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「……はい」
「そうですか」
嬉しいのか悲しいのかもわからない感情がこもっていない声に、この人は私の恋人の存在をどうでもいいと思っていると感じた。
「やはりあのとき見かけた方が恋人ですか」
「見かけた?」
「実弥さんと一緒に車に乗っているところを見かけた事があります」
シバケンが父に挨拶しに来たときだろう。あのとき歩道で見かけた坂崎さんの視線を感じたことがあった。やはり見られていたのだ。
「私は恋人との結婚を考えています。だから坂崎さんとは結婚できません」
譲れない意思だけははっきりと伝えた。そうして「すみません」と最後に謝った。きっかけは父であれ坂崎さんは私と結婚したいと思ってくれたのだ。その気持ちに応えられなくて申し訳なく思う。
「できませんよ、実弥さんには」
「え?」
「あなたは黒井専務……お父さんの決めたことには逆らえない」
坂崎さんは変わらず笑みを浮かべている。
「お父さんが僕と結婚をと決めたのなら、実弥さんは抵抗しても最後にはそれに従うんです」
「そんなこと……」
「そんなことないと言い切れますか? 今までずっとそうだったのに?」
責められているかのように感じたけれど坂崎さんの顔は面白がっている。
この人が怖い。私のことを見透かしているかのような顔も言葉も全てが怖い。恐怖心をはっきり自覚した。無意識に坂崎さんから離れようと腰を浮かせたそのとき、坂崎さんの手が私の腕を掴んだ。体がびくりと震えた。
「マンションを買うよりは戸建てがいいですね。子供は二人。実弥さんには仕事を辞めて専業主婦になってもらいたいです」
坂崎さんの理想の結婚生活はシバケンが語ってくれたものと似ているようで全然違う。シバケンの理想の中心には私がいた。けれど坂崎さんの理想の生活に私の意思は存在しない。反論も意見も受け入れない傲慢さが口調から滲み出る。
「僕に従ってついてきてくれれば幸せになれます」
自信に満ち溢れた言葉と表情は私を支配する気満々だ。まるで父のように。
「今更お父さんに逆らえますか? 難しいでしょうね」
そう言ってバカにするように私に顔を近づけた。
家を建てる場所も間取りも、彼だけが決めかねない。子供が生まれたら、名前もしつけも進学先さえも自分の思い通りに指示しそうだ。
坂崎さんと結婚したら永遠に私の心は押しつぶされ続ける。そんな未来を想像してしまったとき、掴まれた腕を振りほどこうともがいた。けれど腕が自由になることはない。
「放して!」
「僕は本気です。専務に言われたからじゃない。自分であなたを選ぶんです」
鳥肌が立った。恐らく本当に私を結婚相手として考えてくれたのだろう。けれどそれは愛情や父への義理からではない。私が坂崎さんの言うことに逆らわないと思ったからだ。ついてきてくれる女性であれば誰でもいい。この人は自分のことを一番に考えている。結婚相手の性格や考え方は関係ない。私と結婚すればオマケとして会社で父の後ろ盾ができるし、自分に従ってくれる人形であれば誰と結婚しようと構わないのだ。
「私は嫌です!」
大声を出した。近所迷惑だろうと関係ない。家の中まで聞こえて父も母もこの人の本性がわかってしまえばいいと思った。
「もう無理ですよ。僕についてくればいいんです。あなたは僕にだって逆らえない」
坂崎さんが私の腕を引き、顔をより一層近づけた。強引にキスをされると察した瞬間、力いっぱい腕を振り払い坂崎さんから離れた。
「誰があなたなんかと!」
立ち上がり玄関に走った。家の中に逃げ込もうとドアを開けると目の前に父が立っていた。
「どうしたんだ、大きな声を出して」
「お父さん……」
坂崎さんに強引に迫られたと訴えようとしたとき、
「今夜は坂崎君に泊まってもらうことにした」
と父はまるで死刑宣告のような言葉を発した。
「え……」
「終電がなくなるまで引き止めてしまったのはお父さんが悪いからな。坂崎君に客間で寝てもらうことにするよ」
父は全く悪びれた様子がない。終電を逃す時間までわざと引き止めたかのようだ。思わずウッドデッキを見ると、坂崎さんは勝ち誇ったような笑みを浮かべて2本目のタバコに火をつけた。
