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「正広、お風呂いいよ」
正広は視線をテレビから私に向けると、すぐにまたテレビを向いた。
「そういえば俺スウェット忘れたわ」
「あ、そうなんだ」
確かに正広はスーツで来たままご飯を食べて横になっていた。荷物も会社のカバンしか見当たらない。まるで私の家に長居するつもりはなかったかのような最低限の荷物だ。
「どうしよっか……正広の着れるものはうちにはないし……」
滅多に来ないから着替えの用意なんてない。1人暮らしの私の家には男性用の服はもちろんないのだ。
「………」
返事をすることもなく正広はテレビを見ている。画面には最近テレビでよく見るようになった2人組のお笑い芸人が漫才をしていた。
立ったままだった私は返事をしない正広の横に座った。それは顔を少しでも動かせば私の太ももが見える距離だ。手を少しでもずらしたら正広は私に触れてしまえる。
「正広?」
様子を心配しているように顔を覗き込んだ。本当は精一杯の誘い方だった。正広の手で触れて欲しくてなりふり構っていられない。覗き込む私の顔を正広は見返した。今度は視線を逸らすことなく見つめ合う。動かないでじっとしている正広を待ちきれなくて体を動かして私から近づいた。
「美優……」
私の名を呼ぶ愛しい恋人の唇に、優しく自分の唇を合わせる。数秒間のキスのあと少し離れて見つめた正広の瞳は迷うような感情が窺えた。もう1度触れた唇は深いキスに移行する気配が一切なく、私の唇で正広の上唇を啄ばんでみても微動だにしなかった。
「正広?」
思わず口から不安な声が漏れた。
「………」
私の声に正広は視線を逸らして下を向いた。
「ごめん……今日は帰る」
「え!?」
正広はゆっくりと私から体を離して立ち上がった。
「何で? どうしたの?」
思わぬ行動に慌ててしまう。
「泊まっていくんじゃないの?」
「………ごめん」
正広は下を向いたままただ謝るだけだ。私は急に不安になる。
どうしたというのだ。露骨に誘いすぎただろうか。でも恋人が家に泊まりに来るなんてそういう展開だって思うのは自然なのに。
カバンを持って玄関で靴を履く正広の後ろに立ってもかける言葉が出ない。今何を思っているのかわからない恋人の後ろ姿を見て、考えないようにしていた2人の現実を重く受け止める。
「正広……」
私たちは終わりだ。頭に浮かんだ最悪の結末。もうここで終わりの予感がした。
「怒ってる?」
そう聞いてみたけれど特に怒らせた記憶はない。正広が突然離れていくなんて怒らせたとしか思えないからだ。
「怒ってるわけじゃないよ。俺の問題」
私に背中を向けたまま静かに言った。
「時間がほしい」
「どうして? 何に時間がいるの?」
「俺と美優の今後を考える時間」
血の気が引いた。予感がどんどん現実味を帯びる。
「別れるってこと?」
「それを考えさせてほしい」
「やっぱり怒ってるの?」
「だから、怒ってないよ」
徐々に興奮していく私と比べて正広は始終冷静だ。それが怖かった。今後を考えると言ったけれど、正広の中ではもう答えを決めているような気がして。
「嫌だよ……正広……」
「ごめん。帰るよ」
正広はドアノブに手をかけた。
「待って!」
呼び止める私の声を無視して正広は出ていってしまった。ドアが閉まっても私は玄関に立ち尽くしたまま動けなかった。
賭けだった。新しい下着にあからさまな誘い方。引かれるのを覚悟で正広との関係を再確認したかった。けれどその賭けは2人の関係が望まない方向に進んでしまったのだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
定時を過ぎて社員が続々と退社していくのを尻目に私はパソコンと向き合っている。
営業部の社員の中でも武藤さんは今勢いに乗っている。だからこその異例の出世なのだ。その武藤さんのサポートというのは私にとっては大任だ。細かい作業もミスなくこなすためには資料全てに目を通しておきたかった。
午前中に営業部のフロア内で席替えをした。今まで山本さんの右隣だった私のデスクは武藤さんの右隣になった。
