27話 パンジー
黒崎流奈は大福を食べ終え、ゆっくりと冷め始めたコーヒーを口に運んでいた。チョコ大福なんて初めて食べた。おもちの中にチョコレートが入っているなんて、世の中にはいろんなおいしい食べ物があったんだ。スイーツなんてほとんど食べたことのない流奈は自分がいかに狭い世界で生きてきたのか再認識した。
狭い水槽の中で死ねないように、死なない程度に生かされてきた。なぜその異常さにもっと早く気が付かなかったのか。もっと早く逃げられなかったのか。もっと早く気が付いていたとしてもわたしは、逃げることができたのだろうか。
もしも英司がこの家の近くまで来ていたら? 玄関を無理やり壊して中に入ってきてしまったら? わたしはもしかして、とんでもなく迷惑なことをしてしまったんじゃないか。
頭に浮かんだ怒り狂った英司の姿は消えてくれない。突然、頭を抱えて叫びたくなる。
ふと、容子と明日香のマグカップが空になっているのが目についた。そうだ、泊めてもらうのだから洗い物くらいしないと。わたしはとんでもない迷惑を押し付けてしまっているのだから。流奈は残りのコーヒーを一息に飲み干し、椅子から立ち上がる。
「マグカップ、洗いますね」
取っ手をつかんで引き寄せるとスゥーッとなだらかな音が奏でられた。
「いいのよ、流しに置いておいてくれれば」
「いいんです。やらせてください」
せめてこれくらいは、とそのあとの言葉は声にならず、喉元で消えていく。右手に二つ、左手に一つ。右手のマグカップがぶつかる音が、幕切れに響く析のように、お茶会の終了を知らせる合図となった。軽い金属音が、灰皿が床に落ちた時の音と重なる。あの時の音はこんなんじゃなかった。もっと重たくて、鈍い、やろうと思えば人間を殺してしまえる音。わかっているはずなのに――。
「わたしも手伝うよ。夕飯のお茶碗も洗ってなかったし」
マグカップをつかんだまま固まっていた流奈はハッとする。大福の抜け殻をつかんで立ち上がった明日香が、流奈の肩にぽんと手を置いた。
「二人ともいいのに。お母さんがあとでやるから歯磨いて寝る準備しなさい」
共にキッチンに移動して洗い物を始めると、容子が小さな子供に話しかけるように言う。
「いーの。お母さんこそ、最近働きすぎじゃない? ちゃんと寝てね。もう若くないんだから」
「あら、失礼しちゃうわね」
首を傾げて容子がころころと笑う。それから特に何も言うことはなく、黙って仕事用の手帳に何やら書き込み始めた。
ケンカなんてしたことがなさそうな親子。仲の良い親子の姿をこれでもかと見せられる。うらやましい、いいな、壊したくないな。ますます流奈の罪悪感は募っていった。冷たい水がせっかく暖まった手を冷やしていく。
「あんまり気つかわなくていいんだよ」
流奈が洗った皿やマグカップを拭いて棚に戻しながら明日香がささやいた。
「ううん、家事やってるのが当たり前だったから、何かしてる方が落ち着くんだ」
これは本心。何かしていない気が狂ってしまいそうだった。
洗い物が終わって時計を見ると零時をまわっていた。流奈は容子が先ほどコンビニで買った新品の歯ブラシを開けて、シャコシャコと歯を磨いている。脱衣所の隅に併設された洗面所にはまだほんのり入浴剤の匂いが残っていた。
温かいお湯につかって、甘いお菓子を食べながらコーヒーを飲んで、会話を楽しむ。もしかしたらここは夢の中なのかもしれないと思った。明日香の家にいることも、お父さんにけがをさせてしまったことも。朝起きたら夢から覚めてまたいつも通りの日々が始まるのかもしれない。なら、誰にも迷惑をかけていない。またわたしが心に鍵をかけて耐えればいいだけなんだ。
「どうしたの? ぼうっとしちゃって」
