(13)初めての乾杯
相変わらず返信もない。
尋深は時間にルーズな人間ではなかった。サークルの集合時間に連絡もなく遅れてくるようなこともなかったし、二人で本屋で待ち合わせをしたときにも、彼女は五分前に着いていた。
こちらは三十分前には着いていたから知っている。自分ばかりが張り切っているようでばつが悪かったので、自分もついさっき着いたような風を装った。
実は彼女とはほんの一時期だけ付き合っていた。その初デートが本屋での待ち合わせだったのだ。
あの合宿の夜から一年も後のことだ。
そう。告白すればよかったと心底後悔したあの夜から、更に一年の時間が過ぎていた。
もしも人生を巻き戻せるものなら、あの合宿の夜か。あの日の本屋か。それとも雨のテニスコートか。
合宿を境に、どういうわけか帰り道で一緒になることが増えていた。それは意識的にそうしたわけではなかった。散々画策しても効果がなかったのに、姑息な手段を諦めた途端に一緒に帰る機会が増えたのだった。
正門を出て信号待ちをしていると、たまたま彼女がうしろから追いついて来たり、コンビニの前を通ったら彼女がちょうど店の中から出て来たり。
あの夜はサークルの仲間たち数人で晩御飯を食べた帰り道だった。
途中から彼女と二人になったところで、意を決して告白をした。
正確にはそれ以前に意は決していたのだ。この次、帰りが一緒になったら告白しようと。
心臓が口から一緒に出たかと思うほどの告白の言葉に、驚きを隠さなかった彼女だったが、すぐに表情を崩して承諾してくれた。
何らかの核が融合か分裂かしたかのような、その笑顔だけで一生生きていけそうなエネルギーの放出だった。
キスはおろか手を繋いだことすらない。たった二か月ほどの付き合い。それを付き合ったと言えるのかどうか。
それなりに酸いも甘いも噛み分けてきた今となっては、もし他人がそんなことを言ってきたら即座に否定してしまうかもしれない。
でも、これまた自分のこととなると話は違う。
確かに告白をし、承諾をもらい、何度かはデートらしきことをして、そしてふられたのだ。
付き合っていた。それ以外に、この間の二人の関係を表現する言葉があるだろうか。
そんなふうに強弁してみたところで、実は自信はない。救いは肯定してくれる人もいない代わりに、否定する人間もいないという程度のことか。
いや。全人類に否定されても構わない。唯一最大の気掛かりは、たった一人、彼女本人に否定されてしまうことだった。
果たして、自分は彼女に元カレの一人としてカウントされているのだろうか。
「どうしたの、ため息なんか吐いちゃって」
頭上斜めうしろからの声に驚いて振り返ると、尋深が立っていた。
昼間会ったときに比べて明らかに化粧が濃く、髪を下ろしている。それでもやはり同じ歳月を重ねたことを疑ってしまうほど、卑怯なまでに破壊力のある笑顔だった。それはまるで十五光年先の笑顔を見せられているかのごとく——。
とはいえ、もう学生時代とは違う。三十分で来ると言っておきながら、到着したのは一時間後の今なのだ。しかもその間に連絡の一つも寄越さない。笑顔一つで許されるのは学生だけだ。社会人は甘くない。
だが、彼女はそんな思いなどお構いなしだ。勝手に隣の席の鞄を手に取ると、こちらに押し付けるようにして、そこに座った。
「おい」
「なに?」
「何か言うことあるだろう」
「あ。お疲れ様」
「じゃなくて」
「何よ?」
「三十分で来るって言ったじゃないか」
「言った、かな?」
わざとらしく人差し指を
スマホには動かぬ証拠が残っているというのに、全く意に介していないような、あるいは(笑)という文字が見えるような、実に憎らしい、でも憎めない表情だった。
「なんで一時間もかかったんだよ」
