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三話 いざ、出陣

「おう。こちらから仕掛けるか。そうこなくてはな。萩がこやつらを集めてくれた甲斐がないというものよ」


 不敵に笑う太助が、後方の闇に目を向けながら、愛馬の体をポンポンと叩いては優しくさする。
 その闇は八犬士がいる所よりさらに深く、視認することは出来ないが、たくさんの息遣いが闇の中にあった。
 生野が八風を促がし、前方に歩き出す。他の五犬士があわせて動き出すが、まったく動かぬ者が二人いる。


「生野、暫し待て」


 それに気がついた犬田小三治が、生野を大声で呼び止める。明らかに顔の形がおかしい男だ。丸刈りの頭はともかく、鼻から下、ようするに口が異様に大きいのだ。頬の両端は肩幅近くまで達し、口も頬の両端ぎりぎりまで裂けている。
 その小三治が、動かない二人の内、ぼーっと空を見上げる、大木の如き両腕を持つ犬塚吉乃の後ろに回り込み、その尻をおもいきり蹴り上げた。
 それでも吉乃は反応することなく、ぼーっと空を見上げ続けている。


「吉乃! しっかりしやがれ!」


 怒鳴りつけながらもう一度蹴ると、ようやく吉乃の首が動いた。


「んあ。ど、どうじた?」

「動くぞ。安兵衛の荷車を引いて生野についていくんだ」

「お、おう。わがっだ」


 吉乃は先程までの呆けた様子とはうって変わって、きびきびとした動作で、安兵衛が乗せられた荷車に駆け寄る。


「すまんな、吉乃」

「い、いいで、いいで。がるい、がるい」


 人懐っこい笑みを浮かべて荷車を引く吉乃の背中に、石臼を抱えた安兵衛は頭を下げる。下げながら視線は伸ばした自身の足に注がれる。安兵衛の両足は生身ではない。明らかに鉄。見ただけでも感じる重量感は、その足が飾りであることを主張しているかのようだ。事実両足は伸ばされたまま動かず、安兵衛は荷車の上に座り、鉄の太ももに置いた石臼を抱きしめるのみだ。
 吉乃が安兵衛の乗った荷車を引き始めたのを確認した生野は、再び歩き始める。残る七犬士が生野に続いたところで、太助の愛馬である萩が短くいなないた。
 八犬士の背後の闇が揺れる。夜の帳の中で、ひっそりと息を潜めていた集団が動きだす。
 馬の群れだ。馬具をつけていないところをみると野生馬の群れであろう。少なく見積もっても百頭近くはいる。その群れが萩の号令に従い八犬士の後ろに続く。
 牙持たぬ獣の群れは、それほどゆかぬうちに彼らの今宵の獲物を視認した。
 北条の軍勢が、彼らには気づかず行軍してくる。相手は武具という名の強力な牙をもつ集団。
 普通に考えれば、八人と一匹と百頭程度の野生馬ごときでどうにかできる相手ではない。彼らがこの軍勢の脅威を里見家からそらすためには、ここから少し離れた海岸線に集められた、軍勢を渡海させるための船を焼き払う方が、はるかに現実的である。
 だが彼らはそうはしない。する訳にはいかない。彼らの望みは、間接的に里見家の勝利に貢献することではない。判断する者によっていくらでも価値を変える様な脆弱(ぜいじゃく)な手柄では足りない。
 誰の目にも明らかで、異論の挟みようのない武勲が彼らは欲しい。一族を現在の苦境から救う確実な一手が。生野が、わずか八人で小田原城を攻略するなどという夢物語を、義弘に対して堂々と口にしたのはその為だ。

 八犬士。

 今では里見家の者でさえ知る者が少なくなったが、安房(あわ)里見氏の二代目里見成義(なりよし)のもとに集い、神がかり的な活躍で、成義の安房支配の盤石化に一役買い、関東中にその名をとどろかせた剛の者たちである。
 生野たちは三代目の狂節を除き、五代目の八犬士にあたるが、初代たちが築いた栄光は、すでに彼らの元にはない。
 生野こそ羽織袴に小袖、腰に打刀を帯び、草履を履いていたが、他の七人は服と呼ぶにはあまりにお粗末なぼろ布に裸足と、とても武家とは思えぬ無残な出で立ちである。
 この姿が、八犬士の血をひく今の八犬家の現状だった。里見家の中で、彼らは武家でありながら、農民や商人たちよりさらに下、最下層の者として扱われている。罪人であるがゆえに……。
 狭い土地に、一軒の屋敷。八犬家に連なる者すべてがそこに押し込められて共同生活を強いられ、敷地の外に出ることを禁じられた。許されているのは、敷地内で生きること。そして、新たに虐げられる者としての子をなすことのみ。里見家が続く限りの飼い殺し。
 監視の目は常に光る。屋敷を出れば、柵で取り囲まれた敷地の外側にいる監視の者たちに、罵られ石を投げつけられ、敷地から外に出ようとすれば、すぐさま取り囲まれ袋叩きにされたうえで、敷地の中に投げ戻される。逆らおうものならば、死なないというだけの過酷な刑罰が待っている。だからと言って、抵抗しなければ平穏に暮らせるという訳でもない。将来的に一族をまとめ、里見家に害をなしそうな才ある男子は間引かれ、美しい女子は監視役の慰み物として狙われた。
 それでも彼らはそこから脱出を試みることも、死を覚悟しての反抗を決行することはなかった。犬畜生よりもはるかに劣る扱いに、ただ耐えるばかり……。
 だからといって、彼らは子孫にまでこの境遇を味あわせることを望んではいる訳ではない。この苦境をなんとか乗り越え、血を受け継ぐ者たちにまっとうな生活をさせてやりたいと、3代目、4代目は常々願っていた。
 そんな一族の願いを一身に背負い、初代たち以来、初めて身体に牡丹の痣を持って生まれた犬坂生野種智は、各家の代表者たちを引き連れ戦場に立つ。
 生野は黒い布が巻かれた自身の喉に触れる。
 戦いの準備は整った。あとは力を振るうのみ。さあ、いまここから始まる。一族に暖かな日常を取り戻すための戦いが。
 敵を打ち滅ぼす喜びなどいらぬ。勝利による名誉などいらぬ。声などいらぬ。命もいらぬ。死して葬られる墓さえいらぬ。欲しいものはただ一つ。一族の明るい未来のみ。
 生野は高々と上げた右腕を、力強く振り下ろした。

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