六十六話 追跡
「ところで、どこへ向かうのですか? あの犬がどこへ向かったのかまったく見当もつきませんが」
後ろに乙霧を乗せ馬の手綱を取る時雨が、横で同じように後ろに煎十郎を乗せ馬を走らせる静馬に尋ねる。
「ああ。町の出入りを見張っていた者の話では、海岸沿いへ向かって走ったようだ。玉縄城への街道に入ったとみて間違いないだろう」
「玉縄城? あれでも、静馬さん。いま走ってるのって……方角が違いませんか?」
「ウフフ。静馬様は、あのお犬様が途中で目立たぬよう、こっそりと進路を変えるとお考えなのですよ。私も同意見でございます。あのお犬様はたいそう頭が良いように見受けしました。たんに忠犬というだけでは、高所から落ちた主人の下敷きとなって衝撃を和らげ、さらには背負ったまま人の囲みを突破するなどという芸当はできますまい。おそらく己の身体、主人の身体、様々なことに思いを巡らせ、そのまま海岸沿いを走るということはないと考えます」
煎十郎の問いに笑顔で答えた乙霧に、前で手綱をとる時雨が顔をしかめながら話しかける。
「なるほど。そういうことでございますか。……ところで乙霧殿、あの……少しその……臭うのですが……」
「ああ。申し訳ぼざいません。燃え尽きる前にと、本丸から落ちた八犬士の死体を検分しておりましたもので。おかげで良いものが手に入りました。……一夜の調べでは、かの者達は里見の姫君達の血を引き、いま追っている者程ではないにしろ、整った顔立ちをしていたそうにございます。それがわずか一年にも満たぬ間に化け物へと変じた。『呪言』……実に興味深い。ウフフ」
「ふむ。いったんお喋りはここまでとしようか。乙霧殿、雨が降っているゆえ、少しばかり見にくいが、なにやら前方で光が明滅しておる。一夜からの報せではないのか?」
静馬に言われ、乙霧が時雨の肩越しに前方を確認する。確かに静馬の言う通り、前方の闇の向こうで光が明滅を繰り返していた。
「本当に目ざとい方でございますね。音と光はどんな生き物より早く走る。そのことを頭に叩き込まれている一夜の者でなければ、見落とすような光なのでございますが……」
半ば呆れるように言いながら、乙霧は光から眼を離さない。
「……犬が進路を変えたようにございます。やはり滝山、もしくは八王子……細かなことはまだわかりませんが、小机や海に向かってはいないことは確かなようでございます」
「そうか。そちらの方面は、すでに逆鉾様が網を張り巡らしてくださっているはずだ。犬が潜伏する大まかな場所は、彼らが掴んでくれよう」
「……準備のよろしいことで」
「ハハハ。一夜の貴女にそのように言っていただけるとは光栄だな」
煎十郎と時雨が、静馬と乙霧の狭間の空間に眼をやる。二人の間に、眼に見えぬ火花が散っていたように感じたのだ。ただ、幸いにもと言うべきか、それからは特に会話がなされることもなく、時折見える、一夜からの報せの光に導かれるようにして、遂に四人は逆鉾が率いる風魔衆が、犬を追って森に入ったと思われる場所に到達した。
「……煎十郎、お前は乙霧殿と風魔衆と合流してここで犬を探せ。俺は時雨とここからもう少し川を下った所を探ってみる。足跡が残っていることは犬も承知していよう。わざとここまで残し、川をくだることも考えられるからな」
「え? しかし、乙霧殿は……」
「そうです! 私もここで!」
「逆鉾様には里からも増援を呼ぶよう進言してある。その中には女も含まれていようからな。時雨が残らずともその者たちに任せれば、男どもも不用意に乙霧殿には近づくまい」
