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(4) 小料理屋「夏雪」

 最近お気に入りの小料理屋に立ち寄ることにした。
 夕飯はいらないと、妻にはLINEを入れた。
 乗り換え駅で次の改札へは向かわず、しばらく地下通路を歩いて一番北側の出口から地上に出た。

 もうすっかり陽は沈んではいるものの、日没後の方が明るかったりするのが夜の街だ。
 さらに北に向かって坂を上る。緩やかだった勾配が途中の幹線道路を境に増し、ネオンの明かりも人通りもそれまでに比べると格段に少なくなった。

 坂道を歩くときは俯きがちだ。意識して顔を上げると、前方の建物の合間では黒々とした山が空を侵食している。
 晴れているはずなのに星は見えない。何光年も旅してきた挙句、最後は都会の空気や街の明かりに行く手を阻まれてしまうのだろう。
 そんな星の光の儚さに思いを馳せた頃、目的のビルに着いた。

 海よりも山に近い、坂の途中に建つ古めかしい石造りのビル。その前に置かれた、それこそ俯いて歩いていなければ見落としてしまいそうなほど、小さくて控えめな行灯(あんどん)が目印だ。
 蝋燭(ろうそく)の灯りを模したLEDが揺れながら「夏雪」という文字を浮かび上がらせていた。

 「お疲れさま」

 カウンタ越しに、和装の女将が疲労回復剤のような笑顔を添えて、おしぼりを手渡してくれる。
 このときに必ずほんの少しだけ指が触れる。その触れ方がまた絶妙で、自分だけが特別なわけがないのに、そんなことを思わせる。

「ビールにします?」

 たったこれだけの台詞に「それともお風呂?」とでも続きそうな雰囲気を醸し出す、恐るべき女将だ。
 どこかで会ったことがあるように思えてならないのも、女将が放つ妖力のようなもののせいだろう。

「ええ。お願いします」

(さわら)の西京焼きがラスイチなんですけど、いかがです?」

 例え商品の売り込みであったとしても、この女将の誘いを拒絶できる男がいるのだろうか。断る術を発見したら、ノーベル賞ものだと思う。
 若いと思わせたり、大人の落ち着きを見せたり、はたまた時には幼ささえ感じさせる年齢不詳な女将だが、おそらくは自分と同年代だろうと想像している。

「もちろんいただきます」

「ありがとうございます」

 (とろ)けるチーズみたいな女将の笑顔に、気づけば客の方も笑顔になっている。やはり仕事の憂さを晴らすにはもってこいの店だと、認識を上書き保存した。

 女将のせいで危うく忘れそうになっていたが、今日はいつにも増して珍しい酒の肴があることを思い出した。
 おしぼりを置いて、昼間貰った名刺を取り出す。

 中和泉(なかいずみ)尋深(ひろみ)——。
 印刷されているその名前が旧姓のままなのはビジネスネームだろう。昨今、結婚後も旧姓で仕事をしている女性は身の回りでも珍しくない。

「どなたの名刺ですか?」

 突き出しの小鉢を置きながら、今度は(あや)しげな微笑みを投げてくる。その破壊力たるや、他の女性のことを考えていることが(やま)しく思えてしまうほどだ。

「今日の昼休み、偶然昔の知り合いに会ったんですよ」

「へえ。ちらりと女性らしき名前が見えたんだけど、気のせいかしら」

 わざとらしく口を尖らせたかと思うと、次の瞬間にはその口が手品のように笑っている。そもそもチラ見した字面だけで女性だと判別できる名前とも思えないので、きっと当てずっぽうに違いない。

「はい。ビール」

 この店に生ビールはなく、瓶ビールだ。いつも最初の一杯は女将が注いでくれるのだが、こちらは適当にグラスを構えているだけなのに、いつも完璧な割合で泡が立つ。

 グラス半分ほど呑み干して、スマホを取り出した。電話帳を開き、登録したまま死蔵となっている中和泉尋深の電話番号と、名刺の裏の手書きの番号とを比べてみた。
 同じだった。
 
 なんだ。わざわざメモなんかしてくれなくてもよかったんじゃないか——。

 とはいえ十五年もの間、(ほこり)に埋もれて(かび)まで生えたような番号だ。いきなり電話を架けるのは棒高跳び並みにハードルが高い。

 今架けたらどうなるだろう——。

 画面を眺める。
 表示されている番号。そこに軽く触れるだけで発信される。
 まだ仕事中かもしれない。仕事中ならまだいいけれど、もう家に帰って家族と一緒に過ごしているかもしれない。そこに電話をしてどんな会話をしようというのか——いや。家族に聞かれて困るような会話をするわけじゃあない。するわけじゃないけれど……。

 まるで思春期男子のような思考に陥りつつあることを自覚してスマホを置き、グラスに残っていたビールを呑み干した。

しおり