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三十六話 風魔の罠

 小田原守備兵への牽制攻撃から一刻あまり。太助と萩に率いられた野生馬の群れは、小田原の北西にある谷あいを走っていた。
 これまでよりもゆっくりと、休憩すら挟みながら、気づかれないように徐々に小田原から離れていく。軍馬のほとんどを氏政の軍に用いた北条軍でも、太助の後を追えるようにゆっくりと……。
 北条軍としては、守備兵を殺害しながらも堂々と姿をさらしている太助を放っておく訳にはいかない。領民の畑を荒らし、兵を殺した男をのさばらしては、民に軽んじられる。北条家の威信をかけて、足軽を中心とした小隊が、懸命に太助の後を追う。先導するのは風魔衆。どんな扱いを受けようとも、彼らには北条に組していく以外に生きていく道はない。
 ただ、太助の連射砲の威力を恐れてだろうか。追手はかなり腰が引けていた。追いつくかと思えば、太助の射程外から様子を窺うばかり。待ち伏せも何度かあったが、届くとは思えない遠距離から弓を射ってくるだけ。萩達が走る方向を変えればそれっきりで、まともに戦おうとする意志を感じなかった。
 結局、追ってはきても接触までにはいたらない。両者はそんな距離感を保つ。
 太助にとっては願ってもない展開である。小田原から離れていっている為、この先は待ち伏せもないだろう。そもそも、いま走っているような狭い道で、連射砲を持つ太助の正面に立つ者がいるとは思えない。格好の的になるだけである。
 しかし、人が立ちはだからなくとも邪魔はできるようだ。
 思わず太助は鼻をならす。前方が、土砂やら丸太やらで、完全に塞がれているのが見えたからだ。明らかに自然のものではない。人の手によるものだ。


「無駄なことを……」


 進路が読まれていたことに多少驚きはしたが、所詮は急ごしらえ。太助の『呪言』をもってすれば、簡単に吹き飛ばせる代物であろう。
 太助は群れを止まらせはせず、ゆったりとした速度で走らせたまま、連射砲の準備をする。腹の水分の残り具合からいっても、まだ何度かは打てる。最後には北条兵を道連れに華々しく散ってやろう。萩ならばひとりでも充分に……いやひとりの方が楽に北条から逃げおおせるに違いない。


「俺の『呪言』の前ではこの程度、紙切れ同然と知れ! 我、義を貫く為、我が命をもって()となさん!」


 反動により照準がずれぬよう、陰茎の外側に取り付けられた、ずしりと重い鉄枠の銃砲身の先端から繰り出される水の連弾は、狙い(あやま)たず、土と丸太の壁に命中し、激しい音をたてて、馬数頭なら充分に並んで通り抜けられる道を造りだす。
 太助を乗せた萩は、その音にも、粉々になった木片が大地に降りそそぐ光景にもひるむことなく歩みを進める。萩の後ろを走る馬群の中には、驚いていきりたってしまう馬もいたが、そのほとんどは、先頭を力強く走る萩にしっかりとついていく。
 連射砲を撃ち終えた太助は、萩が生み出す心地よい揺れに身を任せる。
 だが、そんな至福の時間は長続きしなかった。
 造り上げた道を通ろうとその手前まで来た時、萩の体が大きく揺れた。萩はその場で転倒し、太助は萩の背中から投げ出される。
 太助は受け身を取る間もなく地面に叩きつけられたが、幸いにも地面が柔らかい泥であったため、大きな怪我をすることはなかった。
 太助の体を包んだ泥は、普通の茶色い泥ではない。白く濁った泥だ。しかもやたらと粘り気がある。萩はこれに足を取られ転倒したのだ。萩のすぐ後ろを走っていた馬も数頭同じように足を取られ転倒し、粘り気のある泥の中で、上手く体勢を立て直すことができずにもがいている。ゆっくりと走っていたので、後続は立ち止まることができ、倒れた萩たちを踏み通るという最悪の事態には発展せずにすんだ。


