二話 新生八犬士
永禄十年
第一の目的は、昨年に里見家に奪われた佐貫城の再奪取である。外海と内海の出入り口である、房総半島と三浦半島が最も接近するこの地域に建てられた佐貫城は、内海の支配権を確立するうえで、ぜひとも手中に収めておきたい城である。
そこで氏政は、佐貫城にほど近い三船山に砦を築かせた。誘いだされるようにして、義弘がこの砦に攻撃をくわえると、氏政自らが小田原を出陣。里見家側であった父大田
さらに武蔵玉縄城の主にして、三浦水軍の総帥でもある北条
対する義弘は、
両軍が三船山で激突することになる日の前日。月も星も厚い雲に隠れた闇の帳の中、鎌倉をぬけ三浦半島を進む一団があった。少しでも目立たぬように、ごくわずかの松明だけを灯して、静かに速やかに歩みを進める。
集団をまとめている数名の騎馬武者は、今朝早くに小田原を出立した。彼らが歩みを進めるたびに、十名程度の徒歩の武装集団が進行に加わり、あと一刻も進めば対岸に房総半島が望める頃には、二百人規模の集団になっていた。しかも、全員が武具を装備した武装集団である。最後尾には物資を積んだ荷車までもが続いている。
北条の隠されたもう一つの別働隊。この部隊の存在は氏政さえ知らぬ。氏政の父氏康の裁量によって手配された部隊であった。わずかな光源を頼りにしているにも関わらず、つまずく者すら出ないのは、この軍が事前に準備されていたことを如実に物語っている。
これが北条氏康である。本人はすでに隠居し、周辺国の警戒は氏政の動きに注がれる。
氏康はまさにこれを利用する。
現当主である氏政が自らを総大将とし、周囲の土豪を引き連れ
ここで動くのが、ここで動けるのが氏康である。数多の困難を乗り越え、関東進出を推し進めてきたのは伊達ではない。内海にはすでに水軍頭領の綱成がいる。里見水軍の目は、間違いなくそちらに釘づけになっている。その間に夜陰にまぎれ、漁船で戦線を大きく避けて内海を渡らせ、佐貫城の背後をつかせる。動きを事前に察知されぬよう、兵を一度には集めず、行軍途中で徐々に加わらせるなど工夫をこらし、さらに念には念をいれ、軍勢を率いらせるのは、小田原から姿を消しても噂にならないほど地味で、他家にとっては無名な存在でありながら、数十年もの間、氏康の命を着実にこなしてきた塩沢勘兵衛という壮年の武士に任せた。これらの事を事前に準備していたのである。現当主の氏政にさえ気づかせることなく……。
あと三里ほども進めば渡海のための漁船を集めさせている海岸線に出るという所で、すでにそれなりの規模となったその集団から、ただ一つ離れたものがある。白い影だ。全員が脇目もふらず前へ前へと進む中、逆方向へ向かうその白い影に、気がつく者はいなかった。白い影は集団から離れると反転し、集団に気づかれぬように大きく迂回しつつ、瞬く間に彼らを追い越していく。
曇天がわずかに割れ、間髪入れずに差し込んできた月光が、白い影の姿をはっきりと映しだした。
犬だ。白い毛並みの立派な体躯の犬が、懸命に大地を蹴り白光と化す。集団から離れ四半時ほど走ったあたりで、犬は一つ吠えた。敬愛する主人の匂いをしっかりと感じ取ったからだ。主人も犬の声に気づいたらしく、闇の中で手をあげる臭いがした。犬の足がさらに早まる。一目散に主人の元へとたどり着いた犬は、激しく尾を振り主人に体をぶつけるようにして飛びついた。飛びつかれた主人は、さすがに大きな犬の体を支えきれず、体勢を崩して尻餅をつく。
主人の顔が月光に照らされる。あの青年だ。半年ほど前に里見義弘に対し、小田原攻めを願い出た犬坂
「こんなにも早く
生野は、ようやく彼の前に腰を落ち着けた八風の口元に、水の入った竹筒をあてがいつつ、後ろから投げかけられたその言葉に頷く。
生野の後方にいた巨馬に跨がる男が頷き返す。奇怪な身体の男だ。手足は細いのに、腹だけは異様にふくれている。恐らくこの男の足の細さでは、この男の均衡の悪い身体を支えて歩くことはおろか、立っていることさえ難しい。だからこその騎乗であろう。
奇怪な身体をしているのはこの男だけではなかった。
瞼を閉じたしゃれこうべのような
生野を含めたこの八人こそが、生野が義弘に出陣を願い出た八犬家の代表者達である。
犬坂生野。
犬山
犬川
犬江
犬塚
犬田
犬村家のお
犬飼家のお
「それでどうする? ここで奴らを待つのか? それとも船を焼きすてるか?」
犬川太助が尋ねる。この男の四肢と腹については先程述べた。しかしながら、この男。奇怪な箇所がもうひとつある。股間だ。
股間から伸びた白の
太助の問いに、生野は立ち上がり、北条軍が進んで来ているであろう方角を指さした。