「だめ……」
「どうした?」
「だめ!」
私は道路に出て走った。
「実弥!?」
父の驚いた声が背中に向けられたけれど振り返らない。今夜は家にだって居場所がない。戻ることはできなかった。坂崎さんと同じ家の中で過ごすことなんて絶対に嫌だ。
シバケンに会いたい。助けてもらいたい。ただその一心だった。
家出をした大学時代を思い出す。勝手に就職先を決められ反抗したからだ。あの時は父に屈してしまったけれど今は私ももう子供じゃないのだ。
大通りに出てタクシーを拾った。運転手に行き先を告げると、後部座席で震える手を反対の手で押さえ込んだ。坂崎さんに掴まれた部分はまだわずかな違和感がある。
シバケンからもあんな風に強引に迫られたことがあった。あのときも驚いて悲しかったけれど、今度は坂崎さんに対する嫌悪もプラスされてより混乱している。
シバケンは酔って気が大きくなったせいもあった。けれど坂崎さんは明らかに悪意がある。あんな人とは死んでも結婚なんてできない。暴行です、と訴えることができるのではと思えるほどに掴まれた腕が痛かったのだ。
タクシーの窓に雨が当たり、風で弾かれるのが目に入った。気がつけばフロントガラスに雨が打ちつけられ、ワイパーが左右に振れた。傘が必要なほどに降ってきたようだ。
困ったな。傘なんてないし、シバケンのアパートの目の前まで行ってもらわなきゃ。
コートのポケットに入れた財布の中を見ると千円札が2枚と小銭しか入っていなかった。幸いクレジットカードは入っているからそれで支払うしかない。どんどんメーターが加算されていく。痛い出費だ。
ドアノブにかけてきたままのコピー用紙も気になった。ビニールに入っているから大丈夫だとは思うけれど、誰か家の中に入れておいてくれたら助かるのにとぼんやり思った。
シバケン起きてるかな?
『そっちに行ってもいい?』とLINEを送ると既読にはならない。きっと寝ているのだ。
アパートの前に着いてタクシーを降りると階段を駆け上がった。恐る恐るチャイムを鳴らしても部屋に人がいる気配がない。もう一度押しても小窓から明かりすら漏れてこないから外出しているようだ。
ドアを背にして廊下に座り込んだ。仕方がないから今晩はここにいよう。雨も降っているし、真夜中に出歩くよりは寒いけれどここにいた方が安全だ。
どれくらい待っただろう。膝に顔を埋めて目を閉じ仮眠をとっていたからここに居る時間がわからない。スマートフォンの画面を見るとバッテリーが残り15パーセントを切っていた。
するとアパートの階段を誰かが上ってくる足音がして立ち上がった。シバケンが帰ってきたのかもしれない。けれど他の住人や万が一怪しい人だったら嫌だなと身構えた。
階段下から一歩ずつ頭が見えてきて、廊下の暗い照明で照らされた顔はシバケンだった。
「あれ?」
廊下で立つ私を見ると驚いた声を出した。
「何してんの?」
「ごめん、LINEしたんだけど……」
「あー……全然見てなかった」
疲れているのかゆったり落ち着いたシバケンの声に安心して目が潤んできた。やっと会えた嬉しさも加味される。私の目の前に立ったシバケンは顔が緩み、ぎゅうっと私を抱きしめる。
「ふー……実弥に会うと安心する」
「お疲れ様です」
シバケンは頬をぐりぐりと私の頭に擦り付ける。
「かなり待った? ごめんね」
「ううん……いいの」
勝手に来た私がいけないのだ。シバケンは私から体を離して部屋の鍵を開けた。
「どうぞ」
シバケンの部屋に入るとこの間来た時よりも部屋は片付いている。
「いつでも実弥が来てもいいように片づけたんだ」
その言葉に私は微笑む。いつでも来てもいいってことなんだと嬉しくなる。
シバケンは冷蔵庫からペットボトルのミネラルウォーターをコップに入れずにそのまま飲んだ。
「座って。実弥も何か飲む?」
「ううん……お構いなく」
ペットボトルを持ったままシバケンは私の横に座りまた一口飲むとローテーブルに置いた。
「何かあった?」
そう質問すると私の髪の毛に触れた。毛先をくるくると人差し指に絡めている。そのまま私の頬を滑らせるように撫で、更には頭を撫でた。
「こんな時間に来るってことは、また家で何かあったんだ?」
「うん……」