26話 ヒイラギ
久保明日香は自分の寝間着を脱衣所の洗濯カゴの中に入れる。容子からの聞き取りを終えてお風呂に入っている流奈に貸すためだ。
「流奈、服置いておくね」
ありがとう、という流奈の声が、エコーがかかった状態で耳に届いた。
明日香の横でゴウンゴウンと唸る洗濯機は流奈の下着を洗っている。服なら貸せるが、さすがに下着は貸せない。ショーツはコンビニで容子が買ってきたけれど、ブラジャーまではさすがには売っていなかった。そういうわけで急遽、洗濯機が活躍することになったのだ。
もちろん、もうかなり遅い時間で近所迷惑かもしれない、とは考えた。一軒家ならまだしも、集合住宅は音がかなり響いてしまので迷惑になりやすい。しかし、今日だけは許してほしい。明日香は心の中でご近所さんに謝罪の言葉を述べた。
「明日香、まだいる? シャンプーってどれ?」
脱衣所から出ようとしたときにお風呂場からくぐもった、自分を呼ぶ声が聞こえた。
久保家ではシャンプーやトリートメントは百円ショップの容器に詰め替えているため、ぱっと見でわかりにくい。明日香はお風呂に案内した時に教えようと思ってすっかり忘れていた。シャンプーは一番右だったか、それとも左だったか。あえて思い出そうとすると思い出せない。
「オレンジ色でちょっと透明っぽいやつ……って容器が半透明だからわかりづらいかな。ちょっと開けてもいい?」
一拍、間があった後に「いいよ」と返事が返ってくる。明日香はその間がなんだったのかわかってしまった。ほんの数秒前の自分の発言は間違いだった。そのまま口頭で伝えるべきだったと、後悔する。しかしもういいよと返事をもらってしまったので開ける以外の選択肢はない。一瞬ためらったのち、意を決して風呂場の戸を薄く開けた。
むわっとした蒸気が顔にかかる。
湯気の向こうにいる流奈の体は、明日香の想像以上に傷だらけだった。腕や足のあざ。顔と膝の擦り傷、背中には煙草を押し付けられたやけどの跡もあった。どんなに暑くても絶対に長袖を着て、可能な限り見せなかった肌。それは明日香の目に、あまりにも凄惨に映った。
「そ、その一番右のやつがシャンプー。真ん中がトリートメント。左端がボディソープだよ」
「ありがとう」
ほんの少しだけ、声が裏返った。流奈も決まずい雰囲気で若干、傷ついた口元を引きつらせている。失敗したかな、そんな空気が入浴剤の匂いに紛れて風呂場いっぱいに充満していく。
「じゃあ、ゆっくりで大丈夫だから、ちゃんとあったまってね」
そんな母親のようなセリフを言って、なるべく嫌な印象にならないようにそそくさと扉を閉めた。
*
流奈に続いて明日香、容子、と入浴を済ませた後、リビングにはゆったりとした空気が流れていた。明日香はまた流奈の傷に丁寧に絆創膏を貼る。家に来たときはひんやりとしていた肌も、すっかり温まっていた。
「自分でできるよ」
「いいよ。顔とか自分でやるの大変でしょ? これくらいやらせてよ」
そう言われ、されるがままの流奈は、初めて明日香の睫毛が長いことに気が付いた。いつも下を向いてばかりで、知らなかった。先ほどよりも余裕をもって、自分の膝元にしゃがみこんで手当てをしてくれる友達をじっと見つめる。
「なに?」
「ううん、なんでもない。ありがとうね」
ふるふると首を振る流奈がかわいらしい。自分はいつも通りの久保明日香でいられているだろうか。そのことが明日香の心をきつく締め付けていた。
「明日香、流奈ちゃん。さっきコンビニ行ったときにお菓子も買ってきたの。みんなで食べましょう」
キッチンから流れるにこやかな容子の声が二人を包み込む。
「こんな時間に? 太っちゃうよ」
「大丈夫よお、若いんだから。チョコ大福だって。おいしそうでしょ?」
冷蔵庫から取り出した大福を三つ、明日香たちに見えるように掲げた。
「じゃ、わたしコーヒーいれるね」