「いま助けるぞ、萩」


 もがく萩の隣で、泥に埋まっていた太助は、細くなってしまった四肢の力で立ち上がるのを早々に諦め、銃砲身を取り付けた陰茎に力をこめた。四肢から筋肉を移植された陰茎が、泥を跳ね飛ばして持ち上がり、次の瞬間には、激しく泥を打ちつけ、その反動で太助の体が起き上がる。


「よし。萩よ、もう少しの辛抱だ」


 太助がもがいている萩の方へ向かおうとした時、上から降ってきた何かが泥に突き刺さった。
 火矢だ。太助たちを捕えた泥の表面に火が走る。瞬時に泥沼が炎の沼へと姿を変え、萩や他の倒れている馬たちから悲鳴があがる。泥の表面に油が撒かれていたようだ。体に付着した泥の一部にも火が燃え移る。
 頼もしき群れの頭が倒れ、さらに目の前に火が広がったことで、泥には落ちなかった馬たちの間に混乱が沸き起こった。これまでの統率のとれていた行動が嘘のように、進んできた道をばらばらに逃げ戻っていく。


「くそっ。萩、無事か!」


 太助は己が炎に焼かれることは気にもとめず、萩の元へと歩み寄ろうとするが、泥がさっきよりも重さを増しているようで、足がほんの少ししか動いてくれない。よく見れば、あれほど激しくもがいていた馬たちも動きが弱まり、黙って火に焼かれようとしている。泥からでている部分は動いているので生きてはいるようだが、泥に埋もれてしまった箇所がほとんど動かせていないようだった。


「よし。もう満足に身動きがとれんぞ。矢を放て」


 道を挟む崖の上から声が聞こえる。
 風魔衆だ。太助は理解した。風魔衆がこの姑息な罠を仕掛けたのだ。太助の意識を、築きあげた壁に向くように仕向け、実はその手前に用意されていたこの泥こそが本物の罠。泥を壁の手前に仕掛けたのは、土壁もろとも吹き飛ばされたり、吹き飛ばした壁で泥が埋まるのを避けたのだろう。
 悔しがったり、罵ったりする暇はない。風魔たちは弓に矢をつがえている。これでは火に焼かれるまでもなく、萩が奴等に殺されてしまう。
 太助は急いで上体を大きくのけぞらし、渾身の力で銃砲身を天へと向ける。


「我、義を貫く為、我が命をもって是となさん!」


 二つの半珠が太助の思いに応え、強く強く輝く。


「射よ」


 大将らしき男の号令が響き、風魔衆が矢を放つ。太助は頭上から降りそそぐ矢に銃砲身を向け……撃った。水の連弾は一塊となり、水竜のごとく、降り注ぐ矢を噛み砕きながら天へと昇る。
 風魔衆は二射目を射るのも忘れ。龍の後ろ姿を見送る。
 その龍の動きがぴたりと止まったかと思うと、龍の尾が口へと変わり、その牙を大地へとむけた。


「ひっ!」


 天に打ちあがった時に勝るとも劣らない勢いで落下する水の塊に度肝を抜かれ、風魔衆が弓を取り落し、その場にへたり込む。


「萩! 歯を食いしばれ」


 太助は萩に向けてそう叫ぶと、頭を両腕で抱え、体を丸めて衝撃に備えた。
 水竜の口が、太助たちごと大地に食らいつき、弾け飛ぶ。
 体がばらばらになるのではないかと思うほどの衝撃が太助を襲う。地面に落ちた時の衝撃など比べものにならない。鉄の塊で殴られたかのようだ。衝撃は一瞬であったのに、意識をもっていかれそうになる。しかし、萩への想いが、太助の意識を現実に踏みとどまらせる。
 太助はゆっくりと顔をあげた。節々が痛むが、少なくとも火は消えていた。表層に撒かれていた油は、水に弾き飛ばされて霧散したのであろう。


「……萩、生きておるか」


 太助の呼びかけに、萩がか細い声ながらも応える。


「おう、さすがは萩じゃ。よう耐えた。あとはこの泥から抜け出せば……」


 言いながら足元をみて、太助はぎょっとした。
 すでにそれは泥ではなかったのだ。土とすら呼べない。岩と呼ぶのがもっとも近い。
 その岩から自分は土筆のように生え、横たわる萩は苔のように岩の表面を覆っているかのようだった。

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