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「三宅さん、これ貸してあげる」

本店で川田さんに渡されたのは1冊の本だった。

「日本茶を勉強するならこれが1番わかりやすいから」

「ありがとうございます!」

受け取ったその本は緑色のテキストのようだ。

「日本茶検定を受けるときに勉強する本なの」

「日本茶検定?」

「漢字検定みたいなもののお茶バージョンかな。お茶にもいろいろな資格や検定があって、日本茶インストラクターと日本茶アドバイザーってのもあるのよ」

「へー」

テキストをパラパラとめくった。お茶の淹れ方から栽培方法、健康効果や成分、流通まで書かれている。

「検定を受ける必要はないけど、ここで働くなら最低限の知識は必要かな。これはわかりやすいから読んでみて」

「はい。ありがとうございます」

勉強なんて何年ぶりだろう。お茶は以前ほど未知の世界ではなくなった。けれど手の中の厚いテキストに怖じ気ずく。

お茶を何回か淹れるうちにタイマーを使わなくても秒数がわかるようになった。茶碗を持っただけで湯の温度もわかる。
お客様に出すのは龍清軒だけれど、希望した方には他の商品も試飲してもらう。かぶせ茶や玉緑茶なども種類によって少しずつ温度や時間を変えるのだと川田さんから教わった。慣れるとお茶を淹れるのも楽しくなった。
『緑茶』と一括りにしていたけれど製造方法によって味がまるで違う。知れば知るほど日本茶に興味が湧いた。
苦戦したのは包装紙で商品を包むことだった。長方形の袋に入れられた100グラム入りのお茶は包むのは簡単だけれど、数種類のお茶を箱に入れて包むのは何度か練習をしなければとてもじゃないけれどお客様に渡せるものではない。
四角いものならまだいいのだけれど、筒状の商品は回しながら折り目をつけなければいけないし、頼りないビニールに入ったお茶菓子などの商品は包装紙がボロボロになる。
老舗お茶屋のギフトが汚い包装では格好がつかない。お茶の知識と包装の技術が必要とされた。





会議室にお茶を持ってきてほしいと内線があったのはもうすぐでお昼というときだった。
各部門のリーダー格が集まる会議なのだから誰か自分でお茶を淹れればいいのに、自分たちで淹れた方がさぞ美味しいだろうにと文句を言いながら川田さんと会議室まで大きなトレーに十数人分のお茶を載せ運んだ。

「失礼します」

会議室に入ると中央のテーブルを囲み役員と関東圏各店舗の店長がイスを埋めていた。
川田さんと協力して役員と店長の前に茶碗を置いていく。
社長である慶一郎さんと奥様の間に座った聡次郎さんの前に茶碗を置いても、彼は私を見ることもなくテーブルの上の書類に目を通している。そんな聡次郎さんを思わず睨みつけてしまった。
今朝突然頬にキスをされた衝撃を忘れたわけじゃない。聡次郎さんの中で私はただの婚約者もどきかもしれないけれど、付き合わされる私の気持ちを少しは汲んでほしい。
慶一郎さんを挟んで反対に座った月島さんの前に茶碗を置くと、小さく「ありがとうございます」と言ってくれた。たったそれだけのことで不機嫌な気持ちが浄化されてしまう。聡次郎さんとは大違いだ。

「新茶のパッケージを去年のグリーンから淡いピンクに変更してもいいのでは? 桜の季節で華やかなものがいいのではないかと」

議論の中で聡次郎さんの口が開いた。

「パッケージに合わせた柄の茶筒をプレゼントするのも面白いと思います」

「無料特典ならそんな大きいものは付けられませんね。でも茶筒をもらって嬉しいものでしょうか?」

1人の男性が聡次郎さんに意見した。それに対して聡次郎さんは男性をまっすぐ見据えた。

「お茶の袋を輪ゴムでとめて取っておく人だって多くいるはずです。案外茶筒もほしい人はいるのでは? 自分では茶筒まで買おうと思う人はいませんから」

普段見ている自分勝手な聡次郎さんとは違う、真面目に仕事をする姿は意外だった。専務らしいこともしているじゃないかと見直した。







会議が終わったタイミングで休憩に入った私は、廊下に置かれた冷蔵庫からお弁当を出してエレベーターに乗った。
恐る恐る入った会議室にはまだ数人の社員が残っていた。会議が終わったというのに書類を広げ、立ち上がる気配がない。

