執行人
がやがやと騒がしい室内を見回して、男性は感慨深げに息を吐く。
外はもう暗いというのに、そこら中に人が居て、各々好き勝手に話している。男性がこの世界、ハードゥスに流れ着いたばかりの頃は、そんな光景が拝めるとは思えなかった。
(あの頃は俺と妹しか居なかったからな)
男性がハードゥスに流れ着いてどれだけの時間が流れたものか。二十年、いや三十年、それとももっとだろうか。年を数えている暇もなかったからそれも曖昧だ。
現在では町には人が溢れ、最初の頃は用意されていた住居も、今では自分達で用意しなければならなくなった。そのためにと、ハードゥスの神として崇められているれいは、町周辺の平原を拡げて、その中に安全な森を築いた。おかげで住民はそう苦労することなく木材の調達が出来ている。
人の増加に伴いルールもより厳密に細かくなり、法と呼んでもいいのではないかというぐらいの代物になった。
といっても、日に何回かちょっとした喧嘩が起きるくらいで、特に問題は起きていないが。いつの間にやら造られていた牢屋には、一晩頭を冷やすために入れられる者がたまに居るぐらい。
(その原因の多くはこれだと思うが……)
男性は手元の木製のジョッキに目を向ける。その中には薄茶色の液体が入っていた。それは木の実から作ったらしい酒であった。
それを作ったのは、現在男性が居る酒場のオーナーである男。元の世界では酒が好きだったらしく、ハードゥスに来てからはまず元々酒場だったらしい建物を貰い、そのうえで酒を飲みたさに何年もかけて酒を作っていた。最初はアプーの実で作った果実酒だったか。
それから試行錯誤して種類を増やしたものだが、それのおかげで酔っ払いが誕生したというわけだ。
人が増えたので、ハードゥスでも通貨を使用するようになった。元々は持ちつ持たれつの互助だったものが物々交換になり、今では通貨まで使用している。急速に発展しているような気になるが、どれもそれぞれの元居た世界の再現でしかない。
とはいえ、人は増えてもまだまだ村に毛が生えた程度なのが実情なので、お金を使う場所など限られている。この酒場はその数少ない場所の一つだ。
がやがやと煩いのは、夜に開いている店となるとここしかないからだろう。酒とツマミ程度のちょっとした料理しかないが、それで十分過ぎた。
(そういえば、向こう側は順調なのだろうか)
平原が拡がったのと町に人が溢れたことで、少し離れた場所に新たに村を造っていた。開拓というには楽なものだが、現在は家を建てるので忙しい様子。
そちら側の方は、男性の妹が取り仕切っている。そして、こちらの町は男性の仕切りであった。最古参故に、ということらしい。
周辺の森については、そこまで深くは踏み込めていない。神殿までは何とか到達できたが、地下迷宮は一度潜ってみたがすぐに戻ってきた。そこを徘徊している骸骨が異様に強かったとか。
町の方に森の探索組合という物が出来ているが、そんな物が出来るぐらいには森を調べる者も増えた。
(……城、どうしよう)
つい最近、町の中央に大きな城が流れ着いてきた。折角なので、町を取り仕切っている男性に住んではどうかという話が持ち上がっているのだった。
男性は断っているのだが、誰かが住まなければ勿体ないと言われ、そしてそんな場所に住むのであれば、それは町を取り仕切っている者が相応しいだろうという話を何度もされている。
では町の管理をしているメイマネに、という話を男性はしたのだが、メイマネには、別に自分は人を取りまとめているわけではないと言って断られていた。
確かに最近貰った家は手狭になってきていた。子供が増え、今では子供が結婚するまでになっている。そして家が不足しているので、一部の子供達とは一緒の家に住んでいた。
住居を城に移せば、それが一気に解決する。子供達が一緒に住むかどうかは分からないが、仮に一緒に住むにしても、今度は広すぎるという問題が出てくるが。
酒を飲みながら、男性はどうしたものかと思案する。
その時、離れたところから大きな声が聞こえてきた。どうやら酔っ払い同士の喧嘩らしい。多少の口論程度なら問題ないが、酷い場合は外に出さなければならない。
