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四十七話 犬から賢へ

 生野は振るっていた刀をとめた。鞘には納めず耳に神経を集中させる。
 八風らしき声が聞こえたのだ。ただその傍らに、人の声も聞こえた気がする。お礼とお信磨ではない。彼女たちはすでに小田原城下町に潜んでいる筈だ。
 生野は木陰に身を隠し、様子を窺う。
 八風に伴われて歩いてきた人物を見て、生野は驚き身を乗り出した。
 農民の子供姿に身をやつしてはいたが、この顔を見間違えるはずがない。この場に来れるはずのない生野とお信磨の弟だったのである。犬坂家の家督を継がせた異父弟犬坂蓮野(はすの)智則(とものり)。犬坂家四代目にあたる母の三番目の子である。
 八犬家に支給される食料は決して多くない。いたずらに子を増やすわけにはいかず、多くても二人を産む程度であった。監禁状態にあるから婿や嫁を外から迎えることもできず、男の数の方が多かったため一人の女が複数の家の子を産むこともあった。 
 生野の母は生野を産んだ後、他の女との間に後継ぎを得ていた犬飼家の四代目の子種を貰い受け、お信磨を産む。その後、八犬家の若い娘を守るために自らを犠牲にしていた母は、望まぬながら、八犬家の監視役を務めていた足軽の子を宿してしまうことになる。それがこの蓮野だ。
 生野やお信磨とは違い、外見は母に似なかったが、素直な性格で、生野自身の呪いの力を得るための手術を、生野の指示に従って手伝ったのはこの弟である。


「ああ、兄上。お会いできてよかった。八風が私を見つけてくれたのです」


 八風の頭を撫でていた蓮野が、喜びの声をあげて生野に駆け寄る。
 再会を喜ぶ弟に対し、生野はなぜここにいるのかを眼で問うた。


「実は兄上にお伝えしなければならぬ大事なことができましたゆえ、殿のお許しを得てすぐに海を渡り、ここまで来た次第でございます」


 殿の許し? 
 生野は思いがけない弟の言葉に眉をひそめた。


「まず、三船山での北条との戦に、殿は見事に勝利なされました。北条の軍勢は潰走。氏政こそ撃ちもらしたものの、太田氏資(うじすけ)らを討ち取る戦果をあげられたのです」


 喜びが見えた生野に、蓮野はさらに言葉を続ける。


「喜ばれるのはここからにございます。八犬家を代表して私が隨縁斎殿とまだ陣中におられました殿に呼ばれ、お言葉を頂戴いたしました。北条の後方撹乱及び物資の奪取。わずか八人でここまでの戦果、まことに見事であったと」


 少なからず生野は驚いていた。物資に関してはわかる。安兵衛が敵に討ち取られたのは物資を無事に里見の陣に届けたあとだということだろう。しかし、後方撹乱とは? 別働隊の撃破を安兵衛が報告していたとしても、あれは後方撹乱と呼べる程のものではない。狂節の虫の『呪言』が一時的に北条に届いたのは安兵衛が出発した後。それも撹乱が成功したとはお世辞にもいえないし、氏政の軍勢にはなんら影響を及ぼしていない。話が大きくなっている気がする。まるで誰かが、操作した情報を義弘に与えたような……隨縁斎であろうか?
 生野が疑問を抱いていることには気づかず、興奮する蓮野は言葉を続ける。


「大事なのはここからです。よくお聞きくだされ。殿は今回の功を認め、我らのいまの一所に押し込められている現状を改善してくださるとお約束してくださいました。……ただし、これには一つ条件がございまして」


 ここで蓮野の顔に、若干陰が差した。


「殿はこう申されました。我ら八犬家に『犬』の名を捨てよと。代わりに『賢』の字を授けると。犬坂は賢坂(かたさか)、犬塚は賢塚(かたつか)というように『犬』を『賢』に置き換え、八犬士として敵に牙を剥くのではなく、八賢士として里見家を内から支えるようにと。
 殿に返答を求められましたゆえ、独断ながらこの話ありがたく承りました。我らの孫子のためとあれば、家名を変えることなどたいしたことではないと考えます。これより家に戻り、他の八犬家にこのことを伝え説得する所存にございます」


 そこまで言いきると、蓮野はがばっと地面にひれ伏した。


「兄上! どうか家にお戻りください! ここに他の八犬家の姿が見ないということは、ほとんどの者が死に、最後の呪いのための準備を終えたのだとは思います。ですが、すでに我らの悲願は達せられました。ここで命を無駄にせず、どうか我ら生まれ変わる八賢家をお導き下さいますよう伏してお願い申し上げます。八賢士として生きるためには、兄上の智が必要なのでございます」


 生野は額を地に押しつける蓮野の肩に手を置いた。
 顔をあげた蓮野の目を正面から見据え、はっきりと首を横に振る。


「兄上!」


 立ちあがれぬ蓮野をそのままに、生野は小田原城下へと向かって歩き出した。八風がそれに続く。蓮野がもう一度兄上と叫んだが、生野は振り返らなかった。
 蓮野より伝えられた言葉は、あまりにも八犬家に都合が良すぎる。だが、蓮野が八犬家の敷地を出て、海を越えることは、隨縁斎の助力だけでは無理がある。義弘の許可を得たという話は信じるに足る。
 それならば、思い残すことはない。もとより命を捨てる覚悟。家名が代わることなど何ほどのものだろう。家名が変わった後の未来は、未来がある者が築き上げていけば良い。
 自分のやるべきことは変わらない。未来ある者のための礎となるべくこの命を使うのみ。最後の八犬士となる仲間たちのうち、すでに五人がお家のための人柱となり、可愛い異父妹と愛しき恋人も、今宵命を散らそうとしている。自分もそれに殉じるのみ。
 残された時間を『賢』として生きるつもりはない。残った命のすべてで最後の『犬』として牙を剥く。
 そもそも一族の多くを死に追いやった自分に、『賢』などという字は似合わないであろう。
 生野は、最後まで供をしようと傍らを歩く八風の頭を撫でながら、歩みを速めた。

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