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「着替えは出して置いとくから入ってきな」
「はい」
初めて入ったバスルームはホテルかと思うほど広く、私のアパートの狭くて古い浴槽とは雲泥の差だ。
同棲するとしたらここに住むのか……。
ご飯を作って掃除して洗濯して聡次郎さんの帰りを待つ。結婚なんてまだ考えられないけれど、そんな生活をするのも悪くないかもしれない。
バスルームから出ると洗濯機の上に置かれたカゴの中にバスタオルとTシャツとスウェットが置かれていた。私には大きいTシャツを着ると、丈が長く太ももまで隠れるほど。スウェットなしでワンピースとして着られそうだ。もちろんスウェットのウエストもゆったりしていて、歩くと腰の下まで落ちてしまいそうだ。
持ってきたドライヤーをコンセントに差し込み髪を乾かそうとすると、リビングから「俺のも乾かして」と言う聡次郎さんの大声が聞こえた。
自分の髪を乾かしてリビングに戻ると、聡次郎さんはキッチンでお茶を淹れていた。
「結局自分で淹れてるじゃない」
「喉渇いたから」
聡次郎さんはマグカップ2つにお茶を注ぐとテーブルに置いた。ソファーに座り首にかけたタオルを取った。
「乾かして」
子供のように乾かしてもらえるのを待つ姿に思わず口元が緩む。ソファーに座る聡次郎さんの後ろに立って髪を乾かした。
聡次郎さんの髪に触れるのは初めてだ。誰かの髪を乾かすのも初めてで、サラサラになるまで念入りに乾かした。
ドライヤーをカバンにしまおうとする私に「洗面所においてきなよ」と聡次郎さんは言った。
「でも、ここに泊まるのは今夜だけなんじゃないの?」
私の言葉を無視して聡次郎さんは私の手からドライヤーを取ると洗面所に持って行ってしまった。
気まずいままお茶を飲んでいる間に聡次郎さんは歯磨きを終えて、私が歯を磨き終わると寝室の明かりは消えて聡次郎さんがベッドに寝転がっていた。
どうしよう、と戸惑う私に「りーか」と寝室から呼ぶ声がする。
「あの、聡次郎さんお腹すかない? 夜食作ろうか?」
「歯磨きしたから何も食べないよ。いいからおいで」
「私ソファーで寝ますから……」
「梨香」
優しく呼ぶ声にはもう逆らえず、私はゆっくりとベッドに近づいた。聡次郎さんの横に寝ると背を向けて目を閉じた。
「梨香」
「はい……」
「こっち向いてよ」
そう言われても恥ずかしさが勝って聡次郎さんの方を見ることができない。じっとしていると聡次郎さんが動く気配がして、後ろから抱きしめられた。
「梨香」
甘い呼び声に上手く呼吸ができない。
「こっち向いて」
ゆっくりと体を反転して聡次郎さんと向かい合った。暗くても聡次郎さんの瞳は真っ直ぐ私を捕らえていることがわかった。
「言っただろ? 次この部屋に来たら寝かさないって」
そう、聡次郎さんは忠告していた。私もそれを覚えている。覚えていてここに来た。だから小さく頷いた。
顔が近づき自然と唇を重ねた。腰に回った聡次郎さんの手が徐々に下半身に下りていく感触に体が震えた。
「嫌だ?」
答える代わりに更に聡次郎さんに体を寄せた。
寝室に足を踏み入れた瞬間から覚悟していた。聡次郎さんと繋がることを願っていた。
「……嫌じゃないよ」
その言葉を合図に聡次郎さんは私の上に覆いかぶさる。再び唇が私の唇を奪い深く貪り合った。
スウェットを脱がされて太ももに直に聡次郎さんの指が触れ小さく吐息が漏れた。Tシャツの下から手が侵入し、胸を包まれたときには体が跳ねた。
与えられる優しい刺激に体の全ての感覚は麻痺していった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
休みだという聡次郎さんを部屋に残し、出勤するためエレベーターに乗った。
1階で止まるはずのエレベーターは5階の社長夫婦の自宅で止まり、開いたドアの前には麻衣さんが立っていた。
「あ、梨香さんおはよう」
「おはようございます……」
「あれ? 梨香さんがここにいるってことは……聡次郎さんの家にお泊りかしら?」
「いや、あの……はい……」
麻衣さんは私たちの付き合いを応援してくれているとはいえ、実際に聡次郎さんの部屋に泊まったことを知られるのは恥ずかしい。
「順調そうで良かった。この間結婚の話は全然進んでないって言ってたから」
「あれから話し合って、少しは進展しました」
「そう。本当に良かった」
心から喜んでくれる麻衣さんには私も感謝している。
「梨香さん、聡次郎さんと順調なら大丈夫だろうと思って言うんだけど……」
「はい」
麻衣さんは真剣な顔をした。
「栄のお嬢様が今日からしばらく龍峯を出入りするの」
栄のお嬢様、と何度か聞いた人物に首を傾げた。
「その栄のお嬢様ってもしかしてこの間お店に来た奥様のお客様のことですか?」
先日お店に来た若くて綺麗な女の子。確か名前が栄と名乗った。
「そう、あの方よ。龍峯のビル全体に活け花を飾るそうで、それを活けに来てくださるの」
エレベーターが一階に着き2人で降りた。
「梨香さんは気にしなくていいからね」
「どういう意味ですか?」
「栄のお嬢様、栄愛華さんは聡次郎さんの婚約者なの」
この言葉に目を見開いた。あの子が聡次郎さんの婚約者……銀栄屋の社長令嬢だったのだ。
「もちろん奥様が決めていただけで聡次郎さんは嫌がっていたのよ。今は梨香さんがいるし、愛華さんが龍峯を出入りしたって何も変わらないわ」
麻衣さんはそう言うけれど私の不安はどんどん膨らむ。
「奥様が勝手に愛華さんに活け花をお願いしてしまったの。元々付き合いのある花屋さんにお願いしていたのを契約を切ってまで……」
あの綺麗な子が聡次郎さんの婚約者……。
「でも花を活けるだけで聡次郎さんに会いに来るわけでもないし、聡次郎さんも会社にいないことがほとんどだし……」
あんな子との縁談を断って私を選んだ……。
「梨香さん?」
あの子の方が何倍も綺麗で気品も教養も資産も持っている……。
「梨香さん? 大丈夫?」
「ああ、はい、大丈夫です……」
「私からこんなことを言ってごめんなさい。あとで知るよりはいいかと思って……」
「気を遣っていただいてすみません……」
「私は梨香さんと聡次郎さんの味方だからね!」
「ありがとうございます」
麻衣さんと別れ、店に入って開店準備を始めても栄愛華さんという人のことを考えてしまい作業が進まない。奥様が選んだだけあって龍峯にも利益のあるお相手だ。低所得で学も教養もない私とは大違いの。
どうして今愛華さんが来るのだろう。もしかして奥様が私と聡次郎さんの関係を壊す目的で本当の婚約者を呼んだのだろうか。
龍峯のビル内には複数の生花装飾があり、古明橋の花屋さんにお願いして毎週活けてもらっているということだった。その契約を切ってまで愛華さんにお願いするということは、愛華さんはかなりの時間龍峯にいることになる。
もし聡次郎さんと愛華さんが会ったら……。
不安は増すばかりだ。