「……夢かもしれないなって」
明日香も隣で歯を磨き始める。
「夢じゃないよ。流奈は自分の足で、走ってこれたんだよ。わたしもお母さんも迷惑なんてちっとも思ってないよ」
明日香は心が読めるのかと思った。歯ブラシをくわえたまま目を見開いて明日香と目を合わせる。
「なんか難しいこと考えてそうだなって思ってさ」
風に凪ぐ花のように明日香が笑う。その笑みが流奈の心の凝り固まった何かを暖かく照らして、溶かしていく。
口を濯ぐと中の傷がぴりぴりと痛んだ。傷が痛い、ならきっとこれは夢じゃない。
*
「お母さん、おやすみ」
「お、おやすみなさい」
歯を磨き終えて、明日香の真似をして流奈も挨拶をする。
「はい、おやすみなさい」
胸の奥がむずかゆく、何とも言えない気持ちになった。容子の眠気を誘うような柔らかい声が耳を撫でる。おやすみ、なんて言ったのはいつ以来だろうか。おやすみなんて、言ってもらったことはあっただろうか。明日香の後ろを歩きながら、記憶の箱をひっくり返して探してみる。
リビングの奥の二回だけ入ったことがある部屋。本がたくさんあるせいで、ほんのりと図書館みたいな匂いがする明日香の部屋の机には、参考書やノートが出しっぱなしになっていた。明日香はてきぱきと参考書を本立ての中に閉まっていく。
「ごめんね。勉強してたところだったよね」
明日香は受験生なのにわたしが押し掛けたことで邪魔をしてしまった。また何かが胸を支配していく。元来自己否定的な性格の流奈はどんどん落ち込んでしまう。
「勉強なんていつでもできるよ。なんで謝るの」
明日香が少しだけ困ったように目じりを下げて笑った。その笑顔にまた少しだけ心が軽くなる。
「さすがにそろそろ寝ないとね。電気消してもいい?」
「うん、大丈夫だよ」
カチリと音がして室内には暗闇が訪れる。窓際に寄せられたシングルベッドに体を滑り込ませる二人。明日香が窓際、流奈が入り口側。シングルとはいえ細身の二人の間には隙間がある。けれどそれは隣にいることがたしかにわかる程の隙間だ。視線の先には天井がある。流奈の見つめる先には、いつも自分をあざ笑う三つのシミはない。
「さっきお風呂でびっくりしたでしょ。ごめんね、変なの見せちゃって」
改めて、お礼を言おうと口を開いたはずなのに全く違う言葉が出てきた。また、困らせてしまった。沈黙が流れる。
「変じゃないよ。全然、変なんかじゃない」
吐息の混ざったかすれた声が聞こえた。
「ほんとはね、一人で寝たくなかったの。誰かといっしょに寝たかった。そうじゃないと、わたしはわたしがここにいるってことがわからない気がして」
視界いっぱいに広がっていた天井が明日香の横顔に変わる。流奈が横を向いたせいで二人の距離が少しだけ近づいた。
「ありがとう。明日香」
明日香の視線は変わらず天井を見つめている。
「お礼なんて……。ほんとはもっと早くなんとかしたかった。ずっとお母さんにも相談してて、調査とかそういうのも進めてくれてたんだ。でも間に合わなかったね。ごめんね」
言葉があふれるほど、明日香の声はかすれて、震えていった。
「なんで明日香が謝るの。いくじなしのわたしが悪かったんだよ」
「ごめん、ごめんね」
明日香の目尻に月の光が反射したのを流奈は見逃さなかった。
「ありがとう。明日香」
軽く握った明日香の手は暖かい。明日香の手を握った瞬間に記憶の奥底から、母親のおやすみ、という声が聞こえてきた。自分を置いて出て行った、でもたまに優しくしてくれた母。
その声と共に睡魔が一気に襲ってきた。眠ることはできないだろうと思っていたけれど、体はもちろんへとへとだ。懐かしい母の記憶と、明日香のぬくもりに包まれて流奈は深い夢の世界に落ちていった。