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「免許は一発合格ですよ。これは城藤のコネもお金も関係ない俺の実力です」
得意気な優磨くんに笑ってしまう。
「さすがにこの車は親の名義ですけど。自分の力だって言えるのは教習所に通うお金をバイトで稼いだことと、免許を取得したことくらいで」
「………」
忘れそうになるけれど優磨くんは城藤の御曹司。本当はもっと高級車にも乗れるし、自分で運転しなくたっていい。美麗さんだって専属の運転手がいたから免許を持っていないはず。
「このマンションもそうなんです」
「城藤の持ってるマンションなの?」
「はい、管理会社はうちの系列です。俺の親が慶太さんのために用意した部屋に住んでるんですよ」
「え?」
「姉が婚約破棄した慰謝料として一部屋を慶太さんに譲ったんですよ。家具も家電も揃えてね」
浅野さんの部屋を思い浮かべた。独身の一人暮らしにしてはかなり広い部屋だし、寝室のベッドはダブルサイズだった。ずっと不思議に思っていた答えが聞けた。
「仕事も親の援助なんですよ」
「もしかして、うちの会社に転職してきたのは……」
「はい、城藤のコネです。でも入社してから慶太さんがしてきた仕事は実力でしょうけど」
あまりにも現実離れした話だ。慰謝料とはいえ城藤に何もかも支えられて浅野さんは生きている。
「だから慶太さんを苦しめているのは美紗さんだけじゃない。姉も親も俺だって、近くに居ることでずっと慶太さんを苦しめている」
それは家にいても安らげないだろう。だから仮眠室に泊まったり優磨くんのカフェに入り浸る。大きな仕事をして評価されても、それは本当に自分の力なのだろうかと疑ってしまうかもしれない。何もかも与えられたものに囲まれていては息が詰まりそうだ。会社の人とどこか距離を置いていたのも馴染みたくなかったのだろうか。
「このマンションに女の人を連れてきたのは美紗さんが初めてです。というか、俺にちゃんと紹介した彼女も美紗さんだけなんですよ」
優磨くんは私を安心させる見慣れた笑顔を見せた。
「俺は美紗さんが慶太さんを変えてくれると思ってます」
「……できるかな?」
人生に干渉した厄介者だと思って避けられて当然なんだ。浅野さんは私のことを恨んでいるのかもしれないのに。
「できますよ。慶太さんもそれを待ってますから」
優磨くんはジーンズのポケットに手を回してチャラチャラと金属音がするものを取り出した。
「慶太さんの部屋の鍵です。美紗さんに渡しておきますね」
「え、でも……」
「慶太さんがどんなに酷い言葉を言おうと、美紗さんを特別に思ってます。俺には分かります」
躊躇う私の手を取って鍵を握らせた。手の中で存在を主張するかのように冷たくて重く感じる。
「弱ってるからこそ、今は俺よりも美紗さんなんです」
またも心をほぐす笑顔を見せてくれる。私なんかよりも優磨くんの方がよっぽど必要だと思うのに。
「今は寝てますけど入って大丈夫ですよ。一度起こしてもいいかもしれませんね。美紗さんが来たらびっくりするだろうな」
優磨くんはいたずらを仕掛ける子供のように笑う。しっかりしているけれど、こういうところを見てしまうと年下なんだと改めて思い直す。
「そういえば美麗さんはどうしてる?」
「監禁に近い状態ですね。ほとんど家に閉じ込められて、外出するときは使用人が付き添ってます。精神的に不安定なので」
「そう……」
「近所に姉の姿を見られるのも体裁が悪いので親は一生人目につくところには出したくないでしょうね」
匠と逃げて窮屈な生活から抜け出したのに、結局は以前よりも自由を奪われている。
「姉が式場から逃げたとき父親が追いかけたのを覚えてますか?」
私は小さく頷く。あの時我に返った何人かが美麗さんを追いかけた。
