二十一話 狂節対風魔
あれから三十年。義堯が課した八犬家への罰は一族全員の監禁生活。死罪にしなかったのは、八犬士についてまわる、『呪い』を恐れてのものであろう。三代目たちは、この理不尽とも言える刑罰に対し、耐えるという選択肢を選ぶ。義堯の言ったことはあながち間違ってもいないと感じてしまったが故に……。 ただ、そのせいで罪のない家族には苦労を強いてしまった。
本来なら、今の立場から脱却するのは、三代目の力で成し遂げたかったが、義堯の八犬家への怒り……いや恐怖は彼らの想像以上に根深く、家督を義弘に譲った今も監視の目が緩まない。
もしかしたら、義堯が死ねば八犬家が解放される時がくるのかもしれない。だが、義堯の恐怖は死してなお呪いとして残る。かつて死してなお里見家に呪いを残した玉梓のように。
呪いの力が恐るべきものであることを、八犬家は初代より語り継ぎ、嫌という程知っている。呪いは黙って待っていても消えてはくれない。己の力で打ち破るほかないのだ。
一族の期待を背負い、一年半ほど前に八犬家へと帰還した生野が持ち帰りし力『呪言』。この力に、今日まで耐えきれた三代目は狂節一人のみ。他の八犬家は四代目すらも耐えきれず、一族の未来はまだ若き五代目に託された。犬山家の狂節だけが息子と孫のどちらも死なせぬ可能性を残せたことを考えると、狂節は他の三代目たちに申し訳なさを禁じ得ない。なによりも共に海を渡った、本来であれば未来があったはずの五代目達のことを思うと、胸が締め付けられる。
小田原へと続く街道を、杖をつきつつ進んでいた狂節は物思いを中断した。彼の鋭敏な耳が、不自然な音を捉える。
息を殺した呼吸音、風が揺らすのとは違うわずかに木立の揺れる音。
上だ。街道の脇の木の上に誰かいる。必死に気配を隠そうとしているが、胸の底にたまった怒りの感情が、殺気となってにじみでている。
「風魔か」
狂節が呟くと、はっきりと木立が揺れる。
「見つけたぞ。その風体。昨日、里を襲いやがった八犬士の一人だな」
少年の声だ。まだ声変りも済ませていない甲高い声。
「いかにも、わしは八犬士が一人、犬山狂節。お主のような子供がでてくるとは、風魔も人手不足か……」
狂節の言葉に、風魔の少年は木立を激しく揺らす。
「うるさい。餓鬼扱いするな。俺は昨日お前らを探し回っていて里にいなかったんだ。俺がいればお前らなんかに好きにさせたものか」
風魔の少年が刀を抜く。
「わしは小田原の城下に用がある。邪魔するというならば、子供でも容赦はできぬ」
風魔の襲撃は小太郎不在の為、全員が同行はしていたが、生野が小太郎屋敷を焼き払うに留めた。別に戦闘員よりも非戦闘員の多かった風魔に情けをかけた訳ではない。八犬士の命には限りがある。『呪言』の力は彼らに人知を超える力をもたらしたが、その力が身体に与える負担は大きい。小田原攻めの前に無駄遣いはできなかったのである。
「黙れ。偉そうなことを言うな」
風魔の少年が、身軽にも木から飛び降り、姿勢を崩すこともなく着地すると、一気に距離を詰め、狂節に斬りかかる。
狂節は少年のそんな見事な動きに慌てることなく、無造作に杖を横に振るった。
「いたっ」
狂節の杖が少年の手をしたたかに打つ。少年は刀を取り落し、足も止まる。
対して狂節の杖は止まることなく少年の喉をついた。たまらず、少年がのどを抑えて倒れると、狂節はすかさず少年の後頭部に杖を振るおうとしたが、その動きを途中でとめ、杖を顔の前にかざした。
カッカッカッ。乾いた音がして狂節の杖に八方手裏剣が三つ刺さった。
狂節が大きく飛び退くと、先程まで狂節が立っていた場所を八方手裏剣が通過していく。
「馬鹿が。我らを待てと言っておいたではないか。……よいか二人とも、そやつを目の見えぬじじいと侮るな。八犬士といえば、かつて里見の安房の統一に貢献した剛の者達。現にそ奴らは一昨日に北条の軍勢を退け、昨日は我らの里で好き放題に暴れたのだ」
