るし。諦めて帰ろうとしてたのよ。でも、ちょっと楽しかった。あの頃を思い出したわ。帰り道、あなたと一緒になるように画策していた、あの頃を」
それを聞く自分がどんな顔をしていたのか、思い出したくも知りたくもなかった。
——時間がなくなっちゃった。
昼間会ったときの彼女の台詞。どこか違和感を持った、あの言葉の意味は、そういうことだったのか。
「自分が見てたものが信じられなくなった? 大丈夫。わたしはいなくなる。いい歳してこんな
「十五光年」
それは全部、合宿の夜に教えた数字だ。
「あの二人はお互いに十五年前の相手を見ている。わたしたちにぴったりじゃない。これまで通り、あなたはあなたの日常を生きて。わたしはわたしの現実を生きる。もう会うことのないわたしたちはお互いに十五年前の相手を見ながら生きましょう。ごめんなさい。ずっとあなたのことを想って生きるわけじゃないけど。そうね。年に一回も無理かも。でもいいじゃない。お互い、多分これですっきりしたはず。あなたがストーカーをやめた時みたいに」
そこで彼女がタクシーを止めようと、手をあげた。
「会わない方がよかったとか思ってる? 宿の夜の砂浜で話したことを覚えてるかな。離れていた方が若いままの自分を見てもらえるって話。あれは宇宙レベルの距離感じゃなくても、地球にいる人間同士でもそうなんだなって、最近思うの。昔会ったきりになってる人は、いつまで経ってもそのときのまんま、歳を取らないもの。あなたの中のわたしも、きっと昨日までは学生時代のままだったんでしょ。お互いさまだけど。でもね、わたしは会えてよかった」
停まったタクシーの扉が開いた。
乗り込み際、彼女は振り向いて昨夜一番の笑顔を見せた。
「そう考えるとわたしって、まるでわざわざ玉手箱を開けに来た乙姫様みたいじゃない?」
織姫の次は乙姫かよと、その台詞に突っ込めなかったことが最大の心残りかもしれない。
彼女を乗せたタクシーが角を曲がるのを見届けながら、一瞬だけそんなことが心を過った。
特別なことではない。誰だって抱えて生きているはず。若い頃なら尚更だ。青臭い記憶。ほろ苦い体験談。どんなに親しい人に対しても言えないようなことだってある。気づけなかったことや、勘違いしたままになっていることだって、どれだけあることやら。
それでも、どこかに刺さっていた大きな棘が一本抜けた。酷い二日酔いのはずなのに、そんな
多くのものは遠く離れてしまえば、見ることすら出来はしない。忘れ去られ、無かったも同然となる。何光年離れても見えるのは、それだけの輝きを放っているものだけだ。
「はい、パパ」
娘が水を注いだコップを持って来てくれた。
「ありがと」
飲みながら思った。
尋深は間違っている。織姫と彦星はずっと同じ距離で見つめ合っているとしても、自分たちはそうはいかない。もうこの先は十五年では済まないのだ。五年経てば二十光年。十年経てば二十五光年。二人の距離はどんどん広がるばかりだ。
だが——。
現実はどこまでも思い通りにはならない。結果的に二人の距離がそこまで広がることはなかった。
二人の距離が二十光年を超えた頃。カナダ、バンクーバーから成田に向けて飛び立った旅客機が消息を絶ち、乗員乗客全員の死亡が伝えられた。
あれからやはり使うことのなかった彼女の番号に何度リダイヤルを繰り返しても、LINEやメールを送ってみても、いくら待っても、応答はなかった。
スマホを片手に、事故を伝えるテレビを食い入るように見つめていた。
画面には日本人搭乗客の名前が並んでいた。
アナウンサーが一人ずつ、
その中に——
『なかいずみ、ひろみさん』
彼女の名前があった——。
それが旧姓であることに思い至る余裕など、このときの自分にはあろうはずもなかった。
第2話「十五光年先の」〈了〉