男性がそちらの方を見てみると、喧嘩しているのは森を探索している者達だった。このまま殴り合いに発展すれば面倒なことになるだろう。
男性もそれなりに強いのだが、喧嘩している二人もまた強い。そんな者達の喧嘩を無傷で止められるかと言えば、男性では少々やり方が粗くなってしまうだろう。
しかし、そこで男性は一緒の机を囲んでいる相手に目を向ける。そこにはジョッキに口を付けて静かに酒を飲みながらも、視界の端で喧嘩の様子を確かめている男の姿。それは男性の義弟で、強さは男性よりも上だ。なので義弟の力を借りれば、喧嘩になっても問題なく止められるだろう。
それを確認した男性は、内心で安堵する。いくら取りまとめになったとしても、面倒なものは面倒なのだ。あまり被害が出ると色々と処理しなければならない仕事が増える。それなりの規模に膨れ上がった結果とはいえ、学の無い男性には大変なのだ。
そんなことを考えながら内心で溜息をついていると、喧嘩はヒートアップしていた。周囲にははやし立てる者まで出る始末。
男性は頭が痛くなってきたが、店主が「喧嘩するなら外でしろ!」と怒鳴ると、二人は店を出ていった。
そこまではよかったのだが、外に出たことで即座に殴り合いに発展。幾人か外に出て歓声を上げている。
男性は小さく息を吐き出すと、渋々外に出る。ただ軽く殴り合うだけならばいいが、どちらかが死んでしまったら本当に面倒なことになってしまうので、そろそろ止めておかなければならなかった。
そんな男性の後に男性の義弟が続く。
「すまんな」
「いえ」
手伝ってくれる義弟に礼を言うと、義弟は苦笑するように首を振った。義弟は男性の苦労を理解しているだけに、礼を素直に受け取れなかったのだろう。
そして外に出てみると、二人は殴り合いをしている最中だった。
口を切ったのか口の端から血を流したり、腕に青あざを作ったりしているが、まだ喧嘩と言える範疇だったので男性は安堵しつつも、止めようと口を開く。が、どうやらそれは遅かったようで、男性が何かを言う前に。
「騒々しいね」
ゾッとするような冷えた声音が周囲に響く。決して大きくはない声だというのに、その声が聞こえた瞬間、水を打ったようにしんと静まり返った。喧嘩をしていた者達も、動きを止めて青い顔をしてその場に立っている。
男性が声がした方に顔を向けると、そこには月明かりに照らされてやって来る一人の人物。
その人物は、透き通るような青紫の短い髪をしていて、独特な意匠の着物という服に身を包み、鋭い目つきにだが、男性とも女性とも言える凛とした顔立ちをしていた。
その人物を見た男性は、全身に嫌な汗を掻き、頭を抱えて叫びたくなった。なにせ、最も見られてはならない人物に現場を見られてしまったのだから。
喧嘩していた二人も含めて、その場の全員がそれを理解している。酔いなど一瞬で吹き飛んだ。
「殴り合いをしていたようだね」
「え、あ、いや、少々悪ふざけが過ぎただけでして、そろそろ止めようとしていたところでして……」
しどろもどろになりながらも、男性は喧嘩していた者達を庇うように相手に近づいてそう弁明する。
「そう。でも、殴り合いをしていたことに変わりはないよね? 怪我もしているようだし」
「それは、そうなのですが」
男性はどう言えばいいかとこれ以上ないほどに高速で頭を回転させる。
目の前の人物は執行人と呼ばれており、れいの代行としてこの世界の秩序を保っている存在の一人。
同様の存在がもう一人いるのだが、現在男性と言葉を交わしている相手であるネメシスは、とにかく融通が利かない存在だった。
今回の件で言えば、殴り合いをしたということに対する処罰をするが、それに対しての斟酌は一切しない。どのような理由であれ、罪は罪として事務的に処罰していくだけ。
更に、ネメシスがまともに話を聞くのは、同じ執行人のもう一人の存在だけ。ネメシスの意見を確実に変えさせたいのであれば、れいを連れて来なければならないほど。れいの言葉であれば、如何な内容であれネメシスは絶対に服する。
