1
カフェが休みの日には龍峯茶園に出勤することにしているから休みがほとんどなく、2ヶ所の職場を合わせて今日で9日連続勤務になる。疲れが溜まってきているけれどカフェを休めばそれはそれで迷惑がかかるし、聡次郎さんとの契約も疎かにはしたくない。
当初思っていた契約とはかなり違ってきてはいるけれど、生活がかかっているのだから今は頑張りどころだ。
龍峯茶園のシャツを着て、カバンに荷物を詰めていたとき玄関のチャイムが鳴った。
こんな時間に誰が来たのだろう。
不審に思いながらドアスコープから外を見ると、ドアの前には聡次郎さんが立っていた。
「は?」
驚いた勢いでチェーンを外しドアを開けた。
「何やってるんですか?」
「朝の挨拶よりも先に聞くのかよ」
目を真ん丸に見開く私に聡次郎さんは呆れている。
「だって……何で私んちに来るんですか?」
「迎えに来たんだよ」
「迎えって……」
聡次郎さんはスーツを着ているけれど手ぶらだ。
「ここまでどうやって来たんですか?」
「車」
「どこに出勤されるんですか?」
「どこって、龍峯だろ。乗せてってやるから準備しろよ」
聡次郎さんの言動が理解できない。自分の会社のビルに住んでいるのにわざわざ私の家に来て会社まで送ってくれようとしている。
「ちょっと待っててください……」
聡次郎さんをドアの外に残し、コートを着てカバンを持つと玄関に置いた全身鏡でさっと全身をチェックした。
「お待たせしました……」
恐る恐る開いたドアの外で聡次郎さんはアパートの廊下に寄りかかって私を待っていた。
「行くぞ」
短くそう言って私より先に階段を下りていくとアパートの前に止められた車の運転席に乗り込んだ。
「失礼します……」
私は後部座席に乗ろうとドアを開けると「またかよ」と聡次郎さんは呆れた声を出す。
「またこのやり取りするわけ?」
「そうでした……」
婚約者が助手席に乗らないのはおかしい。助手席に座りながら反省する。
「すみません、ありがとうございます」
「シートベルトな」
「はい」
慌ててシートベルトをつける私を見て聡次郎さんはなぜか笑う。面白いものでも見るかのようだ。
車のエンジンがかかると車内に洋楽が流れ始める。私は知らない曲だけれど聡次郎さんは洋楽が好きなのだろうか。
「どうして迎えに来てくださったんですか?」
「婚約者なのに一緒にいる時間がないなんて変だろ? これくらいは演技しなきゃ誤魔化せない」
「そうですね……」
同調してみたものの、家まで迎えに来てもらうなんて申し訳ない。
「龍峯に出勤の日は可能な限り迎えに来るから」
「そんな、申し訳ないです!」
「申し訳なく思わなくていいよ」
「でも自宅が職場なのにわざわざ私の家まで来るの面倒じゃないですか?」
遠慮してみたけれど聡次郎さんは「別に負担じゃないから」と無表情で運転している。雇い主がそう言っているのだからここは甘えるべきなのだろう。本音は聡次郎さんのそばにいるのは気を遣うし居心地が悪いのだけど。
「また敬語だ」
「あ」
「いい加減婚約者らしく話せよ」
「でも龍峯では敬語じゃないと不自然です。社長にも従業員として扱うから呼び方に気を付けるようにとも言われています」
「なら2人きりのときは敬語はやめろ」
「うん……」
どうしても敬語になってしまう。聡次郎さんは年上だろうし雇い主だ。職場では敬語で2人のときは恋人の雰囲気を出せなんてハードルが高すぎる。
「今日は何時までだっけ?」
「5時まで」
「昼飯はどうすんの?」
「会議室で食べるかな」
会議室と名前がついているけれど、使用しないときは社員の食堂として使っているのだという。
「ふーん。たぶん昼近くまで会議だから、役員もそのまま飯に会議室使うよ」
「そうですか……」
どうか私の休憩時間に被りませんようにと願った。今日はお弁当を持ってきているのだ。会議室に人が多いと居心地が悪いから外に食べに行かなくてはいけなくなる。
信号の向こうに龍峯のビルが見えてきた。
「この辺で下ろして」
「は? もうすぐで着くだろうが」
「私と聡次郎さんが一緒にいるところを龍峯の社員に見られたらだめです」
「何でだよ。婚約者なのに」
「奥様から聡次郎さんの婚約者ということは伏せるように言われているから」
「母さんの言うこと全部を聞かなくていいんだ」
「でも私もその方が働きやすいです」
聡次郎さんの婚約者と知れたら他の従業員に距離を置かれ仕事をちゃんと教えてもらえないかもしれない。それは望んでいない。
「ふーん……」
私のお願いを無視して車は龍峯の駐車場に入って止まった。
「ありがとうございました」
お礼を言うとシートベルトを外して車を降りた。ビルの窓から社員が見ている可能性もあるから早足で車から離れようとしたとき、
「梨香」
聡次郎さんに呼び止められた。
「なに?」
振り向くと車の近くにいると思っていた聡次郎さんは私と体が触れそうな距離まで近づいていた。驚いて聡次郎さんの顔を見上げる暇もなく私の頬に柔らかいものが触れた。それが聡次郎さんの唇だということをすぐに理解して体が固まった。
「ふっ」
唇が離れると耳元で聡次郎さんの笑う吐息が聞こえた。
「会社のやつらにバレた方が俺にとっては好都合なんだよ」
いたずらに成功した子供のような顔でそう言って、固まって動けない私を残して聡次郎さんはビルの中に入っていった。
我に返った私はコートの袖で頬をこすった。突然すぎて心臓に悪い。頬にキスまでされると思っていなかった。婚約者としてここまで演技するなんて契約に含まれていない。次に会ったら文句を言ってやらなければ。