28話 ノースポール
久保明日香は全く眠れずにいた。流奈と手をつないだまま、天井を見つめ続けている。見慣れたいつもの天井のはずなのに、それはいつもとは違う景色に見えて、旅先で眠れなくなってしまった子供のようだった。左の手のひらはほんの少しだけ汗が浮かび、指の先の血流がはっきりとわかる程過敏になっていた。流奈がもぞもぞと体を動かすたびに明日香の方に体が寄り、今は触れあうくらいに距離が近づいている。流奈がもう少し肉付きのいい体なら胸が明日香の腕に当たってしまうくらいの距離だった。
約半年、恋焦がれた体がすぐ隣に、布と僅かばかりの空気を隔てた先にある。触れたい、けれど触れたら壊れてしまいそうで。以前動画で凍った花が砕け散るのを見たことがあった。ただ凍っているだけなのに花はこの世のものとは思えぬほど美しくて、儚く砕け散った。その映像が脳裏に鮮明に浮かぶ。もう流奈は凍った花ではない。そう信じているものの、どうにも流奈があるときふと、壊れてしまうのではないかと思ってしまう。
顔だけ流奈の方を向けると、絆創膏が一番に目についた。女の子の顔に貼られた痛々しい絆創膏。わたしは流奈を守れなかった、好きだなんて自分の気持ちに舞い上がる前にもっとできることはたくさんあったはずなのに。明日香の視界がまたゆらゆらと水面のように揺らぐ。水があふれることはなかったけれど、目尻には確かに真珠のような一滴が光っていた。
痛々しい姿とは裏腹に寝顔は穏やかで、ピンク色の口元から漏れる空気が、明日香の頬を撫でる。それはあたたかくて湿っぽくて、部屋に漂う冷たい空気のせいでより艶めかしく感じてしまっていた。
カーテンの隙間から漏れる月明かりが二人を照らす。満月でも三日月でもない中途半端な、一人では輝けない月。この月はこれから満ちてゆくのか、それとも消えてゆくのか。
月明かりに照らされた流奈の肌はキラキラと真珠のように艶めき、髪は濡れガラスの羽のように輝いていた。まさに闇夜に咲き誇る月下美人。どうか、朝になったら萎んでしまいませんように、一晩だけの夢ではありませんように。明日香はこの姿がこれからずっと、いつまでも続いてほしいと心から願った。
空いてる手でそっと、優しく壊してしまわないように頬に触れる。触れた指先から流奈の温もりが伝わってきた。
『流奈には言っちゃだめだよ』
夕焼けのシルエットの中に沈む希美の声が聞こえた。わかってるよ。口の中で転がった言葉は苦く、チョコレートのように 溶けていく。
必ずしも想いを伝える必要はない。想いをぶつけて流奈を傷つける可能性が少しでもあるなら、卒業しても時々遊んだり成人したら一緒にお酒を飲んだり、そんなことができるのならそれだけで明日香は十分だった。
鉢植えの硬くなって水が吸えなくなった土は、一度水の中に沈めないと元には戻らない。わたしは、わたしたちはその水になることはできるだろうか。
つないだ手に少しだけ力を込めた。ピクリと流奈の手が返事をする。
顔を窓の方へ向け、高い月を見上げながら、明日学校で二人になんて言おうかと考える。今まで一度も休んだことのない流奈が学校に来なかったら二人とも心配するだろう。
何で休んでるか知ってる?
流奈から何か聞いてない?