田中さんは一足先に退社してしまい、私は武藤さんと気まずい空気のまま隣に座り黙々と仕事をしている。他の社員も外出先から直帰だったり早々と定時退社だ。気がつけばフロアには私と武藤さんの2人だけになってしまった。
「………さん」
「………」
「戸田さん」
「ああ、はい」
武藤さんに呼ばれて我に返った。
「大丈夫ですか?」
「はい……書類を読むのに集中してて……」
そうは言ったけれど目の前の書類に集中していたわけではない。正広のことで頭がいっぱいだったのだ。
「僕は今から出ます。直帰するので戸田さんもきりのいいところで上がってくださいね」
「今から外出ですか?」
時計を見るといつの間にか20時になろうとしている。
「はい。秋のイベントの担当者さんが夜間作業で今現場にいるみたいで。ちょうどいいので挨拶と状況を見てきます。夜の様子はあまり見れませんから」
そう言うと武藤さんは足元に置いたカバンを取って資料やスマートフォンを入れ始めた。
今から現場に行くなんて武藤さんも先方も大変だなと営業職に同情した。
「じゃあこの会議資料を作ったら私はお先に失礼します」
本当は資料を作らずに今すぐ帰りたい。それでも武藤さんのフォローを疎かにしたりはしないから今のうちから努力をするのだ。いくら私たちの関係が気まずくても。
武藤さんと実際に仕事をしてみて分かったことは『仕事ができる』と一言で言い切れないほど細かいことまで気を配れる人だった。ファイルは誰が見ても分かるように綺麗にまとめられて、現場の画像にも場所と名前を登録してくれているから提案書も一々武藤さんに確認しなくてもスムーズに作れた。
もちろんデスクも綺麗に整理整頓されていて、武藤さんとの電話のやり取りをしながら作業の続きを引き受けることも造作もなかった。
細かい予定も電話やメールで連絡をくれて、大雑把な山本さんと組んでいた時以上に仕事がやりやすいと感じた。
イケメンで仕事ができて完璧な男。なのに私のことが好きだなんて今でも信じられない。からかわれているんじゃないかと思えてくる。
「明日は10時から打ち合わせがあって、そのまま設置作業に入ります」
「はい……」
「戸田さんには見積書の作成をお願いします」
「はい……」
「何か質問がありますか?」
「はい……」
「何か悩みでもありますか?」
「はい……え?」
突然の質問に隣の武藤さんを見た。
「本当に大丈夫ですか?」
重ねての質問に私は「すみません」と謝罪の言葉しか出てこない。
「朝出社してきたときからずっと上の空です。何か心配なことがありますか?」
「いえ……大丈夫です」
正直仕事に身が入っていない。書類の文字には変換ミスが目立ち、考え事に夢中になって時間を無駄にしている。
「最近忙しかったですからね。すみません、負担をかけて」
「いいえ……そういうわけでは……」
武藤さんは申し訳なさそうな顔をして私を気遣ってくれる。
正広と連絡が取れない。そのことが気になって仕方がない。仕事にまで影響してしまうくらいに。
「ちょっとプライベートなことで……」
そう言ってからはっと口に手を当てた。正広のことを武藤さんに言うのは気が咎められる。実際武藤さんの顔がほんの少し曇ったのだ。
「集中できていなくてすみません……」
「無理しないでくださいね」
「はい……」
武藤さんは優しく笑うとイスを引いて立ち上がった。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
フロアから出て行く武藤さんを見送って溜め息をついた。
武藤さんにまで気を遣われてしまうくらいに今の私はボロボロだ。「無理しないでくださいね」と言った彼の言葉が頭の中で繰り返される。
無理をしているわけじゃない。特別私が何かをしたわけでもない。正広と微妙な別れをしてから連絡がない。数日たって電話をしてみても出てくれることはなかった。
今後の2人のことを考えたいと一方的に言われたまま私はただ結論を待つしかできない。正広の中ではこのまま私との関係を終わらせる選択をすることも十分有り得るということだ。
どうしてこうなってしまったのだろう。何がいけなかったのだろう。何度も何度も考えたけれど、やはり正広を傷つけるようなことをした記憶はない。こんなにも正広は私の心を掻き乱すのに。