【迎え】
【迎え】
「リーシャ、いいかな?」
ファリドの声だった。
紅茶が冷め切るほど放置していたリーシャは、ハッと顔をあげた。
扉を丁寧に叩く音が聞こえ、リーシャは己が流した涙を袖口で拭う。こんな時、袖が長いデザインは便利だ。
「はい、どうぞ」
リーシャは立ち上がり、入ってくるファリドを迎えた。ファリドは1枚の紙を持って、自分に近づいてくる。
「結婚証明書、持ってきた。これにサインしてくれるか?ちゃっちゃと出してしまおう」
ファリドはテーブルの上に紙を広げる。
結婚証明書には、誓約の文言が並べられ、最後に2人が署名する蘭がある。
ファリドの名前はすでにサインされており、あとは自分の名前を書くだけの状態になっている。
(真相がわかったところで、私はどうしましょうか――?)
リーシャは結婚証明書を見て、固唾を呑み込む。
「婚約生活が長かったが、俺達なら良い夫婦になれるだろう」
また、ファリドは自分の肩を抱く。力強い彼の腕に抱かれ、リーシャは複雑な気持ちになった。
ファリドとは、彼の言う通り、長年婚約している。アレクセイに言われるまま、自分はファリドと婚約をした。
「···ファリド」
リーシャは視線を彷徨わせる。彼は眉を吊り上げた。
「···何だ?リーシャ、泣いていたのか?どうして···」
自分の赤い目に気が付いたのだろう。
リーシャは涙を流していたことを恥じ、もう一度軽く顔を袖で拭う。
「···この紙を、捨てましょう。私達には不要です」
リーシャは思い切って、言った。ファリドは驚愕する。
「えっ!?どうして急に、ここにいる間に何かあったのか?」
「あなたが、この結婚を望まないでしょう」
「···何を言っているんだ?望んでいるから、結婚証明書にサインしたんだろう」
ファリドはテーブルに広げた書類を手に取り、リーシャの前に見せた。確かにファリドはサインをしている。
「リーシャ、マリッジブルーか?俺達は、ずっと婚約していたじゃないか」
「そうじゃ···ないのです」
ファリドは軽く笑って、自分の肩を抱いている。
リーシャはいつもなら微笑んでいただろうが、今となっては笑えなかった。
また涙が零れてしまい、ファリドは唖然としていた。
「リーシャ···どうしたんだ?」
自分は、物語を読んでいても涙を流すことなどない。
誰かの話を聞いて、同情から涙を流すなんてこともない。
ファリドは自分の初めての涙を見て、どうして良いかわからないようだった。おろおろとした彼を前に、リーシャは涙を止めようとしても、止められなかった。
「女帝なんて話に、不安になったか?大丈夫だ―――聡明な君になら、できる」
リーシャは涙を流しながら、首を横に振る。
(そうじゃないのです)
「お義父さんは、君に女帝に即位してもらうために教養を学ばせたんだ。君は聡明だ。必ず、今のニコライ皇帝以上に良い女帝になれるだろう」
(違うんです)
リーシャは、顔を隠したまま、首を横に振る。
まるで子供のようだと自身を嫌悪したが、流れる涙は自分の意思と反し、流れ続けた。
「ファリド様」
とんとんと扉をたたく音が聞こえてきた。
ファリドが返事をすると、枯葉色の髪のメイドが入ってくる。リーシャは顔を見られたくなくて、顔を背けた。
彼女から怪訝な目で見られていることを意識し、顔が熱くなる。
「マスロフスキー様がいらっしゃっています」
「何?」
はい?とリーシャも顔をあげれば、怪訝にしているメイドと目が合う。
(···ルカさんが、こちらに···?)
まさか、彼がこんなにすぐ来るとは思わなかった。
来るかもしれないとは思っていたが、あまりの速さに驚いた。
「···玄関にいるのか?」
ファリドは神妙な面持ちで、メイドに尋ねる。
メイドがこくりと頷いたのを見て、ファリドは扉に向かっていった。
「ファ、ファリド···」
「大丈夫だ、リーシャ。君をもうマスロフスキーになんて渡さない」
ファリドは扉を開け放ち、玄関に向かっていく。
リーシャは顔を隠しながらも、ファリドを追いかけていった。彼は自分が追いかけていることを知りながらも、足早に螺旋階段を降りていく。
彼1人で、ルカと片をつけるつもりなのだろう。
「シュレポフ、夜分遅くにすまないね」
リーシャは階段の上から、玄関の扉の前に立つルカの姿を見た。
(ルカさんに、エミール···)
彼の後ろには、エミールや、彼の屋敷にいた男の使用人たちが数名連れ添っている。
「何の御用ですか」
ファリドはぶっきらぼうだった。
憮然とした彼は螺旋階段を降り、つかつかとルカに向かっていく。一方で、ルカはにこにこと微笑む。
「いやね、先程ボクの屋敷に来たと聞いたんだ。ボクの家から、彼女を奪ったんだって···?」
ルカが瞳を動かしーーー階段上にいる自分と目が合うと、言葉をなくした。
(あ···)
リーシャも、彼の灰色の瞳を見て、息を呑んだ。
潤んでいる目が、見られてしまった。今までで1番リーシャにとっては恥ずかしかった。
(嫌ですね···)
慌てて顔を隠す。
涙を見られることなどなかったため、顔を赤らめざるを得ない。まるで裸を見られたかのような気分であるーー。
顔を塞いだ瞬間、手を強く叩くような音が、響き渡る。