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四十六話 生野の研鑽

 生野は小田原城下近くの森で、独り刀を振るっていた。お礼とお信磨の二人はすでに小田原城下町に潜伏している。先ほどまでは生野の(かたわ)らで稽古を見守っていた八風も、どこにいったものか姿が見えない。生野としては、八風はもともと連れてくるつもりではなかったので、このまま戻らずに自由に生きてもらいたいと思っているが、きっと生野が小田原に出陣する頃には戻って来ることだろう。そういう犬だ。
 生野は精練された動きで、迷いを断ち切るかのように剣を振り続ける。闇雲に振り回しているのではない。研鑽を重ねられた真っ当な剣術である。
 十三年。生野が八犬家の外で、一族を救うための術を手にするために要した年月。
 初代八犬士以来、初めて牡丹の痣を喉に持って産まれた生野は、六歳の時、その小さな肩に一族の将来という重荷を乗せられ、岡本隨縁斎(ずいえんさい)の助力により、八犬家が押し込められた屋敷から一人脱出することとなる。
 八犬家の者が受ける迫害を免れたとはいえ、決して楽な道程ではなかった。隨縁斎の伝手を頼りに京へ向かったものの、一族の財産は没収の憂き目にあい、路銀は隨縁斎から受けたわずかな援助のみ。それもすぐに尽きる。
 京へたどり着くまでも、たどり着いてからも、生き延びるためにはなんでもした。同情を買うための嘘は当然のこと、盗みも強奪も経験した。身を守るためではあったが、十になる前に人殺しも経験する。
 京では体さえ売った。己の美貌を活かし、衆道に傾倒する身分の高い者にその身を委ね、生きる糧を手にいれる。そうやって生活を安定させると同時に、武芸や学問の習得に躍起になった。
 一族を救えと言われても、何をすればよいかなどわからない。送り出した大人たちも具体的にどうすれば一族が救われるかなど、わかってはいなかったのだ。どんなに知恵が働いたとしても所詮は子供。当時の生野にわかるはずもない。ただひたすらに自己の成長が感じられることに取り組むしかなかった。その身と心を日々削りながら。
 もしもそのまま月日が過ぎていれば、生野は能力だけに優れた荒んだ若者になっていたかしれない。一族のもとには戻らず、自分の為だけに生きていたかもしれない。
 だが、そうはならなかった。二人の人物に巡り会えたおかげで。
 一人は行商人の男。その頃の生野が世話になっていた家に、その行商人が商品を売りつけに来たことが、出会うきっかけであった。子供でありながら大人顔負けの美貌であった生野が見ても、行商人をやらせておくにはもったいないほどの魅力にあふれた男だった。
 その商人は、南蛮の商人から仕入れたという珍しい商品の数々でその家の主人に、女性を魅了する美貌で奥方にそれぞれ取り入り、しばらくの間その家に逗留することとなる。
 主人と奥方の両方の夜の相手を務めていた生野は、昼間は主人に許された剣の稽古を庭で行っていた。そこに行商人が声をかけてきたのだ。
 初めは稽古の邪魔だと無視していた生野だったが、全国を旅してきたという行商人の話の内容と巧みな話術に、次第に興味をひかれる。決定的だったのが、八犬士の話を行商人が始めたことだ。
 生野が幼少の頃に八犬家で聞かされた初代の話は、もっぱら里見家に仕えたあとの話。里見の臣下として活躍し、主君に褒め称えられた過去の栄光を取り戻し、子孫に何としてでも良き将来を送れるようにするのだというのが、年寄りたちの定番の話だった。
 だが行商人が話して聞かせてくれたのは、八犬士が里見家に仕える前の、子供の胸を躍らせる冒険譚。
 行商人は生野が八犬士の話に喰いついたと見るや、現状の八犬家の状況を、外側からの視点で教えてくれた。
 そこで生野は初めて八犬家の窮状を、本当の意味で知ることになる。それまでは、自分を母から引き離すような使命を課した八犬家を恨んでいた。自己の研鑽も、もう一度母に会いたいがためにやっていたようなものである。
 行商人は生野が八犬家(ゆかり)の者であるとは知らぬまま、いまの八犬家を救うには、初代の神通力を復活させるしかないと熱く語る。
 この日から生野は、八犬家を救うにはどうすればよいかを、本気で考え始めた。自分を磨くだけでは八犬家を救えない。行商人の言葉通り、初代の力を甦らせたとして、それをどう扱えばよいのか。生野の本当の苦悩は深まるばかり。
 もう一つの出会いは、本気で悩み続ける日々を過ごしていたある日に起きた。
 奥方の使いで外に出かけた時、一人のひ弱そうな少年が、武士の身分と見受けられる数人の少年に取り囲まれ、暴力を振るわれる場面に出くわす。
 生野は八犬家を救う手段を思いつかない憂さを晴らすように、圧倒的な力の差で武士の子息達を叩きのめし、結果ひ弱な少年を助けることとなる。
 助けた時には思いもよらなかった。
 少年の境遇が自分に似ていることなど。
 その少年が、生野の人生で唯一の友となり、共に府内へと旅立つことになるなどと。

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