異論を唱える煎十郎と時雨に、静馬がぴしゃりと言い放つ。乙霧は口を挟まず、静馬を訝しげに見つめているだけだった。
煎十郎と乙霧が馬から降りると、静馬は名残惜しそうに何度も振り返る時雨をせかし、玉川の下流へと馬を走らせる。
二人はそこからそう遠くない所で川辺へと下りられそうな所を見つけ、馬を降りて街道脇の木に馬を繋いだ。
雨はすでにやんではいたが、辺りは朝もやに包まれ、見通しが悪い。だが、静馬は臆することもなく川辺へと歩く。時雨も黙ってそれに従う。
川は昨夜からの雨で、多少水嵩を増しているようだった。
静馬は川の流れを遡るように、視線をゆっくりと正面の川の流れから上流へと向ける。
「もう少し上流に向かっておくか……時雨、ここより先はお前が先を行け」
「は?」
「俺の前を歩けと言ったのだ」
いつになく強い静馬の口調に、時雨は疑問を抱きながらも不承不承頷いた。
二人は時雨を先頭に、川沿いを上流へと向かって歩きはじめる。
百歩ほど歩いた頃だろうか、静馬が時雨の背中に語りかける。
「時雨、そのまま振り向かずに聞け」
「は、はい」
静馬の様子がおかしいと感じつつも、時雨は静馬の言葉に従う。幼き頃から築かれた信頼関係は、一時の違和感如きでは覆らない。煎十郎も同様だが、それだけ静馬に対する信頼は深い。
「事がここまで及んでは、お前が煎十郎と結ばれる可能性は万が一でしかない」
冷たく言い放たれた言葉に、時雨は思わず振り返りそうになる。
「振り向くな! そのまま進め」
時雨の肩がびくっと震えた。震えがやむと、時雨は恐る恐るといった感じではあったが、また歩み始める。同時に静馬がまた語り始める。
「仮にお前が煎十郎を連れ、風魔の里から逃げたとて、お前たち二人ではすぐに見つかる。お前では煎十郎を頭領から守りきることはできん。頭領は風魔衆の命を全て風魔衆の為に使いきる。そういう方だ」
時雨の首が力なく垂れる。それでも歩みだけは止めなかった。
「お前、煎十郎が一夜に婿に行った後はどうする? 恐らく頭領はお前を嫁にだそうとするだろう。風魔の為にな。大人しく嫁にいくか?」
「行きませぬ!」
即答であった。
「相手が煎十郎殿でないのなら、誰にも嫁ぎませぬ! ……例え相手が兄様でも私は嫁には行きませぬ!」
依然下を向いたままの時雨ではあったが、言葉はこれまでよりも強い意志が込められているように、静馬には聞こえた。
「そうか。俺でも駄目か」
静馬の声はどことなく嬉しそうである。
「……自害いたします。例え誰になんと言われることになろうとも、私が夫と認めるのは、後にも先にも煎十郎殿ただ一人。煎十郎殿の元に嫁げないのなら、私は……この先を生きるつもりはありませぬ。もとより、煎十郎様がいなければ、尽きていた命です!」
雨がやんだというのに、いつの間にか時雨の足先がまた濡れていく。
「……懐かしいな。お前が幼き頃に、原因不明の高熱を出した時だったか。小太郎様も俺も、誰もが諦めた中で、煎十郎だけが諦めず山へと分け入り、寝物語に聞いたような、あやふやな話を頼りに薬草を探し出し、お前に煎じて飲ませた。あの時はまだ、医学を学ぶ前であったのになあ」
静馬のしみじみとした言葉に時雨は頷く。
「はい。忘れはいたしませぬ。あの時より私の命も心も煎十郎様だけのもの。他の誰にも渡しはいたしませぬ」
「……そうか」
静馬が腰に差した刀の柄に手をかける。
「時雨。そこまで覚悟を決めておると言うのなら、もう何も言わぬ。ここで……死ね」
チンという短く冷たい音が響いたかと思うと、水面で魚が跳ねた。