「コーヒーはだめよ。もう夜遅いんだから眠れなくなっちゃうわよ」
「大丈夫だよ。流奈もコーヒー飲みたいよね」
ぼうっと、仲の良い親子の掛け合いを見ていた流奈は突然同意を求められて慌てて頷いた。
「う、うん。あ、わたしがやります。お手伝いしたいですし……」
「ほおら。わたしらでやるからお母さんは座ってて。よし、手当ても終わったし、一緒にキッチン行こ」
ころころと笑いながら会話をする明日香の笑顔は、学校でよく見ている笑顔よりも少しだけ幼くて、母にそっくりだ。映画のワンシーン。フィクションだとすら思っていた仲の良い親子の姿は、現実にきちんと存在するものなのだと、強く実感した。
二人が押し掛けたせいでキッチンは渋滞だ。容子がダイニングテーブルに腰を下ろしてくれたおかげで渋滞は緩和され、ぶつぶつ言う声は、聞こえないふりをすることにした。
「入れるっていってもインスタントだけどね」
「前も思ったけど、仲良いんだね、明日香と明日香のお母さん」
「うん、仲良しだよ」
これが正解の答えなのかはわからない。けれど、隣でマグカップにコーヒーの粉を入れる流奈が、いいな、と呟いた。よくよく聞かないと聞き逃してしまう、さらさらと落ちる砂の音のような声で。それと同時に流奈の顔が今まで見たことがないほど柔らかくほころんだ。不正解の答えではなかったのかなと、ほっと胸をなでおろす。
沸いたお湯で粉を溶かした、香ばしい匂いの黒い液体。チョコ大福とともにダイニングテーブルに持って行って、座る。
「おいしい?」
大福にかじりつく流奈に容子が聞く。こくこくと頷く流奈の目は輝いていて、全身の傷がなければ、普通の女子高生のようだった。
「よくチョコもらってる気がする」
「すごくおいしそうに食べるから、好きなのかと思って」
春の、保健室の光景が二人の脳裏に蘇る。
「これからのことなんだけど、とりあえず明日は婦人科に行きましょうね」
コーヒーをすすりながらも真剣な声色に、ぼうっとしていた流奈ははっとした。
「婦人科……? あの、わたし、生理とか来たことなくて。なので婦人科じゃなくても……」
どんどん小さくなる声と、どんどん下を向く唇。マグカップをテーブルに戻す手がぴたりと止まった。
「なら、なおさらよ。とにかく明日は病院ね。明日香はちゃんと学校に行くのよ」
「え、わたしも病院ついていくよ」
マグカップがこつんと足を付ける。今日も明日も平日。学校は当たり前のようにある。
「だめよ。受験生でしょう」
受験生、という言葉を使われてしまえばぐうの音もでない。はあい、と蚊の鳴くような声で返事をすると、先ほどからぎゅっと拳を握りしめてうつむいていた流奈が、ぱっと顔を上げて唇を動かした。
「わたしもまた、学校行きたいです。満里奈と希美にも会いたい」
「もちろん。流奈ちゃんがこれから安全に暮らしていけるようになんでも協力するわ」
容子と流奈のやり取りを聞いている明日香は明日、どうしようかと考えていた。満里奈と希美になんて言おうか。流奈が休むなんて二人も心配だろう。
「そういえば、今日はわたしの部屋のベッドで寝てね。ちゃんと片付けたから。わたしはリビングで寝るから」
「え、わたしがリビングで大丈夫です。そんな、泊めてもらうのに……」
「いいのよ、片付けたい仕事もあるしね」
流奈はまた顔を下に向けてしまう。大きな瞳を縁取る睫毛が、申し訳なさそうに揺れる。
「なら、流奈もわたしの部屋で寝る? お客用の布団とかないから同じベッドだけど」
「う、うん。それがいい」
流奈が勢いよく首を振る。
「二人がいいならいいけど……狭くない?」
「大丈夫だよ。なんかお泊り会って感じでいいね」
明るく言う明日香の口の中で、チョコレートの甘みとコーヒーの苦みが混ざり合う。喉を通っても体の奥へは落ちていかず、胸のあたりに染み込んでいく。罪悪感。そんな三文字の感じで表わせられるものではない何かが。