「失礼します」

知らない顔ばかりの中に入っていくのは勇気がいったけれど、私の休憩時間は決まっているのだ。落ち着かず休憩にならないけれどしょうがない。会議室の奥のテーブルの端で聡次郎さんがまだ打ち合わせをしていることに気がついた。

「お疲れ様です……」

会議室にいる人に挨拶をした。私の顔を見て「お疲れ様です」と返してくれる社員がいるのに、役職が付いているはずの聡次郎さんは私をチラッと見ただけで言葉を発しない。ムッとしたけれど気にせず離れた席に荷物を置くと、お弁当をレンジに入れ温めた。電気ポットに水を入れてスイッチを入れ、従業員用のお茶の葉を急須に入れた。

「そのお弁当、手作りですか?」

男性の社員さんにそう聞かれ、照れながら「そうです」と返した。

「節約しようと思って」

お給料日まであと少しだけれど、冷蔵庫の残りの食材が持ちそうにないほど食費が厳しい。無駄なものは一切買わずに自炊を心掛ける。飲み物は龍峯のお茶があるのは助かる。

「おいしそう! 俺のも作ってほしいくらい」

「えへへ……」

褒められたから照れて思わず変な声が出た。料理が得意とはいえないけれど、味や見た目にも気を遣い頑張っているつもりだ。いつ買ったのかも忘れてしまった冷蔵庫の底の野菜が役に立つ。

「三宅さんお茶淹れて」

突然聡次郎さんが話しかけてきた。

「はい?」

「お茶、淹れて」

聡次郎さんは笑顔で私にお茶を要求する。穏やかな声ではあるけれど目が笑っていない。それに普段『梨香』と呼ぶのに『三宅さん』と呼んだのにも違和感だ。社員にバレた方が好都合だと言ったくせに。

「はい……」

返事をして立ち上がると、ちょうど電気ポットのお湯が沸いたところだ。

「そうじ……専務、龍清軒でいいですか?」

『聡次郎さん』と呼びそうになり焦った。他の社員がいるのだから油断できない。

「ああ」

素っ気ない返事を聞くと急須にお茶の葉を少し足した。

「皆さんも飲まれますか?」

給湯スペースから顔を出し会議室に残った他の社員にも聞いたけれど、みんな首を横に振った。聡次郎さんの顔色を伺っているようだ。その聡次郎さんは不機嫌丸出しといった表情で私を見ている。

「そうですか……」

顔を引っ込めると今度は私が機嫌を悪くして顔を歪ませた。まるで聡次郎さんが会議室の雰囲気を暗くしてしまったようで腹が立った。一応私は龍峯で働いていこうと思っているのだ。嫌な印象を残してほしくないのに。

2人分のお茶をトレーに載せてテーブルに運ぶと、社員は書類をまとめて会議室から出て行ってしまった。聡次郎さんと2人きりで会議室に残されてしまった。

「もう、社員さん逃げちゃったじゃないですか」

「逃げたわけじゃないだろ。飯食いに行ったんじゃね?」

自分が追い出したかもなんて少しも考えない聡次郎さんに呆れる。

「どうぞ」

聡次郎さんの前にやや乱暴に湯飲みを置いた。
無言でお茶を飲む聡次郎さんを視界から追いやって目の前のお弁当に集中する。

「いただきます」

我ながら美味しいお弁当を作ってしまった。すぐに機嫌が直った私はジャーマンポテトを口に入れた。

「まあまあだな」

私が淹れたお茶を飲んだ聡次郎さんはまたしても微妙な感想を言った。
この間よりは上達したはずなのに。
聡次郎さんの言葉にがっかりしながら、私も自分で淹れたお茶を飲んだ。やっぱり淹れ方が上手くなっている。龍清軒の甘みを少しは引き出している。

「そうかな……上達したと思ったんだけど……」

お茶屋の人からすると私のお茶はまだまだなのだろう。けれど私より不味いお茶を淹れる聡次郎さんには言われたくないのに。

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