25話 ブルーデイジー
暖房をつけるか悩む程度のひやりとした空気が漂うモノクロの部屋。その部屋で受験勉強をする久保明日香の手元からは、かりかりとシャープペンを走らせる音が流れている。
上下セットの、黒いスウェット姿の明日香。たくさんの書き込みやマーキングがされた参考書をちらちらと確認しながら問題を解いていく。流奈に図形の証明を教えてもらって以来、数学の勉強はかなりはかどっていた。問題文を解いて、回答を組み立てていく作業が少しずつ楽しく思えるほどに。勉強が楽しいと思わせることができる流奈はやっぱり教師に向いているだろう。図形の証明と出会うたびにそんなことが脳裏をよぎっていた。
受験を控えている明日香にこの秋の時期はとても大切だ。いまどれだけ勉強をするかが、今後の人生を左右すると言っても過言ではない。
パタンとペンを置く。ぐっと上に伸びをして、脱力と共に椅子にもたれかかった。伸びをした時にほんの少しだけ顕わになったへそを、冷たい空気が撫でる。
コーヒーが入ったマグカップに手を伸ばす。夕食を食べ終えて、部屋に戻るときに持ってきたコーヒーはすっかり冷めてしまっていた。たいして入っていないコーヒーを流し込むと、冷たい液体が食道を通って胃に落ちる。空になったマグカップはこつんと音を立てて、明日香の勉強机に足をつけた。
ふとスマートフォンを手にする。画面を確認すると満里奈と希美の三人のグループトークが、最近上映が始まった映画の話題で盛り上がっていた。たんたん、と返信を打つ。それ以外の連絡は特に来ていない。
お母さん、忙しそうだな。数時間前に容子から「今日も遅くなる」と連絡があった。それ以来何も連絡がないということはまだまだ仕事が終わらないのだろう。今日だけではなくここ数日、容子は忙しそうにしていて帰りが遅かった。
明日香は仕事に真摯に向き合う母が好きだ。それでいて娘のこともしっかりと見ていてくれるのだから、なおさら好きだった。しかし、そんな容子も決して若くはない。もう少し自分の体もいたわって欲しい。何年後かに働くようになって初めてのお給料でお母さんを温泉に連れて行ってあげよう。明日香は画面をスリープにして、よしっと言うかのようにもたれかかっていた椅子から勢いよく机のほうへ体をはねさせた。
ちょうどその時、玄関の方から来客を告げる音が聞こえた。なんだか出鼻をくじかれたような気がして、ほんの少しだけもやっとしてしまう。時計を確認すると時刻はもう二十時近い。こんな時間に誰だろう。宅配かな。
参考書とノートをかみ合うように閉じ、どこまで進んだかわかるようにしてから玄関に向かう。明日香のはーい、という軽い声がリビングと玄関をつなぐ廊下で響く。上がり框の角に右足の土踏まずを押し付け、左足を出しっぱなしのローファーに突っ込んで茶色の扉を開ける。そこには夜の闇を背にした、傷だらけの流奈の姿があった。
「え、どうしたの」
明日香の頭はフリーズする。その不安定な体勢のまま、目の前にいる流奈に何があったのかを必死で考えた。答えはひとつしかない。すぐにそう理解した明日香は「とにかく中に入って」と流奈の手を引いて自宅の中へ招きいれた。素直に家の中に入る流奈の手は冷たく、震えている。どれだけの恐怖を乗り越えて助けを求めてくれたんだろう。
リビングのソファに流奈を座らせる。エアコンの電源を入れると、ゴォ、とエアコンが暖かい空気を吐き出し始めた。
先ほどは目に入らなかったが、よく見たら流奈のジャージは膝に穴が空き、その奥にある赤い傷からはズクズクと黄色っぽい汁が滲んでいた。
「……とりあえず、傷の手当をしようか」
棚から持ってきた救急箱を手に、流奈の足元にしゃがみこんだ。ガーゼに消毒液を染み込ませて傷口に当てる。
「いたい……」
流奈は眉間にぐっと皴をよせた。
「ごめん。痛かったよね」
消毒が染みたことに対してじゃない、違う意味も含まれているような声色だった。
「顔も消毒するね」
流奈の顔の傷にガーゼをポンポンと当てる。流奈の眉間にまた皴が寄る。白い頬骨の上、、ピンク色の唇の端、丁寧に消毒して、絆創膏を張り付けていく。頬と膝の傷は大きかったので切ったガーゼをサージカルテープで止めた。
「はい、終わったよ」
言いながら、ごみをティッシュに包んで捨てに行く。
「明日香、ありがとう……」
明日香はその声を聞きながらソファに腰を下ろした。流奈はぎゅっと握りしめた拳をふとももの上に置いてうつむいている。
「何があったのか、教えてもらえる?」
こくりと頷いて薄い唇を開く。流奈が語り始めようとしたとき、ガチャリと玄関の鍵が開く音が鳴る。流奈の体がびくりと跳ねたことを明日香は見逃さなかった。
「ただいまー……って、どうしたの。流奈ちゃん……?」
娘に帰宅を知らせる明るい声は流奈の姿を確認した途端に真剣なものに変わった。どさっと、ビジネスバッグが手から零れ落ちる。容子は落ちたバッグには目もくれず、ストッキングの履いた足でフローリングを蹴る。
「流奈ちゃん。よく頑張ったね。もう大丈夫よ。本当によく頑張ったね……」
流奈の手を握りしめる。流奈の手は先ほどより、ほんの少しだけ暖かくなっていた。
「はい、ホットココア」
ソファからダイニングテーブルに移動して容子が流奈と明日香にココアの入ったマグカップを渡す。容子自身はブラックコーヒーを用意した。
「ホットココアって何ですか?」
「なにって言われたら何なんだろう。とりあえず飲んでみなよ。甘くておいしいよ」
そう言って明日香もマグカップに口をつける。
明日香と流奈が隣に座り、流奈の向かい側に容子が座っている。もともとは三人で住んでいたため、ダイニングテーブルは四人掛け。二人だとあまり気にならないが、三人で座って一つだけ椅子が余ってしまうと妙に気になった。
明日香は子供のころ、空いている椅子にはきっと、弟か妹が座るようになるのだろうと期待していた。結局、兄弟ができることはなく、両親は分かれてしまったけれど。それでも、一人っ子だからこそ愛情を独り占めできていることは間違いない。
月に何度か会う父はいつもニコニコしている。先月あったときも、今は勉強が大変だと思うけれどがんばれよ、と合格祈願で有名な神社のお守りをくれた。親が子供を愛することが当たり前ではない。それは母の仕事や世間のニュースを見てわかっていたはずだった。
けれども、いざ目の前にするとなんと声をかけていいのか全く分からない。もっと早く助けられなかったのかという自責の念と、流奈の父親に対する怒りがふつふつと湧き上がってきた。
「あまい……」
流奈が小さな声でつぶやく。口の中の傷にもココアが染みる。痛みでまた若干顔をしかめたものの、ゆっくりと口を動かして飲み込んでいく。
「それじゃあ、流奈ちゃん。何があったか聞いてもいいかな」
マグカップの中身が三分の一ほどなくなった頃に容子が本題に入り始める。仕事用の手帳とペンを手に、流奈の目をすっと見据えた。明日香の母が児童相談所の職員であることを、流奈はつい先ほど知ったばかりだ。
「はい」
「昔のことも聞くことになると思う。つらいかもしれないけれど、きちんと話してほしい。私は、私たちはみんな流奈ちゃんの味方だからね」