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あれから武藤さんは過度なスキンシップはなくなって只の上司と部下の関係に戻ったようだ。けれど以前のように態度が冷たいということはなく、私の気持ちを急かすわけでもない。私の方は熱烈な告白をされて以来更に武藤さんへの態度がぎこちなくなっていた。今はまだどう接したらいいのか迷っている。
正広とのことを綺麗にしなくてはいけないと思い始めた。別れ話を私が拒否したまま止まっている。正広の家の鍵を返しに行かなければ。私は正広の部屋の合鍵を持っているのに、正広は私の部屋の鍵を持っていない。欲しいと言われたこともなかった。2人の気持ちは私が気づかなかっただけでだいぶ前から差があったのだ。向こうはもう私と別れた気でいるのだろう。私だけが気持ちを整理できないまま正広の部屋の合鍵をずっと持ち続けている。
自分の生活から正広が消えてしまうと、残るのは仕事しかないという現実を最初の頃は寂しく思っていた。でも仕事が嫌いなわけではないし、武藤さんの下についてからはより一層楽しいと感じるようになっていた。
「あれ、戸田さんまだ残ってたんですか?」
定時を過ぎて会社に戻ってきた武藤さんはまだ残って資料を作っている私に驚いた。
「ああ、はい。もうちょっとで終わりますから」
「そうですか……」
何か言いたそうな武藤さんはデスクに座ってからも仕事の合間に私の様子を横目で気にしているのが分かった。
「すみません、毎日残業させてしまって」
武藤さんが申し訳なさそうに言った。
「いいえ。私が勝手に残ってるんで気にしないでください」
帰っても寝るだけで予定があるわけでもない。仕事をしていた方が気が紛れるから必要のない残業をしているのだ。
「そうですか……」
武藤さんはまた同じように呟いてから仕事に集中し始めた。
毎日自分から勝手に残業を繰り返していると早い段階で仕事が片付いてしまう。きりのいいところまできたとき、隣の武藤さんがあくびをした。
「すみません、私が残ってるから武藤さんも帰れないんですよね」
「いえ、そういうわけではないですよ」
私に付き合って残業する武藤さんに申し訳なさを感じていたけれど、当の武藤さんは何でもないような顔をしてパソコンと向き合っている。
「まあ戸田さんに仕事を任せて僕だけ先に帰るのは悪いなとは少しは思いますけど、僕も早く今の企画書を仕上げたいですから」
「………」
私に気を遣わせないように正直な思いも言ってくれる武藤さんに救われる。
疲れていないわけじゃないし、お腹もすいてくる頃だ。でも家には帰りたいとは思えない。だから残業のし過ぎで仕事が片付いてしまうことをちょっとだけ残念にも思っていた。手を止めて次の作業は何をしようか考えていたとき
「戸田さん、申し訳ないですが工程書の確認をお願いできますか?」
武藤さんが私に数枚の書類を差し出した。
「はい、わかりました」
時間を潰せる仕事ができて喜んだ。思わず笑顔になってしまう。そんな私に武藤さんも微笑んだ。普段なら残業はしたくないのに、今の私はたくさん仕事がしたいと思うほどに寂しいプライベートだ。武藤さんはそれを察したように私に急ぎでもない仕事をくれたのではないか。もしそうだとしたら、その気遣いが今は心から嬉しい。そんなことを思った。
朝起きて着ていく服を真剣に悩み、メイクの仕上がりを入念にチェックする。去年買ってあまり穿かなかったスカートを出した。正広に会う回数が減ってしまってからは身につける機会のなかったネックレスとピアスをつけた。髪をアップにして鏡を見ると以前よりも表情の明るい自分が見返した。正広と付き合っていたときでさえこんなに気合は入れなかった。今の私を見たらきっと正広は笑うに違いない。私だって人からどう見られるかを気にする今の自分に戸惑っている。
『その色、よく似合っています』
髪を明るい色に染めた私に対して武藤さんがかけてくれた言葉が甦る。あの頃は武藤さんのことが大嫌いだった。今では私の心の半分を武藤さんが占めている。彼が私を見る目を気にして、どう思われているかが気になってしょうがない。
正広と気まずい別れをしてからもう1ヶ月がたとうとしていた。今でも毎日正広のことを考えるし最後の電話のやり取りをまだ鮮明に思い出せる。けれど自分をどんどん追い込んで仕事に逃げることはやめようと思う。正広のことを考えていると武藤さんは私の心を読んでいるかのように声をかけ、余計な仕事をわざと与えてくれるようになった。
いつも私を気遣ってまめに話しかけてくれる彼は私の最近の変化に気づいているだろうか。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「うわー……ついてないですね」
駅の改札前には人が溢れ、電光掲示板は次に発車する電車の時刻が表示されず暗いままだ。
古明橋公園に行っていた武藤さんの頼みで完成したばかりのイベントポスターを届けに行った。2人で一緒に会社に戻ろうと駅に行くと信号機のトラブルで電車の運行がストップしていた。駅員が拡声器で案内をし、置かれたホワイトボードの前には人が群がる。会社員の他にも制服姿の学生が大勢いた。今日は古明橋にある高校の学校説明会があったようで、駅を利用できない中学生の女の子たちが私の後ろで文句を言っていた。
「地下鉄で行きましょうか」
武藤さんの提案に私は乗った。ここで電車が動くのを待っても車内は混雑するだろう。それなら近くの地下鉄の駅まで歩いて迂回し会社に戻った方がいい。
只でさえ大きい駅なのに今は更に人が多く、駅の出口まで人を避けて歩くのも一苦労だ。前を歩く武藤さんと距離が離れてしまう。
待って、行かないで。
そう心の中で武藤さんを呼んだ。離れないように武藤さんと手を繋ぎたいと自然と願ってしまった。
「武藤さん……」
小さく呼ぶと武藤さんは私を振り返った。そうして何も言わず手を伸ばして私の手を握った。
「え……」
そのまま私の手を引いて人を避けていく。願ったのは私だけれど、願い通りに武藤さんが手を繋いでくれたことに驚いた。突然握られた手は嫌じゃなくて温かい感触が心地いい。触れてほしくない、そう思っていた時期が嘘のように。
バスロータリーが見え歩きにくさが解消すると武藤さんはあっさりと手を離した。
「別の駅が近くてよかったですね」
今の行動は何でもなかったかのように武藤さんは歩き出した。触れることは控えると言ったから武藤さんは手を離したのだろう。私が望んだことなのに離された手が寂しい。
武藤さんの1歩後ろを歩きながら私の視線は武藤さんの手にあった。
正広のことを考えて毎日悩んでいたのに、いつの間にか頭の中は武藤さんのことでいっぱいになっている。これは正広に振られて弱ったところに好きだと言われたから武藤さんが気になってしまったのかもしれない。それなら武藤さんではなくても好きだと言われたらどんな男でも好きになってしまうのだろうか。私のこの気持ちは武藤さんへの純粋な好意なのだろうか。それとも心の寂しさを埋める都合のいい相手と思っているのかな?
私には武藤さんを心から好きになれる自信がまだない。