そんな質問をされるのはごく自然な流れだし、知らないと嘘をつけば余計に心配させてしまうだろう。
二人にあまり心配させないような説明の仕方を考えた。ちょっといろいろあって今はうちのお母さんと一緒にいるよ、そんな表面をさらっと撫でた程度の方がいいのか、起きたことをすべて言ってしまった方がいいのか。むしろこれは朝起きてから流奈と相談した方がいいことなのかもしれない。明日香の思考は止まることなくぐるぐると回る。ずっと考え琴をしているのだから、当たり前のごとく睡魔は訪れてこない。
見上げた夜空に、赤い光が規則的に瞬いた。明らかに人工物から発せられた光。それが月の浮かぶ星屑の海に漂っている。地球からロケットに乗って月までたどり着くのに三日近くかかる。普段は気にしたことなんてなかったけれど、よくよく考えてみたら遠い距離。その距離を埋めるために人工衛星なんてものが作られたのだけれど。明日香の思考は少しずつ輪郭がぼやけ始める。月の影が薄れて空がほんのり白んできたころ、やっと眠りについた。
*
スマートフォンのアラームが鳴り響く。全然眠れなかった。ほんの数時間程度しか寝ていない明日香は間違いなく寝不足だった。ほんのりと青いクマが浮いた目元をこすりながらアラームを止める。流奈も目が覚めたようで、もぞもぞと動き始めた。
「おはよ、流奈」
「おはよぉ」
細い体を重たそうに起こす流奈。相変わらずかわいらしい、寝起きの回らない頭でそう思い、つい口元から笑みがこぼれてしまった。
シャッとカーテンを開けると、冬だ。そう思った。雪が降ってるわけでも、特別冷え込んでいるわけでもない、昨日までとも変わらない景色なのに今日から冬なんだと漠然と感じた。
「まぶしっ……」
起き上がった流奈が眩しさにくらんだのか枕に顔を押し付ける。
「ねえ流奈、外見てみてよ。今日から冬って感じがしない?」
流奈は枕に片頬を押し付けながら顔を窓の方へ向けた。大きな瞳が朝の光を反射して宝石のようにキラキラと輝く。ピンク色の唇がゆっくりと動いた。
「うん、そうかも。冬が一番好きだな。一年のうちで一番穏やかできれいな季節だから」
「わたしも、冬が好きだよ。リビングに行こうか。朝ごはん食べよう」
若干動くのを渋った流奈だが、今日は流奈も明日香も忙しい一日になるだろう。あまりだらだらすることもできないと、リビングに向かう。キッチンで鼻歌交じりに朝食の用意をする容子。リビングにトーストとバターのいい匂いが漂っていた。
「あら、おはよう。よく眠れた?」
「はい、おかげさまで」
「ならよかった。朝ごはんできてるから座って」
二人の座る位置は昨日と同じ。
ダイニングテーブルの上にトーストとサラダと、スクランブルエッグが並ぶ、絵に書いたような朝ごはんだ。
「すごいね。毎日こんなのたべてるの?」
「うん、いつもこんな感じ。感謝してるよほんと」
「なによ急に、冷める前に食べちゃいなさい」
はあい、と軽い返事をしてパンを口に運ぶ。トーストは口元でシャクッといい音を立ててちぎれた。隣では流奈も同じ音を立てている。明日香はふと、いつだったか流奈は朝ごはんはあまり食べないと言っていたのを思い出した。
「食べれる? 重かったら無理しないでね」
「全然大丈夫。すごくおいしい」
その言葉に嘘はないようで、朝の光を浴びた瞳のまま、次々とパンやサラダを口に運んでいる。流奈はこんなにたくさん食べられる子だったのだと、初めて知った。
穏やかな食事の時間を過ごして顔を洗い、制服に着替える。紫色のスカーフを結ぶ横で流奈が明日香から借りたシャツやジーンズに着替えていた。明日香の服は流奈には少しだけ大きい。とはいえ糸がほつれたボロボロのワンピースよりよっぽどましだ。
「あのさ、希美と満里奈のことなんだけど。たぶん流奈が学校休んだらすごく心配すると思うんだよね。なんて説明しようか悩んでて」
二人の視線が絡み合う。
「全部話しても大丈夫だよ。わたしが言った方がいいんだろうけど、今日は何時までかかるかわからないって言われてるし……」
「……うん、じゃあ聞かれたらちゃんと言うね」
ありがとう、流奈は目尻を下げて、申し訳ないような表情を浮かべた。