そして、現在そのどちらも近くには居ない。つまりは、男性が何を言おうともネメシスは意見を変えないだろう。
ちなみに、殴り合いの喧嘩だと喧嘩した全員が牢に数日入れられる。しかし、これを男性やメイマネ辺りが裁定すると、一晩牢に入れて頭を冷やさせたら釈放していた。今のところそれで十分に反省させられている。少し日が空くとまた喧嘩することもあるが。
周囲で喧嘩をはやし立てるのもまた罪で、こちらは一日牢に入れられる。
どちらも牢屋ではなく労働をするという罰もあるが、どちらになるかはその時次第。
今回の場合で言えば、労働だろう。村を造っている最中なので、労働力としてそちらに回すことになると思う。だが、今回の喧嘩は普段よりも少しだが盛り上がりすぎていた。そこが少しだけ男性に嫌な予感を抱かせていた。
(救いは喧嘩だったということだろう)
単なる喧嘩に対する罰は大して重くはない。男性はこの事態を穏便に済ませられないかと考えながらも、そう考えていた。罪状によっては、問答無用で斬られていたかもしれないのだから。
「それに周囲の者達も殴り合いを煽っていたようだし」
「はい。ですので、全員をこれから牢に入れようと思っております」
刑の執行からは逃れられないので、男性はこちらでしっかりと裁いておきますよと、細やかながらもアピールしてみる。ちゃんと刑は執行されるというのが分かれば、もしかしたらここは引いてくれるのではないかと淡い希望を抱いて。
「いや、全員労働でいいだろう。丁度どこまでやれるのか測りたいことがあったところだし」
しかし、無慈悲にそう告げられる。それはおそらく、村を造る労働よりも危険な労働なのだろう。死ぬことまではないだろうが、それでも五体満足で帰ってこられる保証はない。刑罰には労働としか決めていないのだから、どんな労働でも労働は労働だ。
それでも死なないだろうと思えるのは、そこで命を落としたら、ネメシスとしては死罪と考えるだろうから。
だが、それは生きてさえいればいいという答えにもつながりかねない。
「測りたいことですか? それは一体何でしょうか?」
町を纏めている者として、その辺りは聞いておかなければならないだろうと判断した男性は、ネメシスにそう問い掛ける。
「なに、特別なことをする訳ではないよ。ただちょっと魔物と戦ってもらうだけさ」
「魔物と? それは一体どんな魔物なのですか?」
「そう心配せずとも、ただの子猫だよ」
「子猫ですか?」
「そ、子猫。最近流れ着いてきたばかりで、少し強さを調べてみるだけさ」
「……それはれい様はご存知なのですか?」
「当然、報告はするよ」
「しかし、未知の相手というのは……」
ハードゥスに流れ着く魔物はどれも強い。なので、仮に弱そうな相手だとしても、油断は出来ないのだ。
そんな中で未知の存在の相手だ。れいであれば戦うまでもなく調べられるし、彼我の差というのも観測して算出できるので、言動からは分かりにくいが、れいは結構安全に配慮してくれる。
しかし、ネメシスはそこのところが不明。おそらく彼我の差を把握出来る能力はあると思うのだが、それをしっかりと役に立てるかはまた違った判断を要するだろう。
ネメシスは罪に対しての罰が苛烈になる傾向があるように男性には思えてならなかった。
それからも何とかのらりくらりと躱しながら方針を変更させようとするが、ネメシスの意見は全く変わらない。しょうがないので、従来通りの罰だけではなく、それよりも少し苛烈な罰まで提案してみたが、それでも無意味だった。
「ここでこのまま話していてもしょうがないから、さっさと全員移動するとしようか」
男性との会話に飽きたネメシスは、さっさと刑の執行をすることにした。何を言われても意見を変えるつもりは無いので、変わらないのであれば、論ずるだけ無駄であるという判断から。
それに、ネメシスは基本的にれいとれいが創造したモノ以外は全て公平に見下しているので、最初からまともに話を聞く気など欠片も無かった。
そういうわけで、ネメシスは強制的に殴り合いをした者とそれを煽った者を漏れなく刑場へと招待したのだった。