「すぐに二人に追いついたんです。でもだめでした。時間をかけて二人を説得しても式場には戻らないって」
あれ以来美麗さんの姿を見ることはなかった。一度決めたことはやり通す頑固なところがある美麗さんは浅野さんの元には戻らない。そこまで私は予想して匠を唆した。
「バンドの男は贅沢に慣れた姉を満足させる生活は当時はできなくて、姉は1ヶ月で親に金を無心しに来たそうです。バイトなんてしたことがない姉は自分が働こうなんて絶対に思いませんからね。お腹に子供もいましたし」
簡単に想像できた。働く気がない美麗さんと売れない匠との生活を。
「親の金のお陰でバンドが売れなくてもそれなりの生活はできていたようです」
「匠はヒモだったんだ?」
「そういうことです。姉と駆け落ちしたくせに未だに籍も入れないで、城藤の金を都合よく利用して」
匠だって美麗さんの財力に惹かれたとこがあったと思う。
「俺は全くその状況を知らなかったんですけど、親は姉が妊娠してることももう知ってて、その子も産まれて間もなく亡くなったことも知っていました。何も知らなかったのは俺だけでした」
優磨くんは悲しそうに語った。
「きっと優磨くんに知られると浅野さんにも伝わると思ったから内緒にしたのかな……」
私のこの言葉が全く慰めにならないことはわかっている。でも子供の存在を当時の浅野さんが知っていたらもっと傷は深かっただろう。
「姉も親もふざけてますよ。慶太さんがどれだけショックを受けたかも知らないで。姉だけ匠のそばにいて楽な生活をしてるなんて」
優磨くんの怒りは理解できる。身内だからこそ許せないことがあるのだ。
「バンドがメジャーデビューして人気になったのに美麗さんが今更戻ってきたのは匠のスキャンダルがあったから?」
「そうです。今度は姉が浮気をされたんですよ。相手は女優ですから、かなりニュースになりましたよね」
美麗さんに支えられてきたのに、売れた途端に女優に乗り換えた。匠も所詮はその程度の男だったのだ。
「それで美麗さんは浅野さんに会いに来たのか……」
「散々姉を利用して捨てる男も最低ですけど、姉も自業自得です」
『慶太じゃないとだめだって気づいた』なんて白々しい言葉を吐いて、都合が悪いときだけ戻ってくる。そんなことは普通の神経では受け入れられない。
「大丈夫ですよ。慶太さんももう姉には会いたくないでしょうし、姉も今はショックを受けて取り乱しているだけです。しばらくすればまた新しい男を見つけますよ」
「うん……」
「慶太さんには美紗さんが必要です」
「優磨くん、ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございます。慶太さんをよろしくお願いします」
車から降りた私は運転席の開いた窓に向かって頭を下げた。スロープを上がっていく車が見えなくなるまで手を振った。
マンションの中に入るのはいつも浅野さんと一緒だった。初めて操作盤に鍵を差し込みエントランスに入った。エレベーターで上がると降りた目の前が浅野さんの部屋だ。
優磨くんには入っても大丈夫と言われたけれど本当に入っていいのか迷ってしまう。今の私に勝手に入ってこられたらいい気はしないかもしれない。
カバンからスマートフォンを出して浅野さんに電話をかけた。数秒間コールして音が止まったかと思うと「はい……」と浅野さんの掠れた声が聞こえた。電話を無視しないで出てくれたことにほっとする。
「あ、あの、足立です……」
「……何?」
相変わらず短い応対で冷たい声だ。
「えっと……大丈夫ですか?」
「……大丈夫じゃないから切るよ」
「待ってください! 今浅野さんの部屋の前に来てるんです」
「は? 今?」
「はい……」
「マンションの下に?」
「いえ……ドアの前にです……」
「………」
電話の向こうの、目の前のドアの先で浅野さんが混乱している姿が想像できた。