「承知いたしました。目の見えぬじじいということは、こやつですね。虫を使って病を振りまいているかもしれぬというのは」
「そうか、こいつか……。準備します」
三人の新手の声を聞き狂節は思案する。一人は壮年の声。残りの二人は若い。歳は倒れている少年の少し上ぐらいか……。若者の一人はこう言った。『虫を使って病を振りまいている』と。狂節が『呪言』の力を用いたのは一昨日の一度きり。昨日は寄って来た風魔衆を今さっきのように杖で打ち据えただけである。一昨日の生き残りの武者があの夜のことを伝えたとしても、あの一度きりで自分の『呪言』の仕組みを理解できたと言うのか。
(……敵に生野に匹敵する知恵者がいるか。ありえん話ではないが……)
まぁいいと狂節は開き直る。仕組みがわかったところでそうそう対応などできるものではない。狂節が右眼の眼窩に住まわせている病を媒介させる蚊の数は三匹。いっぺんに殺すのは難しかろうし、仮に手でつぶせばそれが病の伝達となる。自分が死んでも病は残る。狂節自身の役目は小田原を攻めることではなく、小田原に混乱をひき起こすことであるからなんの問題もない。それに……。
狂節がにんまりと笑う。
(わしが死ねば、わしは確実に小田原にたどり着く)
「我、貫く忠は、我が命より発す」
瞼の下の半珠が輝きだすと同時に狂節は右目を開ける。『発』の文字を浮かびあがらせた半珠が静かに地面に落ち、夜道を照らす。
ぷ~ん、ぷ~ん、ぷ~ん。
狂節にとっては聞きなれた羽虫の羽音が、新手の風魔衆へと向かっていく。
ふと、狂節の鼻が嗅ぎなれない匂いを嗅ぎつけた。何かが燃える臭いに混じって、気持ちを和らげる香のような匂いがする。
狂節が匂いに気をとられたのもつかの間、耳が異変を感じ取った。蚊の羽音が聞こえなくなったのだ。嫌な予感が脳裏をかすめ、狂節は落ちた『発』の半珠をすぐさま拾い上げ、右の眼窩の前で振るう。
おかしいと狂節が唸る。本来ならこれで戻ってくるはずの蚊が戻ってこない。何度も試すが羽音すら聞こえない。
狂節の様子を見ていた壮年の風魔衆が高笑いする。
「ふはははは、驚いたか。きさまの術など我ら風魔にかかれば他愛もない。お主が一昨日小田原にまいた病も、すでに治まっておるぞ」
狂節の半珠を振る手がとまった。いま聞かされたことは、狂節にとっては予想外である。お礼の姿を消す『呪言』も乱発はできないので、小田原城下の様子は確認ができていないが、病が広がっていることを狂節は確信していた。それほど狂節の生野に対する信頼は強い。
風魔衆の言葉の意味を考えるに、一度は拡まったことは間違いない。狂節の『呪言』によって強化された病は、時間とともに消えるものではない。生物がいる限り、拡がっていくものだと生野から説明を受けている。
つまり、誰かが対処したのだ。対処したとなれば医者ではあろうが、並の医者では自身も感染し、自らが感染経路の一つになるのが関の山であるはずなのに……。さらには夜の帳の中で小さな羽虫を殺すことにも、彼らは成功したらしい。
三人の風魔衆が狂節を囲み、三方向から間合いをつめてくる。狂節は彼らの足音が近づいてくるのを、立ち尽くしたまま黙って聞いていた。
抵抗をまったくみせない狂節の体に、三本の刃が深々と刺さる。狂節の手から『発』の半珠がポロリと零れる。
「見事なり、風魔。……だが、まだ終わらぬぞ」
狂節が左目の瞼をあげる。三人の風魔の目が、現れた『忠』の半珠に釘づけになった。
「我、貫く忠は、我が命より発す」
『呪言』の重ねがけ。『忠』の半珠の輝きがさらに増す。
狂節の右眼に
「死してなお恐ろしい、八犬士の牙を受けるがよい」
左眼から『忠』の半珠が抜け落ち、両眼を失った狂節の首が、がくりと傾いた。