「だって、もともと三十分で来れる場所じゃなかったんだもん。こっちは土地勘もないし、無理だよ」
文字表記できない呻き声を上げた自覚があった。
この感情をどういう言葉で表せばいいのかと悶絶する。
「じゃあ、なんで三十分で来るなんて言うんだよ」
「だって、一時間かかるなんて言ったら、待っててくれないかもしれないじゃない。ぎり三十分ってとこかなって思ってさ」
今度は小さく舌を出している。
抵抗する手段がないことを悟った。完全に白旗だった。
もうお互いアラフォーだぞ。
同じだけ年齢を重ねているはずなのに。
もう花の女子大生でもないくせに。
一時間くらい待つに決まっているじゃないか。これまでに過ぎた時間に比べれば、一時間なんて——。
そんなことは言葉にはできない。
人生は言葉にできなかった思いの積み重ねだ。
そんなものばかりが枯葉のように散り積もっている。
積もった枯葉を見ないように踏み固めては、また積もり。
そんなものが層を成している。
「各務さん、ずいぶんとお待ちかねでしたよ」
女将が余計なことを言いながら、彼女におしぼりを渡した。
「そうなんですかあ。昔から素直じゃないんですよね、彼」
抗議したいのはやまやまだったが、この女性二人が相手ではとても太刀打ちできない。そう思って言葉を探すのを放棄した。
尋深がメニューも見ずに奥播磨純米吟醸無濾過生と鰆の西京焼きを注文すると、女将がすまなそうな表情を浮かべる。
「ごめんなさい。西京焼きは各務さんのが最後だったの」
「えーーーっ!」
「あ。そういえば、ラスイチって言われたような気がする」
「騙したなあ」
泣きそうな顔で睨みつけてくる。
「人聞きの悪いことを言うなよ。騙してなんかないじゃないか」
もちろん泣いてなどいない。なのに、ぐすんとか言っている。十五年経っても彼女の得意技らしい。
「あー、泣かないで。ごめんなさいね。塩焼きになっちゃうけど、鯵ならいいのがあるんだけど、どうかしら」
わがままを言っている子どもと、それをあやす保育士さんのようだった。
子どもはたちまち目を輝かせて、保育士さんの提案を受け入れた。
「すみません」
何故かとっさに女将に謝ってしまったら、案の定「何であなたが謝るのよ」と文句を言われた。
女将はそれを横目に、楽しそうに奥へと引っ込んだ。
尋深はどこからか取り出したゴムを口にくわえ、うしろ手で髪を束ね始めた。
そのうなじを見ているだけで酒が何杯か呑めそうだ。
そんな思いを汲んでくれたのか、女将がすぐに日本酒を注ぎに来てくれた。
同じ卵型のグラス。同じ奥播磨。
思えば二人だけで酒で乾杯をするのは、これが初めてだったかもしれない。
小さな感慨と共にグラスに口をつけたとき、彼女の方は口に運びかけたグラスを何故かまた置いた。
身体の向きを変えて、こちらから見えないようにバッグから何かを取り出したようだ。
「ごめん。ちょっとリップが濃かったんだった。あのあと、ちょっと気合のいる商談があってさ」
どうやらティッシュで軽くリップを落としたらしい。
もちろんそんな仕草は学生時代には見覚えがない。
彼女はあらためてグラスを手に取って口をつけた。
「美味しい。やっぱ無濾過だね。やっぱ生だね」
「日本酒なんて呑むんだな」
「呑むよお。日本酒だって、芋だって麦だって。そっちこそ昔はすぐに酔っ払って、二次会は必ず寝てたくせに」
APTの飲み会は三次会までが定番だった。二次会はいつも酔って寝ていて記憶がなく、三次会でなんとか復活するのがお決まりようになっていた。
「そんなこと、よく覚えてるな」
「だって、わたしの元ストーカー君だもの」
口にものが入っていたら吹き出していただろう。
人聞きの悪いことを言うなと否定もできない。それは事実だからだ。